第12章:甘い呪縛
部屋に戻ると、リュシアンは私を暖炉の前の長椅子へと座らせた。
「……リュシアン様」
「なんだ? まだ外のことが気になるのか」
彼は私の隣に腰掛けると、手を取り、愛おしそうに親指でなぞった。
「……あの人たちのことです。カールさんや、昨日から付き添っている近衛の方々。……あんなにも大勢の方が、この森の家まで追いかけてきている。彼らにとって、あなたは代わりのきかない方なのでしょう? ……お城に、戻らなくていいんですか?」
言い終える前に、指先に伝わる彼の力が、わずかに強まった。
痛いほどではない。けれど、そこには決して私を逃さないという、静かな、しかし強固な意志が宿っていた。
「今の私の最優先は、お前の傍を離れないことだ。つむぎ」
リュシアンは、私の手を自分の頬に寄せた。
「それに城のことならば、案ずる必要はない」
私の困惑を見透かしたように、ふっと声を和らげた。
「……先の儀式の後、私はしばらく深い眠りに落ちていた。その間、国務は第一皇子が代行している。多少、ゆっくりしたところで、問題はない」
「第一皇子? 兄弟がいるんですか?」
「ああ……腹違いだがな」
リュシアンは、私の手を頬に寄せたまま、細く長い指で私の手首をそっとなぞった。捕らえた小鳥の鼓動を確かめるような、静かで、執着に満ちた動き。
「第一皇子を王へと擁立しようとする強硬派がいる。私よりも、よほど『扱いやすい王』に見えるのだろう。カインたちは、私がこのまま森に引きこもっていれば、強硬派が決定的な一手を打ってくると、気が気ではないのだろう」
リュシアンは、淡々と言葉を紡いだ。その声には焦りも、玉座を奪われることへの恐怖も、欠片ほども混じっていない。
「強硬派がどれほど徒党を組もうと、私の前では羽虫の羽ばたきに等しい。誰が玉座を狙おうと、そんなものは瑣末なことだ。それよりも……お前のほうが、何よりも重く、価値のある問題なのだから」
彼は私の手を、今度は自分の唇へと運んだ。慈しむように舌先でなぞる。
「……っ、リュシアン様、やめてください……」
私は熱くなった指先を引き抜こうとしたが、彼の指がそれを容易く阻んだ。
リュシアンは、私の困惑を愉しむように薄く唇の端を持ち上げ、そのまま、まるで最高級の葡萄酒でも味わうかのような優雅な所作で、私の指を深く食んだ。
「なぜ止める? これほどまでに甘美なものを、私に独占させないつもりか」
その声は、ビロードのように低く、甘やかに私の鼓膜を震わせた。
黄金の瞳は、冷徹さを失い、今はただ、目の前の獲物を愛でるような濁った熱を帯びている。
戸惑いながら視線を逸らそうとするけれど、彼は私の顎を指先で掬い上げ、無理やり自分の方へと向けさせた。黄金の瞳が、至近距離で妖しく揺れている。
「逸らすな。その瞳に、今は私だけを映せ。他の誰でもない、お前の魂を搔き乱す男は私だと、その心に刻み込め」
「……あんなに酷いことを言ったのに、どうしてそんなことを言うんですか? 私、あなたのことがずっと怖くて……憎かったはずなのに」
私が震える声でそう告げると、リュシアンは私の額に、自らの額をこつんとぶつけた。
「憎めばいい。呪えばいい。……だが、私の腕の中からだけは逃げないと言え。お前が望むなら、私は喜んでお前の下僕になろう。この国も、地位も、魔力さえも、お前の微笑みひとつと引き換えに捨ててみせる」
「リュシアン様……っ」
あまりにも重く、甘美な言葉。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように疼く。心臓の音がうるさいくらいに鳴り響き、それが彼と重なり合っている長椅子を通じて、リュシアンにも伝わっているのが分かった。
彼は満足げに喉を鳴らすと、私の耳朶を、熱い唇でそっと食んだ。
「……聞こえるぞ、つむぎ。お前の心臓が、私の名を呼んで跳ねているのが。……これほどまでに愛らしく、私を求めて震えている」
「……あ……っ」
甘い吐息が耳孔に滑り込み、私の身体の力がふっと抜けていく。
リュシアンは、今度は私の首筋をなぞるようにして、鎖骨の窪みへと顔を埋めた。
「……つむぎ。お前は、自分がどれほど甘い香りをさせているか気づいていないだろう」
「っ……、そんなところ、くすぐったいです……」
身悶えして逃げようとすると、彼の腕が腰にまわりぐっと力がこもった。
ぬるりとした舌の感触。そして、わざとらしく立てられる微かな吸着音。
甘い毒が回るように、私の思考はとろとろに溶かされていく。
「……ぁ……っ」
逃げ場のない快楽に、私の背中が弓なりに逸れた。
その瞬間、リュシアンは満足げに瞳を細めると、私の身体を長椅子の上で押し倒すようにして覆いかぶさった。
銀色の髪が、カーテンのように私の視界を塞ぐ。
「お前のその瞳。……私の愛に怯え、けれどそれ以上に、私を求めて潤んでいる。……たまらなく、愛おしい」
彼は私の唇の端を、親指でゆっくりとなぞった。
熱くなった指先が、私の唇を押し開き、その内側の柔らかい粘膜に触れる。
「つむぎ。お前の声で、……愛していると言え。嘘でもいい。……その一言だけで、私はどんな地獄も天国に変えてみせる」
彼の吐息が、私の唇に触れる。
その想いが、私の喉を震わせる。
「……リュシアン、様……。……あい……して……」
最後まで言い切る前に、熱い唇が私の言葉をすべて飲み込んだ。
影がひとつに溶け合う。
ナラの家を包む静寂の中で、私たちは互いの体温だけを頼りに、永遠に続くような甘美な余韻に溺れていった。
重なり合った唇が、名残惜しそうに離れたとき、リュシアンは私の頬を両手で挟み込み、その黄金の瞳で私の視線を真っ向から受け止めた。
「……つむぎ。一つ、許せぬことがある」
「えっ……?」
あまりに唐突な言葉に、私は心臓が跳ねた。
不安に揺れる私の瞳を見つめ、リュシアンは困ったような、それでいてひどく独占欲に満ちた溜息をついた。
「その『様』だ。……なぜ私を、そのような呼び方で呼ぶ?」
「それは……あなたは皇子様ですし、呼び捨てにするなんて……」
「……お前は、私を死の淵から引き戻した唯一の女だ。王族としての私ではなく、ただの男としての私を、その声で呼べ」
彼は私の耳元に顔を寄せ、熱い吐息と共に、とろけるような低い声で命じた。
「呼んでみろ。……リュシアン、と」
「……っ……リュ、シアン……さま」
「様は要らぬと言っているだろう」
リュシアンは、私の首筋に鼻先を押し当て、そこにある微かな脈動を確かめるように深く吸い込んだ。
ぞくり、と背筋に甘い震えが走る。
「お前が根負けするまで、何度でもお前の肌に私の痕を刻みつけてやろうか?」
「……あ……っ」
首筋に、ちりりとした熱い痛みが走った。彼がわざと、吸い付くようにして痕を残したのだ。
逃げ場のない長椅子の上、彼の重みと体温に包まれて、私の思考は真っ白に塗りつぶされていく。
逆らえるはずがなかった。
「……リュ……シアン……」
蚊の鳴くような、小さな、震える声。
けれどその瞬間、リュシアンの身体が目に見えて強張った。
顔を上げると、彼は信じられないものを見たかのように、黄金の瞳を大きく見開いた。
「……もう一度だ。もう一度、私の名を呼べ。つむぎ」
「リュシアン……。……リュシアン」
名前を呼ぶたびに、胸の奥の「絆」が、歓喜に震えて熱を帯びる。
呼び捨てにする背徳感と、彼との距離が決定的に縮まったという実感。
私の声が、彼の魂を直接震わせているのが分かった。
「……ああ……っ」
リュシアンは、感極まったような声を漏らすと、私の肩に顔を埋めて強く、折れそうなほど抱きしめてきた。
その大きな身体が、かすかに震えている。
「つむぎ……お前は、自分がどれほど残酷な魔法を私にかけたか分かっているのか。……その声で、ただの名を呼ばれるだけで、私の理性が、積み上げてきたすべてが、音を立てて崩れていく……!」
彼は私の髪に、額に、そしてまぶたに、狂おしいほどの情熱を込めて、幾度も接吻を落とした。
それは、かつての冷酷な皇子からは想像もできないほど、ひたむきで、溺愛に満ちた姿。
「愛している。……愛している、つむぎ。……もう、お前を放さない。例えお前が嫌だと言っても、この腕の中に閉じ込め、私だけの歌を、私だけの名前を、一生囁かせ続ける」
潤んだ黄金の瞳で、彼は私を深く、深く、飲み込むように見つめた。
私は、彼の銀色の髪にそっと手を回した。
「……リュシアン。……リュシアン」
名前を呼ぶたび、彼は至福に満ちた表情で目を細める。
私たちは互いの存在を確かめるように、さらに深く、甘く、重なり合っていった。




