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第5章:番の儀式

 さらに数日が経ち、銀鈴燕の羽を御守りのように握りしめて眠るのが習慣になった頃、ついに「その時」は訪れた。


 ――重厚な靴音が、一直線にこの部屋に向かってくる。


 兵士たちのものとは違う、迷いのない、傲岸不遜な足音だ。私は反射的に背筋を丸め、入り口をじっと見据えた。扉が荒々しく開け放たれる。そこに立っていたのは、白銀の髪を逆光に光らせたリュシアンだった。


「……まだ、そんな死に損ないのような顔をしているのか」


 第一声は、相変わらず突き放すような冷たい言葉だった。彼は部屋に入るなり、不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋の隅に置かれたままの唱え草の枯れ殻を一瞥した。彼の瞳には鋭い拒絶の色が宿っている。


 けれど、私は気づいた。初めて彼に会った時、部屋の空気をピリピリと震わせていたあの狂暴な魔力の奔流が、今は驚くほど静かになっていることに。


(……落ち着いてる。どうして?)


 以前、彼がこの部屋に足を踏み込んだときは、まるで肌を刺すような、焦げ付くような重圧が空気を支配していた。けれど今は、その暴力的なまでの圧迫感がない。


「…………」


 リュシアンは部屋の真ん中で足を止め、無言で私を凝視している。私はただ、座っていたベッドの上で身を固め、指先で銀鈴燕の羽が入ったポケットをぎゅっと握りしめて、床の一点を見つめることしかできなかった。


 重苦しい沈黙が部屋を支配する。


 彼は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、一歩、また一歩と私に歩み寄ってきた。コツ、コツと、硬い靴音が石畳に反響するたび、私の肩が小さく跳ねる。リュシアンが目の前で立ち止まった。見上げなくても、彼が放つ冷ややかな、けれどどこか熱病のような特有の香りが鼻をくすぐる。


「……顔を上げろ」


 低く、地を這うような声。私は震える呼吸を飲み込みながら、恐る恐る顔を上げた。黄金の瞳が、私を射抜くように見下ろしている。以前のような、すべてを破壊し尽くさんばかりの凶暴な光は鳴りを潜めていた。だが、その代わりに宿っているのは、逃げ場を奪うような、鋭く、どろりとした「苛立ち」だった。


「貴様はただの、使い捨ての道具だ……。そうあるべきなのだ」


 リュシアンは呪詛のように繰り返す。私は怖くて、ただじっと耐えていた。でも、気づいてしまった。彼から伝わってくる魔力は、たしかに穏やかなのに、目の前にいるこの男の呼吸は、まるで激しい運動をしたあとのように熱く、乱れていることに。


「……っ、そんな目で俺を見るな」


 私が何も言わず、ただ震えながらも彼を見つめ返すと、リュシアンは耐えきれないといった様子で顔を背けた。彼の喉仏が大きく上下し、激しい葛藤を押し殺しているのがわかる。私は心臓が口から飛び出しそうなほど恐ろしかったが、同時に、目の前の王者が自分を前にして、ひどく怯えているようにも見えた。


「不愉快だ。貴様のような羽虫に、俺の魂が、俺の魔力が……侵食されていくなど」


 リュシアンは忌々しげに吐き捨てると、突然私の腕を掴み、ベッドから引きずり出した。


「痛っ……!」

「黙ってついてこい。……今日、ここで全てを終わらせる」


 逃げ出す隙も与えられず、私は引きずられるようにして城の最深部にある祭壇のような場所へと連れて行かれた。そこは、エルムが話してくれたような美しい幻獣の話とは無縁の、冷徹な魔術の匂いが立ち込める場所だった。


 石造りの壁には、禍々しくも神々しい紋様が刻まれている。リュシアンは私をその中心に突き飛ばすと、自分もその対面に立った。


「リュシアン様……何を……?」

「『番の儀式』だ」


 リュシアンの瞳が、狂気に燃え上がる。


「本来なら、これは番としての絆を永遠に固定し、貴様の命を俺の魔力の貯蔵庫として完全に繋ぎ止める儀式だ。だが、俺はそんな屈辱は選ばない」


 彼は腰に帯びた白銀の短剣を引き抜き、自らの手のひらを迷いなく切り裂いた。滴り落ちる鮮血が祭壇の紋様に触れた瞬間、部屋全体の空気が轟音と共に震え始める。


「俺は、この『番の絆』を……断ち切る。貴様の凪の力も、俺への干渉も、全て焼き尽くして消し去ってやる!」


 リュシアンの咆哮とともに、黒い魔力の奔流が祭壇から噴き出した。私の胸の奥に、まるで見えない鎖が食い込んでいるような激痛が走る。それは、彼と私を繋ぐ細い、けれど温かな「魂の糸」を、強引に引きちぎろうとする衝撃だった。


 私は激痛に視界を真っ白に染めながら、泣き出しそうになった。エルムが「半身を自ら手放す者はいない」と言ったあの絆を、リュシアンは自らの血を流してまで拒絶しようとしている。それは、私という存在そのものを「なかったこと」にするという、最も残酷な拒絶だった。


 バキバキと、空間が軋む音がする。絆を断ち切る反動で、リュシアンの魔力が暴走し、彼の全身から血が噴き出した。それでも彼は止まらない。凄惨な笑みを浮かべ、自分自身の魂を削りながら、私との繋がりを断とうとする。


「消えろ……消えろ! 俺の前から消えてなくなれ!」


 その怒号を最後に、世界から音が消えた。魂の根幹を、生木を裂くような力で引き剥がされる衝撃。肉体を切り刻まれるよりも遥かに凄まじい激痛が、私の全身を貫いた。悲鳴を上げようとした口からは、ただ熱い血の塊が溢れ出す。


 視界が白く反転し、祭壇の紋様が歪んで溶けていく。私の意識は、急速に闇の底へと引き摺り込まれていった。


(……ああ、やっぱり。この人は、私を……)


 最後に見たリュシアンの顔は、ひどく歪んでいた。


 プツリ、と。胸の奥で、張り詰めていた何かが決定的に千切れる音がした。


 私の身体は、糸の切れた人形のように冷たい石床へと崩れ落ちた。指先の感覚が消えていく。あんなに重苦しかった心臓の鼓動が、今は遠い太鼓の音のように、頼りなく間隔を広げていく。床に散らばった自分の血の温かささえ、もう感じない。ただ、ポケットの中にあるあの『銀鈴燕』の羽だけが、重く、そこにあることだけが分かった。


「……お……い……」


 遠くで、誰かの声がした。低くて、いつも私を追い詰めていた、あの傲慢な男の声。けれど、その声はいつもと違って、ひどく狼狽し、震えているように聞こえた。


「……立て。……寝ている……つもりか……」


(……立てないよ。あなたが、壊したんじゃない……)


 私は心の中でそう呟こうとしたが、唇一つ動かせない。身体が、どこまでも深い奈落へと沈んでいく。冷たかったはずの石床の感触さえ消え、今はただ、底のない暗闇を漂っているようだった。


「……何故だ……何故……これほど……脆い……!」


 不意に、身体が強く抱き上げられた。ガタガタと激しく震える腕。頬に、ポタポタと熱い何かが落ちてくる。


 それは、彼が流している血なのか。それとも、まさか――。


「……目を開けろ……! 歌え……! また……あの……歌を……」


 絶叫に近いその声も、今の私には、ひどく遠い場所で鳴っている雑音にしか聞こえなかった。意識の端っこで、あの唱え草の調べが聞こえた気がした。銀色の鳥が、天井の隙間から差し込む光の中を、自由に羽ばたいているのが見えた気がした。


(……やっと、帰れるのかな。あっちの世界に……。それとも、何もない場所に……)


 私は、深い安らぎのような暗闇に身を委ねた。抱きしめてくる腕の強さも、私を呼ぶ必死な叫びも、もう届かない。


 私の魂は、冷え切った肉体を置き去りにして、音のない静寂の世界へと、ゆっくりと溶けて消えていった。

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