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第3章:エルム

 さら、と。

 柔らかな最高級の絹が擦れ合うような、ひどく慎重な響きがした。この殺風景な離宮にはおよそ不釣り合いな、優雅な音だ。


「…………」


 私は息を止め、震える肩をさらに小さく丸めた。誰も何も言わない。ただ、開かれた扉の向こう側から、カビ臭い石の部屋を浄化するような、サンダルウッドの微かな残香が流れ込んできた。


(……だれ? また、別の人が私を調べに来たの?)


 恐怖が消えたわけではない。むしろ、未知の訪問者に対する警戒心が、針のように全身を突き刺す。私は重い首をゆっくりと、錆びついた機械を動かすようにして持ち上げた。


 逆光の中に立っていたのは、一人の青年だった。リュシアンのような圧倒的な威圧感も、剥き出しの殺意もない。けれど、彼が纏っている空気は、この離宮の誰よりも異質だった。


 深い若草色の外套。その襟元には、緻密な銀糸の刺繍が施され、動くたびに鈍い光を放っている。仕立ての良さは、暗い部屋の中でも一目でわかるほどだ。彼は扉を背にして立ち、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのような、痛ましいほどに慎重な眼差しを私に向けていた。


「……よかった。まだ、起きていたんだね」


 その声は、驚くほど静かだった。私の耳に届いたその響きは、この数日間、私に向けられたどの言葉とも違っていた。命令でも、罵倒でもない。そこには、明確な「対話」を望む体温があった。


 青年はゆっくりと、私を刺激しないように数歩近づき、その場に膝をついた。私と同じ視線の高さ。そこで初めて、私は彼の顔を正視した。深い森のような、穏やかな緑の瞳。その瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。


「……腕、見せてもらってもいいかな」


 彼は、リュシアンが乱暴に掴み上げた私の腕に視線を落とした。私は反射的に腕を後ろに隠し、壁際まで後ずさった。その拒絶に、青年の瞳が痛ましげに揺れる。


「……怖がらせて、本当にすまない。僕は、……ただの通りすがりの者だよ。君への扱いが、あまりに目に余ると聞いて……どうしても放っておけなくて、勝手に来てしまったんだ」


 彼は自分の素性を詳しく語ることはしなかった。その物腰は柔らかく、貴人特有の洗練された余裕を感じさせるが、同時にどこか「底知れなさ」を湛えている。リュシアンが「嵐」なら、この青年は「深い霧」のようだった。


(この人は、味方なの? それとも……)


 混乱が思考を白く塗り潰していく。青年は、私が沈黙したままであることを責める様子もなく、静かに言葉を継いだ。


「……君の名前、知っているよ。佐藤、つむぎ、さん。……そうだね?」


 心臓がどくん、と大きく跳ねた。名前。この数日間、一度も呼ばれることのなかった、私の本名だ。「凪」や「道具」という記号の中に埋もれ、自分自身でさえ忘れかけていた、二十四年間守り続けてきた大切な響き。


 母が呼び、友人が笑いかけ、同僚が頼りにしてくれた、あの「佐藤つむぎ」としての人生が、その一言で一気に引き戻された。


「……あ、……ぁっ……」


 喉の奥で、せき止めていたものが決壊した。私の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。


「……そう、そうです……っ」


「うん。……つむぎさん。ひどい目に遭わせたね。……本当に、ごめん。君はこんなところに閉じ込められて、一人で泣いているような人じゃないはずなのに」


 青年の声には、社交辞令ではない、切実な痛みが混じっていた。


「……わたし、は……。……佐藤、つむぎ、です……。……モノじゃ、ないのに……っ。……何も悪いことしてないのに……っ、……おうちに、かえりたい……っ、……かえしてよ……!!」


 溜め込んでいた叫びが、嗚咽となって溢れ出す。一度声に出してしまえば、もう止まらなかった。自分が誰であるかを認められたことで、ようやく「悲しむこと」を自分に許せたのだ。私は顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。


 青年は、私が泣き止むまで、ただ静かに傍らに寄り添っていた。不用意に触れようとはしない。けれど、その気配が、凍えきった私の心を、少しずつ、少しずつ解かしていく。


「……つむぎさん。痛むだろう。少しだけ、失礼してもいいかな」


 彼は、私が後ろに隠していた腕に、再び視線を向けた。逃げようとする私を制するように、彼はそっと、まるではかない羽に触れるような慎重さで、私の細い手首に手を添えた。


 ひやり、とした冷たさが肌に伝わる。けれど、それは恐怖を呼び起こす冷たさではなかった。


「怖くないよ。……大丈夫。すぐに、楽になるから」


 彼がそう囁くと、彼の掌から、柔らかな淡い緑色の光が漏れ出した。


(えっ……?)


 私は息を呑み、自分の腕を見つめた。リュシアンの指の形に赤黒く腫れ上がり、脈打つような鈍痛を放っていた箇所が、その光に包まれていく。熱を帯びていた皮膚が、まるで冷たい泉の水に浸されたかのように、すうっと鎮まっていく感覚だ。


 魔法。この恐ろしい世界で、これまでは自分を捕らえ、縛り付けるための力でしかなかったものが、今は自分を癒やすために、優しく注がれている。


 じわじわと痛みが引き、あざがみるみるうちに薄くなっていく。その光景はあまりに幻想的で、私は一瞬、自分が夢でも見ているのではないかと錯覚した。


「……これで、少しは楽になるはずだ。痕も残らないよ」


 彼が手を離すと、そこには痛みも、醜いあざも、跡形もなく消え去っていた。私は、自分の腕を信じられない思いで撫でた。触れても、もう痛くない。


「……ありがとうございます、……あの……」


「……エルム、と呼んでくれればいいよ。……今は、ただの君の味方だ」


 エルムと名乗った青年は、私の驚きを宥めるように、柔らかな緑の瞳を細めて微笑んだ。その微笑みはひどく穏やかだが、どこか遠くを見ているような、捉えどころのなさがあった。彼がなぜ私を助けるのか、その理由は依然として分からない。


 廊下の向こう側で、遠くから別の足音が聞こえてきた。見回りの兵士が戻ってくる合図だ。エルムは、すっと立ち上がり、扉の方へ一歩引いた。


「また、必ず来るよ」


 扉が、音もなく閉まる。カチャリ、と、再び鍵がかかる冷たい音が響いた。


 けれど、再び訪れた静寂は、先ほどまでの「死の沈黙」とは、決定的に違っていた。私は、魔法で癒やされた自分の腕を大切に抱きしめ、壁に背を預けた。胸の奥には、消えかけていた「佐藤つむぎ」としての火が、小さく、けれど確かに灯っていた。


(エルム、さん……)


 私を「人間」として扱ってくれた。彼がまた来ると言ってくれた。その約束だけを唯一の道標にして、私は再び訪れる孤独な夜に立ち向かおうと、深く息を吐くのだった。


 翌日の朝。


 重苦しい鉄の扉が解錠される音が、無機質な部屋に響き渡った。私は反射的に肩を竦め、部屋の隅で身を縮める。また、あの粗暴な兵士が、家畜の餌のような硬い黒パンを投げ入れに来るのか――。


 だが、扉の隙間から差し入れられたトレイを見て、私は思わず目を見張った。


「……あ、……」


 そこに置かれていたのは、これまで出されていた泥のような色のスープや、石のように硬いパンではなかった。木製のトレイの上には、湯気を立てる白い陶器のボウルと、籠に入れられた柔らかなパン。スープからは、丁寧に煮込まれた野菜の甘い香りと、食欲をそそるハーブの香りが立ち上っている。添えられたパンは、まだ焼きたてなのか、表面にうっすらと黄金色の照りがあり、指で押せばふわりと沈み込みそうな弾力を湛えていた。


 私は、信じられない思いでトレイを自分の方へ引き寄せた。運んできた兵士は、これまでのように私を罵ることはなかった。かといって、こちらを見ることもない。彼はただ、目の前に私が存在しないかのように、徹底して私を視界に入れず、無言でトレイを置くと、機械的な動作で立ち去っていった。剥き出しの悪意に晒されないというだけで、張り詰めていた神経がわずかに緩む。


(……どうして……)


 昨夜の、あの穏やかで、けれど誰にも真実を掴ませないような不思議な微笑みを思い出す。震える手でスプーンを握り、スープを一口、口に運ぶ。


「……美味しい」


 温かい液体が喉を通り、空っぽだった胃に染み渡っていく。野菜の旨みが凝縮されたその味に、視界がじわりと滲んだ。パンをちぎると、内側からしっとりとした湯気が溢れ出す。それをスープに浸して口に入れると、乾ききっていた心に、少しずつ色が戻っていくような感覚があった。


 私は、夢中で食べた。一口ごとに、削り取られていた活力が体内に満ちていく。


 食後、私は空になったボウルを見つめながら、深く溜息をついた。体温が戻ると同時に、それまで麻痺させていた思考が、鮮明な記憶を伴って動き出す。


 あの、エルムという人は何者なのだろうか。あの身なりの良さ、そしてあの気品はどう見ても一介の使用人のものではなかった。私を「つむぎさん」と呼び、魔法で傷を癒し、さらには食事の内容まで変えてしまう。そんなことができる人間が、このドラグニアの宮廷で、一体どんな地位にいるのか。


 リュシアンとは対極にある、静かで深い湖のような人だ。穏やかで、優しくて、けれどその瞳の奥には、決して他人を寄せ付けないような、どこか謎めいた陰りがあった。私を助けてくれる理由はわからない。


 昼が過ぎ、天井の隙間から差し込む光の角度が変わる頃、私は再び孤独の檻の中にいた。腹が満たされたことで、皮肉にも「ここから出たい」という渇望が、より鋭く、より切実な痛みとなって私を襲う。


(帰りたい……。お母さんに会いたい……)


 壁に寄りかかり、目を閉じる。空は、今日も分厚い雲に覆われ、時折、遠くで竜の咆哮のような風の音が響く。ここには日常がない。あるのは、魔力の暴走と、権力の軋みと、私を道具としてしか見ない瞳だけだ。


 それでも、昨日の自分とは少しだけ違っていた。あの温かな食事の熱が、まだ残っている。エルムが呼んでくれた「つむぎさん」という響きが、耳の奥で微かに反響している。


(また……来てくれるかな)


 期待と不安が、交互に波寄せる。彼が誰であっても構わなかった。ただ、この絶望的な沈黙を破って、もう一度だけ自分の名前を呼んでほしかった。


 私は、空になったトレイを扉の脇に置くと、再び部屋の隅で膝を抱えた。兵士の足音も、風の音も、今は遠く感じられる。少しだけ元気を取り戻した心は、かつてないほど鋭敏に他者の気配を待ち望んでいた。


 陽が落ち、部屋の隅々に濃密な影が這い寄る時間。天井の細い隙間から差し込んでいた灰色の光も消え、十畳ほどの空間は完全な闇に塗りつぶされようとしていた。私は、膝を抱えたまま、扉の向こう側の「音」だけに神経を研ぎ澄ませていた。


 あの重々しく暴力的なリュシアンの足音は、幸いにも今日は聞くことはなかった。


 やがて、夜が深まった頃。遠くで交代する見張りの声が聞こえ、それが静まった直後だった。


 ――カチャ。


 耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうほど、微かな音だ。私の心臓がどくんと跳ねた。扉の重い蝶番が、油を差されたかのように滑らかに動き、細い隙間から柔らかな光が漏れてくる。


 そこには、昨日と同じ、若草色の外套を纏った青年が立っていた。


「……こんばんは。まだ、眠っていなかったんだね」


 エルムの声は、昨夜と変わらず穏やかで、水底に沈む石のように静かだった。彼は音もなく部屋に入ると、手にしたランタンを床に置いた。仄かな光が彼の端正な横顔と、高級そうな外套の銀糸を浮かび上がらせる。


「……エルム、さん」


 名前を呼ぶと、彼はふわりと目を細めた。その表情は完璧に整っていて美しいが、どこか遠くの景色を眺めているような、掴みどころのなさがある。


「顔色が少し良くなった。安心したよ」


 私は、思い切って彼に尋ねた。


「あの……今日の、朝食と昼食。……あなたが、してくれたんですか?」


 エルムは膝をつき、私の視線を受け止めた。けれど、その質問に対する答えは、ふわりと風に舞う羽のように形をなさなかった。


「……さあ、どうだろう。ここの料理番が、急に心変わりをしたのかもしれない。あるいは、昨日のスープが不評だったのを反省したのかもね」


「そんな……。急に、あんなに美味しくなるなんて。兵士の人も、何も言わなかったし……」


「それは良かった。食事が喉を通るようになれば、心も少しは自由になれる」


 彼は優しく微笑んでいるが、肯定も否定もせず、ただ私の関心を別の場所へと逸らしていく。その鮮やかな「はぐらかし」には、拒絶の冷たさはない。けれど、それ以上に踏み込むことを許さない、見えない壁があるようだった。


(やっぱり、この人は不思議な人だ……)


 リュシアンのように、自分の存在を力でねじ伏せようとする恐怖はない。けれど、優しさの裏側に、すべてを霧の中に隠してしまうような底知れなさがある。


 エルムは、私の不安そうな視線に気づいたのか、ランタンの光を少しだけ弱めた。


「腕の具合は、もう大丈夫かな?」


「はい。……全然、痛くないです。魔法って、あんなにすぐ治るんですね」


 私は袖を捲って自分の白い腕を見つめた。あんなにどす黒く残っていた指の痕が、今はもう影も形もない。まるで、あの暴力的な時間が最初から存在しなかったかのようだ。


 エルムは、私の腕の様子を確かめたあと、柔らかく微笑んだ。


「……それはよかった。魔法は万能ではないけれど、あの程度の傷なら癒やすことはそう難しくないから」


 その言葉は、凍えた指先を温める吐息のように優しかった。私は、ずっと喉の奥に仕舞い込んでいた疑問を、思い切ってぶつけてみた。


「……エルムさん。私は、いつまでここにいなきゃいけないんですか? リュシアン様は、私のことを『凪の番』だと言いました。……『凪の番』って何ですか? ……私、本当に帰れるんでしょうか」


 エルムは一瞬、痛ましいものを見るように目を細めたが、やがて静かに頷き、私の隣に腰を下ろした。彼が動くたびに、上質な衣擦れの音と、あの落ち着くサンダルウッドの香りがふわりと室内に広がる。


「……順を追って話そう。少し長くなるけれど、いいかな」


 私は黙って頷いた。


「ここは『ドラグランド』。君がいた世界とは理の異なる、強大な魔力に支配された帝国だ。そして、この国を統治しているのは人間ではない……『竜人』と呼ばれる、強靭な肉体と魔力を持った種族だよ。リュシアン様も、……そして僕も、その末裔にあたる」


「竜、人……。あの、背中に翼があるような……?」


「形は様々だけれど、本質は『竜の魂』を宿した人間だ。僕たちの体内には、破壊と再生を司る猛々しい竜の魔力が流れている。……けれど、その力はあまりに強大すぎて、時として持ち主の精神すら焼き尽くしてしまうんだ」


 エルムの声は、寄せては返す波のように穏やかだったが、その内容は凄惨だった。


「特にリュシアン様のような純血の王族は、その傾向が顕著だ。魔力が膨れ上がり、制御を失えば、心は破壊衝動に飲み込まれ、最後には発狂して命を落とす。……それを防ぐために、この国には古の契約がある。荒ぶる竜の魔力を、鎮め、浄化し、凪の状態へと導く唯一の存在……。それが異世界から召喚される『凪の番』なんだよ」


「……凪の、番……」


 私は、その言葉を舌の上で転がしてみた。重く、冷たく、呪わしい響きだ。


「つまり、私は……リュシアン様の魔力を抑えるための、道具なんですね。彼が狂わないように、毒を吸い取るフィルターのような……」


「……言葉を選ばずに言えば、そうだね。でも、ただの道具じゃない。竜人にとって『番』とは、魂の半分を預ける対等の伴侶であるはずのものなんだ。本来ならね」


 エルムは悲しげに眉を下げた。


「でも、今のリュシアン様には、その余裕がない。彼は今、これまでにないほど魔力が暴走しかけている。君という存在なしでは、明日をも知れぬ状態なんだ。だからこそ、彼は焦り、君を『凪の番』として、強引に繋ぎ止めようとしている」


 私は、足元に広がる冷たい影を見つめた。昨日、リュシアンが見せたあの狂気。私を壊さんばかりに掴んだ手の熱。あれは、彼自身の内側で燃え盛る地獄の熱だったのだ。


「彼が完全に君を『番』として認め、魔力が安定するまで……解放されることは、まずあり得ない。……それが、君が今置かれている現実だ」


「そんなの……勝手すぎる。私の人生は、私の家族は、どうなるんですか? 彼が助かるために、私は一生この暗い部屋で過ごさなきゃいけないの?」


 私の声が、怒りと絶望で震えた。エルムは否定しなかった。むしろ、その言葉を吐き出す彼の横顔には、自嘲のような、深い影が差していた。廊下の奥から、カツン、カツンと交代する衛兵の重い足音が聞こえてきた。


「今日はここまでだ。……君が望むなら、また明日も話をしよう」


 その言葉が、まるで幕を引くように優しく部屋の空気を震わせる。エルムは立ち上がり、音もなく扉へと向かった。ランタンの灯りが扉の向こうへと吸い込まれそうになったその瞬間、私は縋るような思いで声を上げた。


「……待って、ください!」


 エルムが足を止める。扉の影に半分隠れた彼の姿は、光と闇の境界線で揺らめき、まるで今すぐ蜃気楼のように消えてしまいそうだった。私は、彼の方へと身を乗り出した。


「……もし、その……リュシアン様の暴走しかけている魔力が、落ち着けば……。私の『凪』の力が役に立って、彼がもう大丈夫だっていうことになったら、私はここから出られますか? 元の世界へ、帰してもらえるんでしょうか……っ」


 喉の奥が熱く、声が震える。それは、私にとっての唯一の希望の形だった。自分が「凪の番」として、与えられた役割を完璧にこなせば、この地獄のような契約は満了するのではないか。あの暴君が、「もう十分だ」と満足して、自分をこの石の檻から解き放ってくれるのではないか。


 エルムはすぐには答えなかった。彼は閉まりかけていた扉を一度止め、ゆっくりと私の方へ振り返った。闇に慣れ始めた私の瞳に、彼の緑の瞳が悲しげな光を湛えているのが見えた。


「……つむぎさん」


 名前を呼ぶ彼の声は、昨夜よりもずっと低く、どこか湿り気を帯びていた。


「この国の歴史において、一度召喚された『凪の番』が、役割を終えて元の場所へ戻ったという記録は……僕の知る限り、存在しない」


 心臓の鼓動が、一瞬だけ止まったような気がした。視界がぐにゃりと歪み、床の石畳が底抜けたような感覚に襲われる。


「……え、……?」


「竜人にとって、番とは一時的な道具ではないんだ。魂の欠片を埋め合わせる、生涯の半身。……リュシアン様の魔力が安定したとき、それは君の魂が彼に深く馴染み、彼の一部になったことを意味する」


 エルムは一歩、また一歩と私の方へ戻り、再び傍らで視線を落とした。


「落ち着けば解放されるどころか、安定すればするほど、彼は君を手放せなくなるだろう。……竜人という種族はね、つむぎさん。一度手にした自分の半身を、決して自ら手放すことはない。……たとえ、相手がそれを望んでいなかったとしてもだ」


 それは、希望を叩き折る無慈悲な宣告だった。私は絶望のあまり、笑いそうになった。役に立たなければ殺されるかのように罵られ、役に立てば一生飼い殺しにされる。どちらに転んでも、私という一人の人間の意志は、このドラグランドという世界の理の中に最初から含まれていないのだ。


「そんなの……呪いじゃない。彼が助かれば助かるほど、私は帰れなくなるなんて。……私が彼を救うことは、私自身を一生この檻に閉じ込めることと同じなんですね」


 涙が、床に点々と落ちた。エルムは、私の絶望に満ちた問いに、一言も返さなかった。

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