第4章:救い
(……どうすればいいの?)
それから数日が過ぎた。
食事は相変わらず、以前とは比べものにならないほど上質なものが運ばれてくる。兵士たちは、私が透明な空気であるかのように無視し、一言の罵声も浴びせない。
皮肉なことに、身体は少しずつ元気を取り戻していた。頬の痩けは消え、肌には血色が戻り、立ち上がるときに感じていた眩暈もなくなった。けれど、身体が健康になればなるほど、心の行き場は失われていく。
(食べなきゃ死んじゃう。でも、食べて元気になれば、私はもっと都合のいい道具になってしまう)
運ばれてきたパンを手に取るたび、私は激しい自己嫌悪に襲われた。この食事は、リュシアンという怪物を生かすためのメンテナンスに過ぎないのではないか。私が美味しくスープを飲むことは、この世界の理に屈服し、自ら進んで檻の鍵を内側からかけることと同じなのではないか。
一方で、死への恐怖も消えなかった。ここで餓死したところで、元の世界に魂が帰れる保証なんてどこにもない。ただこの冷たい石畳の上で、誰にも看取られず、異世界のガラクタとして処理されるだけだ。
「……わからない……」
私は、膝を抱えて壁に頭を預けた。反抗すべきなのか。従順であるべきなのか。リュシアンが再びこの部屋を訪れたとき、自分はどんな顔をすればいいのだろう。彼を拒絶し、その魔力が暴走して死んでしまえば、私も殺されるだろう。彼を受け入れ、その魔力を凪がせてしまえば、私は一生ここから出られない。
(逃げ場なんて、どこにもないじゃない)
途方に暮れ、天井の隙間から見えるわずかな空を見上げる。石壁の最上部、人の腕一本分ほどの幅しかない細長い隙間。そこから切り取られた空は、いつも鉛色か、あるいは見たこともない不吉な紫に染まっていた。けれど、その瞬間に差し込んだのは、透き通るような純白の光だった。
不意に、羽ばたきの音がした。
――バサッ、バササッ。
石の縁に、一羽の鳥が舞い降りた。私は息を呑み、瞬きすら忘れてそれを見つめた。今までいた世界には、こんなに美しい生き物はいなかった。
その鳥は、透き通るような銀色の羽を湛え、尾羽は長い飾り紐のように風にたなびいている。光を反射するたびに、真珠層のような虹色の光沢がその体中を走った。鳥は小さく首を傾げると、水晶のように澄んだ青い瞳で、暗い牢獄の底にいる私を真っ直ぐに見つめた。
「……きれい……」
乾いた唇から、自然と言葉が溢れた。鳥はまるで私の言葉を理解したかのように、高く、澄んだ声で一鳴きした。その音色は、フルートの旋律よりも優しく、石壁に反響して耳をくすぐる。
不思議な感覚だった。あんなに重苦しく、ドロドロと渦巻いていた不安や自己嫌悪が、その鳥の瞳に見つめられている間だけは、どこか遠い出来事のように感じられた。鳥はただそこにいて、羽を休めている。この国がどれほど残酷で、私がどれほど不条理な運命にさらされているかなど、この美しい生き物には関係のないことなのだ。
鳥はくちばしで羽を整えると、もう一度私をじっと見つめ、そしてふわりと空へ舞い戻っていった。あとに残されたのは、鳥が飛び立つ際に落としていった、一枚の小さな銀色の羽だ。それはゆっくりと、光の筋に乗りながら、私の足元へと落ちてきた。
私は跪き、壊れ物を扱うように指先でその羽に触れた。掌に乗せた羽は驚くほど軽く、それでいて微かな熱を帯びている。銀色の筋一本一本が、暗い部屋の中で自ら発光しているかのように、淡く、けれど気高く輝いていた。
その夜。再び、あの微かな解錠の音が響いた。
扉の隙間から現れたのは、淡い若草色の外套を纏ったエルムだった。彼はランタンの火を絞り、いつものように音もなく部屋へ滑り込んでくる。
「……こんばんは。つむぎさん。少し、顔色が良くなったかな」
その穏やかな声を聞いた瞬間、私は反射的に掌を差し出した。大切に握りしめていた、あの銀色の羽を彼に見せるためだ。
「エルムさん、見てください。今日、あそこの隙間に鳥が来たんです。こんなに綺麗な、宝石みたいな羽を落としていってくれて……。この世界には、こんなに特別な鳥がいるんですね」
私の瞳は、数日前にはなかった輝きを宿していた。暗闇の中で宝物を見つけた子供のようなその表情に、エルムは一瞬、足を止めて見入った。だが、彼が私の掌に視線を落とすと、その反応は予想に反して極めて淡白なものだった。
「ああ、それは『銀鈴燕』だね」
エルムはふわりと微笑み、私を覗き込んだ。
「ありふれた鳥だよ。このドラグランドの北の方に行けば、雪が降るように群れをなして飛んでいるのが見られる。少し人懐っこいから、この離宮の屋根裏にもよく巣を作っているけれど……それがどうかしたかな?」
「ありふれた……?」
私は絶句した。
「そんな……。こんなに光っていて、綺麗なのに。私のいた世界には、こんな生き物はいませんでした」
驚きを隠せない私を見て、エルムは少しだけ意外そうに目を丸くし、それから可笑しそうに笑った。
「そうか……。君の世界の鳥は、光らないんだね。……それなら、つむぎさんにとってこの世界は、さぞかし奇妙で、恐ろしいものに見えていることだろう」
エルムは私の隣に、音もなく腰を下ろした。
「それなら、少し話をしよう。銀鈴燕なんて、この国では序の口だ。ドラグランドの最果てにある『瑠璃の谷』には、月明かりを食べて成長する透明な蝶がいる。夜になると谷全体が青い光に満たされて、まるで星空の中に立っているような気分になるよ」
「月明かりを……食べる?」
「そう。他にも、霧の深い朝にしか姿を現さない『雲海鹿』という幻獣もいる。彼らが歩いた後には、一瞬だけ色鮮やかな花が咲いて、すぐに消えてしまうんだ。植物だって負けていない。触れると音楽のような音を立てる草や、一晩で大木に育ち、夜明けと共に枯れてしまう『瞬きの樹』……。この世界は、君が思っているよりもずっと、脈動する命に満ちている」
エルムの話を聞いている間、私は自分が檻の中にいることを忘れて夢中で聞き入った。彼の言葉によって、灰色の石壁に囲まれた十畳ほどの空間が、果てしなく広がるファンタジーの世界へと塗り替えられていく。
「幻獣や、音楽を奏でる草……」
エルムが語る言葉のひとつひとつが、私の頭の中で鮮やかな色彩となって弾けた。新宿の灰色のアスファルトや、蛍光灯の無機質な光に慣れきっていた私にとって、それはお伽話よりも遠く、けれど今、指先に残る銀色の羽と同じくらい確かな熱を持っていた。
「……音楽を奏でる草。それって、どんな音がするんですか?」
私の問いに、エルムは少しだけ目を細め、遠い記憶を辿るような表情を見せた。
「そうだね。風が吹くたびに、繊細な銀の鈴を転がしたような音が鳴るんだ。何千、何万という草が草原で一斉に鳴り響く様子は、この世のものとは思えないほど美しい。……いつか、君にも聞かせてあげたいけれど」
その夜、エルムが去ったあとも、私は眠りにつくまで『銀鈴燕』の羽を握りしめていた。
翌朝、運ばれてきた食事を摂る際も、私の心は昨日までとは違っていた。スープの湯気を見れば『雲海鹿』が踏みしめる霧を思い出し、パンの黄金色の焼き目を見れば、光る草原を想像した。
(……生きていれば、いつか見られるかな。それとも、やっぱり一生……)
そんな不安が頭をよぎるたび、私は銀色の羽をポケットの上からそっと撫でた。
――そして、数日後の夜。
再び訪れたエルムは、いつもとは少し違う、どこか悪戯っぽく、それでいて慎重な足取りで現れた。彼は若草色の外套の懐を大切そうに守るようにして、私の前に跪いた。
「つむぎさん。今日は、特別な『客』を連れてきたよ」
「お客さん……?」
私が首を傾げると、エルムは懐から、一束の、見たこともないほど透明感のある青い草を取り出した。その葉は薄く、まるで上質なガラス細工のように光を透過させている。
「これ……!」
「『唱え草』だ。根を離れると一晩しか保たないから、持ってくるのが少し大変だったよ」
エルムがその草の茎を、長い指先で優しく弾いた。すると、静まり返った部屋の中に、澄んだ「音」が響いた。
――リィン、ルル……。
それは、電子音でも楽器の音でもない、生命そのものが奏でる震えだった。高い音が石壁に跳ね返り、私の耳の奥に心地よく染み渡っていく。
「すごい……本当に、歌ってるみたい……」
私は思わず身を乗り出した。エルムが草を差し出すと、私は壊れ物を扱うように、指先をその青い葉に触れさせた。触れた瞬間、私の指先の体温に反応したのか、草は「シャラン」と、先ほどよりも高い、歓喜に満ちたような音色を奏でた。
「温かいものに触れると、少しだけ音が変わるんだ」
エルムの囁くような声が、草の音色と混じり合う。私は夢中でその葉を撫で続けた。指が動くたびに、部屋の中は小さな旋律に満たされていく。石造りの冷たい壁に反響する音色は、どこか懐かしく、そしてあまりにも優しかった。
真っ暗な底に沈んでいた私の心に、音楽が光の筋のように差し込んでくる。気づけば、私の唇は自然と、その澄んだ音色をなぞるように動いていた。
「……ふふ、ふん、ふふーん……」
最初は、小さな鼻歌だった。けれど、唱え草が奏でる幻想的な和音に誘われるように、声は少しずつ形を成していく。それは、かつて故郷の学校で、窓から差し込む午後の光を浴びながら皆で歌った合唱曲のメロディだった。
「……光の……中へ、歩き出そう……」
歌詞を口にすると、喉の奥がツンと熱くなった。不意に視線を感じて顔を上げると、エルムが弾いていた指を止め、呆然とした表情で私を見つめていた。ランタンの逆光で彼の瞳の奥までは読み取れないけれど、その固まったシルエットからは、彼がひどく驚いていることだけが伝わってくる。
「……っ、あ……すみません!」
歌い終えた瞬間、私はハッとして口元を押さえた。急に自分の振る舞いが恥ずかしくなり、顔が火が出るように熱くなる。
「つい、夢中になっちゃって……。なんだか、この草の音を聞いていたら、昔、学校の音楽の時間に習った曲にそっくりだったから。……懐かしくて、つい歌っちゃいました。変でしたよね、いきなり……」
私は照れ隠しに、はにかんだような、情けないような笑みを浮かべた。
「……学校で習った、音楽?」
エルムがようやく声を絞り出すように問い返した。その声は心なしか、いつもより少しだけ掠れているように聞こえる。
「はい。私のいた世界では、みんなで声を合わせて歌う授業があるんです。この唱え草の響き……なんだかピアノやフルートの音に少し似ていて。なんだか、ここが牢屋だってことを、一瞬忘れちゃいました」
そう言って、私はもう一度、青い葉を指先で優しく弾いた。草は「リィン」と、私の笑顔に応えるように明るい音を鳴らす。
エルムはしばらくの間、何も言わずにただ私を見つめていた。その沈黙が何を意味しているのか、彼が今の歌をどう思ったのか、私には全くわからない。彼のようなドラグランドの住人にとって、異世界の歌なんて奇妙な雑音に過ぎなかっただろうか。それとも、勝手に歌い出した自分を不気味に思っただろうか。
不安になって視線を泳がせると、エルムはゆっくりと立ち上がった。
「……君は、不思議な人だね、つむぎさん」
その言葉の真意は、やはり霧に包まれたように判然としない。彼はいつものように優雅に、扉の方へ歩き出した。
「今夜は、その歌のおかげで、少しだけこの部屋の空気が変わった気がするよ。……ありがとう。おやすみ、つむぎさん」
エルムが去った後、私は独り、布団の中でさっきのメロディを思い返していた。
(……きれいだったな、あの音)
私はシーツを胸元まで引き上げ、目を閉じた。静寂が戻った部屋に、また少しずつ孤独が忍び寄ってくる。それを追い払うように、私は再び小さな声で、さっきのメロディを紡ぎ出した。
「……緑の森を、抜けて……光の、中へ……」
学校の音楽室。埃が舞う午後の日差し。隣の席の友達と、こっそり笑い合った放課後。歌っている間だけは、その懐かしい景色がまぶたの裏に鮮やかに蘇る。
――ガタッ。
廊下で、微かに何かが擦れるような音がした。私はびくりとして歌を止め、息を殺した。いつもの見張りの交代時間にはまだ早いはずだ。それに、兵士たちの足音はもっと重く、傲慢な響きがする。今聞こえたのは、まるで忍び寄る獣のような、静かな気配だった。
扉の下の隙間から、廊下の松明の光が細く差し込んでいる。そこに、一瞬だけ、長い影が落ちた。誰かが、扉のすぐ外に立っている。
私の心臓が、早鐘を打ち始めた。エルムなら、声をかけてくれるはずだ。けれど、外にいる「誰か」は、一言も発さず、ただ彫像のように立ち尽くしている。
(……リュシアン様……?)
その考えが脳裏をよぎった瞬間、全身の血が凍りつくような気がした。あの冷酷な黄金の瞳。私を「出来損ない」と切り捨てた、苛烈な魔力の持ち主。もし彼が、私が呑気に歌を歌っていたことを知ったら、またあの時のように怒り狂うのではないか。
私は布団の中で体を丸め、固く目を閉じた。扉の向こうから、奇妙な感覚が伝わってくる。それは、以前彼と対峙した時に感じた、あの焼けるような不快な魔力の奔流ではなかった。どこか……ひどく渇いていて、それでいて、何かに縋るような、湿った空気。
廊下の影は動かない。まるで、私の声が、その歌声の残響が、再び聞こえてくるのをじっと待っているかのような、奇妙な沈黙。
(怖い……。でも、なんだか……変。あんなに私を嫌っていたのに)
どれくらいの時間が経っただろうか。やがて、その濃密な気配は、音もなく扉の前から遠ざかっていった。遠くで、微かに風が抜けるような衣擦れの音だけが聞こえ、廊下の影は消えた。
私は大きく息を吐き出し、強張っていた体を緩めた。結局、誰だったのかはわからない。ただの衛兵の気まぐれだったのかもしれないし、自分の恐怖心が生み出した幻だったのかもしれない。
けれど、その夜。私は、ポケットの中の銀色の羽を握りしめながら、不思議と静かな眠りに落ちた。あの不気味な気配が、なぜか「拒絶」だけではない何かを含んでいたような気がして。




