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第2章:孤独

 異世界の冷たい空気が、肺の奥まで白く染めていくような感覚だった。


 私は石造りの床に膝を突き、両手で自分の肩を抱きしめた。この離宮に連れてこられてから、今日で何度目の朝を迎えたのだろう。天井近くに穿たれた細長い隙間から、白々とした光が差し込むたびに、「まだ生きている」という残酷な現実を突きつけられる。


 スマートフォンのアラーム音に急かされて目覚めていた毎日は、もう遠い宇宙の出来事のように思えた。ここでは、朝を告げるのは機械の電子音ではない。廊下を歩く看守の軍靴の音だ。規則正しく、一切の情を排したその足音が近づくたびに、私の心臓は冷たい手で直接握りつぶされるような衝撃に襲われる。


「……かえりたい」


 掠れた声が、湿った石壁に吸い込まれて消える。誰も答えない。返ってくるのは、自分の呼吸音と、建物の奥で鳴り響く不気味な魔力の脈動だけだ。


 最初の日は、叫び続けた。扉を拳が赤く腫れるまで叩き、自分が何をしたのか、なぜここにいなければならないのかを、喉が潰れるまで問いかけた。けれど、鉄板で補強された重厚な扉の向こう側からは、何の反応もなかった。二日目には、食事を運んできた兵士の足にしがみつこうとした。けれど、彼はゴミを見るような冷徹な一瞥をくれただけで、私を乱暴に蹴り飛ばした。


 床に転がった私の視界に映ったのは、自分の指先だった。キーボードを叩き、お気に入りのネイルを楽しんでいた指。今は爪の間に黒い汚れが入り込み、皮膚は乾燥して白く粉を吹いている。その惨めな姿を見た瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ去った。


(私は、佐藤つむぎだ。……二十四歳で、都内に務めているふつうのOLで、誕生日は三月で、コーヒーはミルクたっぷり砂糖多めで……)


 必死に自分の輪郭をなぞる。そうしなければ、この沈黙と冷気の中で、自分が霧のように霧散してしまう気がしたからだ。ここでは、私の名前を呼ぶ者はいない。リュシアンという凍てつくような美貌の皇子は、私を『凪の番』と呼んだ。彼に従う魔術師たちは、私を実験動物を見るような目で眺め、体内を巡る魔力の消失現象についてだけを論じていた。


 そこには「人間」としての佐藤つむぎは存在しなかった。ただ、便利で珍しい道具が、女の形をしてそこに置かれているだけなのだ。


(どうして……。私が何をしたっていうの?)


 理由のない不当な扱い。それが何よりも私の心を削り取る。何も悪いことはしていないはずだ。ただ普通に働き、普通に生活し、誰にも迷惑をかけないように生きてきた。それなのに、ある日突然見知らぬ世界へ引きずり出され、檻へ放り込まれた。


 自由が、これほどまでに重く、貴いものだとは知らなかった。かつての日常で感じていた些細なストレス――満員電車の圧迫感や、上司の嫌味な言い回し、終わらない残業。今の私からすれば、それらすべてが狂おしいほどに愛おしい。そこには自由があったからだ。どんなに辛い一日でも、最後には自分の鍵でドアを開け、自分だけのベッドで眠り、明日という日を自分の意思で迎えることができた。


 今の私には、この部屋を出る権利さえない。与えられるのは、家畜に与えられる餌のような、冷え切った薄いスープと、噛み切れないほど硬い黒パンだけだ。それを食べるか、死ぬか。選択肢はその二つしかない。


(お母さん、お父さん……)


 ふとした瞬間に、家族の顔が浮かぶ。「今度の連休は帰るよ」と送ったメッセージに、既読はついたのだろうか。私がいなくなった後の部屋で、誰が洗濯物を取り込んでくれるのだろう。そんな、あまりにも卑近で日常的な心配が、かえって私を狂わせそうにする。この世界の誰も、私が大切にしていた思い出や、積み上げてきた人生など一顧だにしない。


 時折、離宮全体が地鳴りのように震えることがある。リュシアンの魔力の暴走。怯えたように看守が漏らしていた。壁を伝って届くその禍々しいプレッシャーは、徐々に激しさを増していた。


 窓の外から、冷たい風の泣く音が聞こえる。この世界の冬は、どこまでも厳しく、情け容赦がない。私は石の壁に額を押し当てた。冷たさが脳の奥まで突き刺さる。


(……もし、このまま誰にも見つからずに、ここで一生を終えるとしたら?)


 そんな考えが、黒い毒のように思考の隅々に広がっていく。この数日間、私は一度も外の空気を吸っていない。太陽の光を浴びていない。土の匂いも、花の色彩も、誰かの温かな体温も、すべてが記憶の中から薄れていく。


「……かえりたい。……かえりたいよ……」


 暗闇の中で、何度もその呪文を繰り返した。けれど、祈りは誰にも届かない。時間の感覚が歪んでいく。一分が、永遠のように長く感じられる。自分の脈動だけが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の時計だった。


 私は、暗い部屋の隅で、また一つ溜息を吐いた。


 ――ガシャンッ!!


 静寂を無慈悲に切り裂く、鉄が悲鳴を上げるような衝撃音だった。


 私は、全身の毛穴が逆立つような戦慄に襲われた。心臓が早鐘を打ち、肺の空気が一気に絞り出される。廊下の奥から響いてくるのは、食事を運ぶ兵士の機械的な足音ではない。石造りの建物を土台から震わせるような、暴力的なまでの魔力のうねりと、荒々しく地を鳴らす軍靴の音だ。


 扉の向こう側で、何かが激しく粉砕される音がした。断末魔のような石の軋みと、空気が焦げ付くような放電の音。重苦しいプレッシャーが扉の隙間からどろりと這い出し、私の肌を毒液のように侵食していく。


(……来た。……あの人が、来た)


 震える手で自分の喉元をきつく抑えた。呼吸が浅くなり、視界の端が火花を散らすように明滅する。この数日間の幽閉生活で、私の神経は磨り減り、光を失った硝子細工のように脆くなっていた。誰の声も届かず、誰の体温にも触れられず、ただ「自分」という輪郭が闇に溶けていく恐怖に耐えていた私にとって、外からの刺激は本来なら救いであるはずだった。


 けれど、いま近づいてくるのは、救済などではない。それは、すべてをなぎ倒し、焼き尽くそうとする、形を持った「災厄」そのものだった。


 ドゴォォン、と重厚な扉が内側へ向かって蹴破られるようにして開かれた。逆光の中に立つ、白銀の皇子。リュシアン・ド・ドラグニア。


 彼は、数日前に会った時よりも、さらに凄惨な殺気を纏っていた。端正な顔立ちは苦渋を噛み潰したように歪み、黄金の瞳は血走り、制御を完全に失った魔力が陽炎のように彼の周囲を歪めている。彼が部屋に一歩踏み込むたび、床の石畳に細かな亀裂が走り、私の肋骨は物理的な重圧でミシリと音を立てた。


「……不快だ。反吐が出るほど、不快だ」


 リュシアンの声は、地底の亀裂から漏れ出す呻き声のように低く、不気味に震えていた。彼は、部屋の隅でおびえて丸まっている私を、獲物を見定める猛獣のような、飢えた目で見下ろした。その視線が肌に触れるだけで、刃物で撫でられているような錯覚に陥る。


「貴様……。仮にも『凪』としてここにいるというのに、なぜ私の内側はこれほどまでに熱い? なぜ、火に焼かれるようなこの忌々しい渇きが止まらぬのだ!」


 彼は荒々しく歩み寄り、私の細い腕を、壊さんばかりの力で掴み上げた。無理やり立ち上がらされた私は、あまりの痛みに悲鳴を上げようとしたが、リュシアンから放たれる圧倒的な威圧感に喉が塞がった。ひきつった吐息が、わずかに漏れるだけだ。


 リュシアンの息は荒く、その体からは皮膚が焼けるような異常な熱気が放たれている。私の視界は、恐怖による涙で歪んでいた。至近距離で浴びせられる彼の殺気は、鋭い針となって全身を突き刺す。なぜ、これほどまでにこの人は怒っているのか。なぜ、何も持たない私をこれほどまでに憎み、追い詰めるのか。


「答えろ! なぜそのように、呪わしい顔で私を見る? なぜ、そのように弱々しく、私の神経を逆撫でする!」


 リュシアンは、私を乱暴に揺さぶった。視界がぐわんぐわんと回り、意識が遠のきそうになる。彼の黄金の瞳の奥には、見たこともないような深い混濁があった。それは破壊衝動のようでもあり、同時に、自分でも制御できない何かに苛まれている焦燥のようにも見えた。だが、私にとってそれは、単なる凶器でしかなかった。


「リュシアン、さま……、いたい……、……やめて……」


 掠れた声が、震えながら紡がれる。その瞬間、リュシアンの顔が、まるで鏡が割れるように一瞬だけ引き攣った。彼は反射的に、掴んでいた私の腕を突き放した。床に叩きつけられた私は、鈍い音を立てて転がり、痛む腕を抱えて激しく咳き込んだ。冷たい石の感触が、今はむしろ、彼の熱すぎる手から逃れられた救いのように感じられた。


「……く、……ッ。汚らわしい……」


 リュシアンは、激しく震える自分の掌を忌々しげに見つめ、苦しげに顔を背けた。彼は今、何か目に見えない化け物と戦っているかのように、肩を大きく上下させて呼吸を乱している。私は、床に這いつくばったまま、彼の軍靴を見つめていた。その軍靴が一歩、また一歩と遠ざかる音が、唯一の福音だった。


「……出来損ないめ。貴様がもっと、私を完全に凪がせる道具であったなら、こんな不快な思いはせずに済んだものを」


 リュシアンは吐き捨て、床に伏したままピクリとも動かない私に、冷酷な一瞥を投げかけた。乱暴に身を翻した彼の背中からは、相変わらず禍々しい魔力が溢れ出していた。扉が開かれ、彼が外へ出た。彼が通り過ぎた後に残されたのは、凍りついた絶望と、焼き尽くされた後のような荒廃した静寂だけだった。


(あの人は……どうして、あんなに私を憎むの?)


 目から一筋の涙が、石の床の亀裂へとこぼれ落ちた。リュシアンに掴まれていた腕には、彼の指の形が赤黒く浮き上がっているに違いない。その熱が、まるで消えない汚印のように肌にこびりついて離れなかった。


 リュシアンの、あの獣のような黄金の瞳。そこに宿っていたのは、一方的な暴力性だけではなかった。それは自分を苛む「何か」を無理やり捩じ伏せようとする、悲鳴に近い焦燥に見えた。彼ほどの力を持つ者が、一体何に苛立ち、自分をあんなにも激しく責め立てるのか。


(もういやだ。……かえりたいよ……。お母さん、助けて……誰でもいい、私をここから連れ出して……)


 膝を抱え、そこに顔を埋める。何度も、何百回も繰り返したその願いが、今は自分を傷つける刃になっていた。帰れる見込みなど、どこにもない。この数日間、私は一度もこの部屋から出してもらえず、外の様子を窺うことさえ許されなかった。駅の喧騒。アパートの近くにあるコンビニの灯り。それらを思い出そうとするたび、現実の石壁の硬さが、それを「もう二度と触れられない幻」だと突きつけてくる。


 思い出せば出すほど、今の自分が惨めになる。思い出さなければ、自分が誰であったかを忘れてしまう。その板挟みの中で、私の精神は少しずつ、粉々に砕け散ろうとしていた。


 リュシアンが立ち去り際に言った「道具」という言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。いっそ、本当に道具になれたなら。心なんて持たず、感情なんて持たず、ただそこにあるだけの石ころになれたなら、あんなに恐ろしい瞳で見下ろされても、こんなに胸が痛むことはなかったのに。


 私の意識は、ゆっくりと深い闇の底へと沈んでいった。眠りではない。それは、自分の存在を消し去ることで、苦痛から逃れようとする本能的な拒絶だった。指先の感覚が薄れていく。自分が床に座っているのか、それとも宙に浮いているのかさえ、もう分からなくなる。「佐藤つむぎ」という個人を構成していたピースが、バラバラに解けて、冷たい空気の中に溶け出していく。


(……もう、つかれた……)


 呼吸をするのが、ひどく億劫だった。私はゆっくりと瞼を閉じた。このまま目を開けなければ、次こそはいつものアパートで目覚めることができるのではないか。あるいは、このまま光も音もない虚無の中に、永遠に消えてしまえるのではないか。死に対する恐怖よりも、この「意味を持たない生」を続けなければならないことへの絶望が、勝っていた。


 静寂に包まれていた部屋に、微かな、けれど確かな異変が起こったのは――その時だった。


 カチャリ、と。


 それは、リュシアンが扉を蹴破った時のような、乱暴な音ではなかった。看守が食事を差し入れるための、あの事務的で冷淡な音でもない。まるで、誰かが細心の注意を払い、慎重に、そして密やかに、扉の鍵を開けたような……そんな、忍びやかな音だった。


 私は、閉じた瞼の裏側で、その音を聞いた。心臓が、一度だけ大きく跳ねる。けれど、私は動かなかった。動くことができなかった。また誰かが自分を「道具」として扱いに来たのか、それとも、新しい絶望が扉の向こうに立っているのか。


 扉が、音もなく開いていく。廊下の冷たい空気とは違う、どこか柔らかな匂いが、部屋の中に流れ込んできた。


 私は、恐る恐る、重い瞼をわずかに持ち上げた。


 そこに立っていたのは、白銀の死神ではなかった。

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