第7章:忍び寄る影
「つむぎ、無理しちゃダメよ? でも、もしよかったら……北側の茂みまで、木いちごを摘みに行ってきてくれないかしら」
ナラが、籠を片手に申し訳なさそうに言った。彼女は今、村の広場へ届けるための薬草の調合で忙しいらしい。
私は二つ返事で引き受けた。
「任せて、ナラさん。美味しい木いちご、たくさん見つけてくるね」
外に出ると、セフィラの森は今日も優しく私を迎えてくれた。
見上げるほどに高い巨木たちが、幾重にも重なり合って天然の屋根を作っている。その隙間から零れ落ちる陽光は、まるで金色の粉を撒いたようで、踏みしめる苔の絨毯は驚くほど柔らかい。
王城の冷たさはここにはなかった。ナラに確認したところ、このあたりはドラグランドの南西に位置していて、冬でも気候は暖かく過ごしやすい場所とのことだった。
(……静か。本当に、同じ世界とは思えないくらい)
ナラに教わった通り、北へ向かって歩いていく。
湿り気を帯びた土の匂い、甘い花の香り。しばらく歩くと、緑の影の中に、ルビーのように輝く小さな粒が見えた。
「あった……」
木いちごの茂みだ。一粒摘んで口に含むと、鮮烈な酸味と甘みが弾けた。夢中で籠をいっぱいにしている最中、ふと、茂みのさらに奥、倒木が折り重なった影に、何かが光ったような気がした。
吸い寄せられるように、私は足を踏み出す。
そこには、小さな湿地があった。周囲を高いシダに囲まれ、ひっそりと守られたその場所に、その花は咲いていた。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
それは、見たこともない形をしていた。
花弁は、透き通るような淡い青。けれど、中心に近づくにつれて、宵闇のような深い紫へとグラデーションを描いている。花の中心からは、銀色の糸のような雄しべが数本伸び、その先で微かな光を放っているように見えた。
まるで、夜空を切り取って、朝露で固めたような花。
華美ではないけれど、目を離せなくなるような、孤独で、高潔な美しさだ。
(これは……なんていう名前だろう)
その花を見つめていると、なぜか胸の奥が熱くなった。
美しすぎて、圧倒される。これほどまでに純粋な色彩が、誰の目に触れることもなく、この森の奥深くで静かに完成されていたことに、言いようのない感動を覚えた。
私は迷った。折ってしまうのは忍びないけれど、この花が何であるか、どうしても知りたかった。
私はその花を一本、丁寧に手折った。茎は意外なほどしっかりとしていて、指先にひんやりとした確かな生命の重みを残した。
家に戻ると、ナラはまだ作業中だった。
私は摘んできた木いちごをキッチンに置き、大切にその花を自室に持ち込んだ。ナラが大切にしている、古びた植物図鑑を借りるためだ。
机の上に花を置き、厚みのある革表紙の図鑑を開く。カサカサという紙の擦れる音が、沈黙の部屋に響く。
この世界の文字は、言葉と同じように最初から理解できるようだった。
ページをめくる指が止まる。
「……あ」
図鑑の端、ごくありふれた野草のカテゴリーの中に、その花は載っていた。
【名称:ルナ・エッジ(月の縁取り)】
【特徴:湿地や日陰に自生する、ごく一般的な多年草。観賞価値は低く、薬効もない。家畜も好まないため、森の至る所で見られる。】
私は呆然とした。
「ごく、一般的……?」
ナラの言葉を借りるなら、「どこにでもある雑草」ということになる。
けれど、私の目には、この花はどうしようもなく特別に見えた。図鑑の挿絵では伝わらない、吸い込まれるような色彩。銀色の糸のように輝く雄しべ。図鑑は、この花に特別な価値はないと淡々と記している。
「……つむぎ? 木いちご、ありがとう。あら、何を調べてるの?」
ナラが部屋を覗き込んだ。私は顔を上げ、少しだけ胸を張って答えた。
「この花、ルナ・エッジっていうんだね。図鑑にはありふれた草だって書いてあったけど……私、この色、世界で一番好きかもしれない」
ナラは私の言葉に驚いたように大きな目を瞬かせ、それから、今まで見たこともないような眩しい笑顔を見せた。
「ふふ、つむぎは本当に素敵な感性を持っているのね。確かに、そう言われて見ると、月の光を閉じ込めたみたいに綺麗だわ。ありふれているからって、美しくないわけじゃないものね」
ナラは私の隣に座り、一緒にその花を見つめた。
「その花、つむぎに似ているわ。ひっそり咲いているけれど、芯が強くて、決して自分を曲げない感じ」
「……私に、かな?」
「ええ。そう思うわ」
ナラは私の頭を優しく撫でると、夕飯の支度に戻っていった。
しばらくして、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
「つむぎ、準備ができたわよ。今日のご飯は自信作なんだから!」
ナラの明るい声に、私は「今行くね!」と応えて、ルナ・エッジの青い花弁を指先で優しく撫でてから部屋を出た。
夕食のテーブルには、たっぷりの根菜が入ったシチューと、ナラが村のパン屋から仕入れてきたという焼きたての黒パンが並んでいた。素朴だけれど、素材の味がしっかりとした料理は、とてもおいしかった。
ナラは楽しそうに、村での出来事を話し始めた。誰かの家の羊に双子が生まれたことや、広場の泉の掃除を手伝ったこと。
私はその穏やかな日常の話を、まるで宝物を数えるような気持ちで聞いていた。けれど、ふと、ナラが黒パンをちぎる手を止め、少し首を傾げた。
「そういえばね、つむぎ。今日、村で少し奇妙なことがあったの」
「奇妙なこと……?」
私は匙を止めた。
「ええ。このあたりはセフィラの森の端っこで、領主様も滅多に干渉してこない静かな場所なんだけど……今日、村の広場に兵士が来ていたのよ」
「兵士、が……」
背筋に、冷たい氷の欠片が滑り落ちたような感覚が走る。
「そう。しかも、ただの巡回じゃないみたい。きれいな甲冑を着た、すごく強そうな人たちでね。村長さんに何か熱心に聞いていたわ。誰かを探しているみたいで、人相書きのようなものを持っていたっていう噂もあって……」
ナラは「物騒よねぇ」と溜息をつき、またシチューを食べ始めた。
彼女にとっては、それは「どこか遠くの出来事」であり、平和な日常に現れた、少し不吉なノイズ程度の認識なのだろう。けれど、私にとっては――。
(……探している。誰を? まさか、私?)
心臓の鼓動が、不自然なほど大きく、速くなる。ナラの明るい声が、急に遠くの雑踏のように聞こえ始めた。テーブルの下で、私は自分の膝に乗せた手を、白くなるほど強く握りしめた。
あの祭壇で、儀式は行われたはずだ。リュシアンは自ら、私との繋がりを断ち切ろうとした。私の意識が遠のく間際、確かに感じたあの魂が引き裂かれるような衝撃。あれは、絆が消滅する断末魔ではなかったのか。
(私はもう、リュシアン様の『凪の番』じゃなくなったんじゃないの? 役目を終えた道具なんて、あの人にとってはもう、道端の石ころと同じ価値しかないんじゃないの?)
「……つむぎ、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「あ……」
ナラが心配そうに身を乗り出していた。
「ごめん、少し……考え事をしてしまって。その、兵士の人たちは……いつまで村にいるのかな」
「どうかしら。この森の方にも来るかもしれないって言っていたけど……でも大丈夫よ、つむぎ。この家は森の奥だし、ナラがしっかり守ってあげるから!」
ナラは元気よく自分の胸を叩いた。その純粋な優しさが、今の私には刃のように鋭く突き刺さる。
もし、探されているのが私だとしたら。ナラが匿っているのが、王家から逃げ出した「凪の番」だと知れたら。
その瞬間に脳裏をよぎったのは、ナラの穏やかな日常が、竜人の放つ容赦のない業火に焼き尽くされる光景だった。
この質素だけれど温かい木造の家が、彼女が丹精込めて育てた薬草の棚が、そして、私を「家族のようだ」と呼んでくれた彼女自身の命が、私の存在のせいで、塵となって消えてしまうかもしれない。
(だめ。そんなこと、絶対だめだ)
心臓の鼓動が、早鐘を打つように激しくなる。冷や汗が背中を伝い、せっかく食べたばかりのシチューの温もりが、一瞬で氷のように冷めていくのを感じた。
「つむぎ? ほら、やっぱり震えてるじゃない。大丈夫よ、そんなに怖がらなくていいの。この森はね、心に疚しいことがある人を、簡単には奥へ通さないんだから」
ナラが私の手を、自身の温かな両手で包み込んだ。その温もりが、今の私にはあまりにも尊く、そして恐ろしかった。
(私は、ここを出ていかなければならない)
本能的な義務感が、突き上げるように胸を焦がした。ナラにこれ以上の危険を冒させてはいけない。今すぐ荷物をまとめ、この森のさらに深くか、あるいは全く別の場所へ身を隠すべきだ。彼女が「何も知らなかった」と言い逃れができるうちに、私は彼女の前から消えなければ。
けれど。
(どこへ……?)
思考が、絶望的な壁にぶつかった。私はこの「ドラグランド」という世界のことを、何一つ知らない。この森を出て、どちらへ進めば竜人の支配から逃れられるのか。どの道を行けば、あの銀髪の死神——リュシアンの手から逃げ切れるのか。
「ナラさん……私、少し疲れちゃったみたい。先に休んでもいいかな?」
「あら、そうね。今日はお外にも出たし。ゆっくりお休み、つむぎ。明日はもっと元気になれるわよ」
ナラの屈託のない笑顔に見送られ、私は逃げるように自室へと戻った。
木の扉を閉め、閂を下ろす。その小さな音が、まるであらゆる災厄をシャットアウトする結界のように感じられたが、それが気休めに過ぎないことは自分が一番よくわかっていた。
私は部屋の中央に立ち、荒い呼吸を整えようとした。けれど、視界に入るものすべてが私を急き立てる。窓際の青い花、ナラが貸してくれた清潔な着替え。
(……荷物を、まとめなきゃ)
何かに取り憑かれたように、私はクローゼットの隅に置いた自分の鞄を引き寄せた。
中身はほとんどない。そこに、ナラからもらった予備の干し肉と、小さな水袋、そして着替えの布を詰め込んでいく。指先が震えて、うまく紐が結べない。
(私はもう、『凪の番』じゃないはずなのに……。どうしていつまでも追いかけるの?)
リュシアンの顔を思い出す。あの冷徹で、尊大で、けれど常に内側から焼かれるような痛みを湛えていた、黄金の瞳。私という存在を、心底、憎んでいたはずだ。
「……きっと、別の誰かを探しているのかもしれない」
不意に口から出た言葉は、自分自身を欺くための、あまりにも幼稚な言い訳だった。でも、一度そう思うと、その希望に縋らずにはいられなかった。
「そうだよ……そうに決まってる。兵士たちが探しているのは……盗賊かもしれない。街道にはたまに出るから気をつけてって、ナラさんも言ってたし……」
そうだ。自意識過剰になってはいけない。王都ではもっと大きな政変が起きているのかもしれないし、私のことなど、もう誰の記憶にも残っていないかもしれない。
「探しているのは私じゃない」
そう自分に言い聞かせると、激しく打ち鳴らされていた鼓動が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。
私は荷物を鞄に詰め終えると、それを枕元に置いた。いつでも飛び出せるように。あるいは、いざという時にナラを巻き込まないように。
(……もし、本当に私を探しているのだとしたら、今は、兵士たちの様子を見守るしかない。ナラの言う通り、この森の深さに彼らが音を上げるかもしれないし……)
ベッドに横たわり、ランプの火を吹き消す。眠りはなかなか訪れなかった。
暗闇は、先ほどよりもずっと鮮明に、私の不安を形にしようとする。耳の奥で、リュシアンの冷淡な嘲りが響く。ナラの温かいスープの味が、喉の奥でチリチリとした苦味に変わっていく。
(……夜が明けたら、あの場所へ行こう)
昨日、ルナ・エッジを見つけたあの湿地。そこなら、ナラの家からも少し離れているし、深いシダに囲まれていて人目につきにくい。もし兵士たちがこの近くまで来ているのなら、家でじっとしているよりも、私が少し離れた場所で「気配」を探ったほうが、ナラを巻き込まずに済むかもしれない。
そんな、自分でも無謀だとわかる言い訳を胸の中で繰り返し、私は数時間の浅い眠りを経て、白み始めた空の下、音を立てずに家を出た。




