第6章:辺境の地、色を取り戻す世界
意識が浮上する感覚は、重い泥の底から水面を目指して手を伸ばすのと似ていた。
どこまでも透明で、どこまでも静かな暗闇。そこには痛みもなければ、自分を縛り付けていた「凪の番」という呪わしい役割もなかった。ただひたすらに、深い安らぎだけが私を包み込んでいる。
(……ああ、あそこに……光がある)
意識の端で、あの銀色の鳥が羽ばたいた気がした。冷たくて狭い、あの石牢の隙間から見えた、唯一の自由の象徴。私はただ、その羽の輝きを追いかけて、無重力のような暗闇の中をゆらゆらと漂っていた。
最後に見たのは、地獄のような赤と黒の渦だった。魂の根幹を、生木を裂くように強引に引き剥がそうとする、あの男の指先。リュシアン。私を拒絶し、軽蔑し、そしてついには、絆ごと私という存在をこの世界から消し去ろうとした、白銀の皇子。
(……もう、いいよ……。全部、終わらせて……)
死の淵でそう願った瞬間のことを、おぼろげに覚えている。あんなに強固だった「絆」の鎖が、悲鳴を上げて軋み、千切れる寸前のあの開放感。けれど、その瞬間に何かが起きた。プツリと断たれるはずだった糸が、土壇場で、まるで縋り付くような切実さを持って、再び私の魂を強く引き戻したのだ。
誰かが、泣いていたような気がする。温かい掌で、今にも零れ落ちそうな私の命を必死に掬い上げようとしていた気がする。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、私は光を迎え入れた。
「…………っ」
瞼が重い。接着剤で固められたかのように動かない睫毛を、必死に震わせる。指先を動かそうと試みると、シーツの柔らかい感触が伝わってきた。あの、冷え切った祭壇の石床ではない。清潔で、陽だまりの匂いがする、ふかふかとしたベッドの感触だ。
視界に飛び込んできたのは、無機質な石造りの天井ではなく、太い木の梁が等間隔に並んだ、温かみのある木製の天井だった。窓の外からは、聞いたこともないような複雑な旋律を持つ鳥のさえずりが聞こえてくる。風が吹くたびに、森の葉が擦れ合う「さわさわ」という音が、心地よいリズムとなって耳に届いた。
「……ここ、は……」
掠れた声を出そうとして、私は自分の喉が酷く乾燥していることに気づいた。同時に、全身を襲う凄まじい倦怠感。一世紀ほど眠り続けていたかのように、身体が自分の持ち物ではないみたいに重い。まるで、一度死んで、別の誰かの体に詰め込まれたような違和感だった。
視界が、ゆっくりと形を成していく。あの日、王城の祭壇で見た、血の匂いと黒い魔力の渦。リュシアンの狂気じみた絶叫と、魂を引き裂かれるような激痛。それらが、今は遠い霧の向こう側の出来事のように感じられた。
「……あ、気が付いた……? よかったあ……」
枕元から、ひどくおっとりとした、けれど弾むような声が聞こえた。私が重い首をゆっくりと巡らせると、そこには一人の女性が立っていた。彼女は、私がこれまで出会ってきた「竜人」たちとは、明らかに雰囲気が違っていた。丸みを帯びた柔らかな耳には、ふかふかとした栗色の毛が生えており、お尻からは同じ色の太い尻尾がのぞいている。
リスか、あるいは小動物のような愛らしさを持つ獣人の女性。彼女は手に持っていた木の洗面器を棚に置くと、転がるようにベッドのそばへ駆け寄ってきた。
「一週間も眠ってたのよ。お水、飲む? ゆっくりね」
彼女は手際よく、けれど少しお節介なほど丁寧に、私の背中に腕を回して上体を起こしてくれた。差し出された木製のカップから、冷たい水が喉を通る。その一口が、枯れ果てた大地に雨が降るように、私の身体に染み渡っていった。
「……あなたは……?」
「私はナラ! このセフィラの森で薬草を摘んで暮らしているの。あなたは一週間前、ボロボロになってこの村に運ばれてきたのよ。もう、死んじゃうんじゃないかって、心配してたんだから!」
ナラと名乗った女性は、安心したのか、大きな瞳に涙を溜めて私の手を握りしめた。その手のひらは、竜人のような高い熱ではなく、日向ぼっこをした後の毛布のような、優しくて素朴な温かさだった。
「……運ばれてきた……? 誰が、私を……」
「うーんとね、黒いマントを深く被った、強そうな男の人たちが二人。一人はすごく無口で、もう一人は『この方を頼む』って、あなたを預けていったの。私は詳しいことはわかんないけど、その人たち、すっごく必死な顔をしてたわ」
黒いマント。エルムに関係ある人間だろうか。
「そのマントの人は、エルムと名乗っていましたか?」
私の問いかけに、ナラは匙を動かす手を止め、少し首を傾げた。その仕草は彼女の耳をぴこぴこと揺らし、小動物のような愛らしさを際立たせる。
「エルム? ううん、名乗らなかったわ」
ナラは思い出すように視線を斜め上に向け、それから困ったように笑った。
「名前も聞けなかったけれど、悪い人には見えなかったわ。あなたのことを、まるでお姫様か、壊れやすい宝物みたいに大事そうに抱えていたもの」
お姫様。壊れやすい、宝物。その言葉が、私の耳の奥でひどく場違いな音を立てて響く。あの場所で、私はただの「道具」だった。溢れ出す魔力を鎮め、濁った感情を浄化するためだけの、便利な道具。誰かにとっての「宝物」だったことはない。
「エルムさんではない……?」
思わず漏れた呟きに、ナラはふかふかした耳をピクリと動かして、不思議そうに首を傾げた。ナラは本当に何も知らないようで、それ以上はいくら記憶の糸を辿ってもらっても、新しい事実は出てこないようだった。彼女にとって、私を運んできた人々は「瀕死の女性を助けてほしいと頼みに来た、必死な顔をした旅人」に過ぎないのだ。
私は、ナラの濁りのない瞳を見つめ返し、それ以上の追及を諦めることにした。
「……そうですか。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって。そして助けていただき、ありがとうございました」
「いいのよぉ、いろいろ気になるのは当たり前だもの。でもね、今は、自分の身体のことを一番に考えなさい? ほら、スープが冷めちゃうわ」
ナラはそう言って、木製のスプーンを私の手に握らせた。ずっしりと重い、使い込まれた木の感触。そこから伝わる微かな温もりが、私の震える指先を静めていく。
差し出されたスープを、一口啜る。森のキノコの深い香りと、名前も知らない薬草の微かな苦味。それが温かな液体となって喉を通り、空っぽだった胃の腑にじわりと広がっていく。一週間、何も受け付けていなかった身体には、その単純な「温かさ」が、何よりも贅沢な劇薬のように感じられた。
(……美味しい。生きてるんだ、私)
視界が少しだけ潤む。新宿のコンビニで買っていたインスタントのスープとは、全く違う味がした。手間暇をかけて、誰かが私の回復を願って煮込んでくれた、祈りのような味がした。一口ごとに、強張っていた心の結び目がほどけていくのがわかる。
「ふふ、そんなに美味しそうに食べてくれると、森の神様に感謝しなきゃね」
ナラは、私の食べっぷりを見て満足そうに尻尾を揺らした。その動きがメトロノームみたいに規則正しくて、見ているだけでこちらの呼吸まで穏やかになってくる。
それから数日、私の世界は少しずつ広がっていった。最初はベッドの上だけ。次は、部屋の中に置かれた丸木の椅子まで。そしてついに、ナラの肩を借りて、家の外にある小さなテラスへと足を踏み出す日がやってきた。
「ゆっくりね、つむぎ。ほら、深呼吸してみて」
外に出た瞬間、肺の奥まで洗われるような、冷たくて清冽な風が吹き抜けた。
「……わあ……」
思わず声が漏れた。目の前に広がっていたのは、見渡す限りの緑だった。巨木が天を突くようにそびえ立ち、その隙間からこぼれる木漏れ日が、地面の苔をエメラルド色に照らしている。新宿のビルの隙間から見える切り取られた空とは違う、圧倒的な生命の密度だ。
「あ、見て! ナラさん、あそこのお花、すごく綺麗」
テラスの隅に咲いていた、小さな星の形をした青い花。私はふらつく足取りで近寄り、その花びらに指先を這わせた。
「それは『雨待ち草』よ。雨が降る前に少しだけ色を変えるの。つむぎ、あなた、本当にいい顔をするようになったわね。最初に来たときは、まるでお化けでも見たあとのような、真っ白な顔をしてたんだから」
ナラの言葉に、私は少しだけ照れくさくなった。お城にいた時の私は、自分でもどんな顔をしていたか思い出せない。感情を消し、気配を消し、ただ「道具」として存在し続けることだけに全神経を使っていた。笑うことさえ、忘れていた気がする。
けれど、ここでは。ナラが朝から「卵を盗んできた悪い鳥」の話をして、身振り手振りで怒ってみせるのを見ると、おかしくて堪らなくなる。彼女が一生懸命、薬草のすり潰し方を教えてくれるとき、私の不器用さに「あちゃー」と耳を垂らすのを見ると、つい吹き出してしまう。
私、この世界でも笑えたんだ。ずっと、あのリュシアンの冷たい檻の中で死んでしまったと思っていた私が、この森の光を浴びて、少しずつ、土の中から芽を出すように蘇ってきていた。
「ナラさん、これ。もっと細かくすればいいんですよね?」
私は、石の鉢の中で乾燥した葉を砕きながら、明るい声を出した。
「そうそう、上手! つむぎは飲み込みが早いわね。将来は素敵な薬師になれるかも!」
「えへへ、それもいいかも。この森の植物、もっと知りたいです。……あ、あそこの木に止まってるの、もしかして……」
私の視線の先には、一羽の鳥がいた。あの銀色の、忘れもしない『銀鈴燕』。お城の隙間から見えていた、あの自由の象徴。鳥は一瞬、私と目が合ったような気がした。それから、鈴を転がすような高い声で一度鳴くと、輝くような軌跡を残して深い森へと消えていった。
「あの子たち、つむぎのことが好きみたいね」
ナラが、丸い耳をぴょこぴょこと動かしながら、目を細めて柔らかく微笑んだ。
「……私、ずっと、あの子たちが羨ましかったんです。でも、今はこうして、同じ風の中にいるんですね」




