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第11章:交渉

 リュシアンは窓を細く開けると、暗闇に向かって、「待て」と手振りをした。それだけで、外に潜んでいた気配がピタリと止まり、森に再び静寂が訪れる。


「……行こう。騒ぎ立てるのは本意ではない」


 リュシアンは私の手を取ると、音もなく立ち上がった。

 私は彼に引かれるまま階段を降りた。一階の広間では、ナラが健やかな寝息を立てている。


 私たちは音を立てずに扉を開け、夜の冷気が立ち込める外へと出た。


 一歩、外に足を踏み出した瞬間。

 私はその圧倒的な圧迫感に、呼吸を忘れた。

 白銀の甲冑を纏った兵士たちが埋め尽くしていた。その数、数十人。彼らが手にする灯が、霧の立ち込める森を白く、冷たく照らし出している。


「——殿下ッ」


 最前列にいた、鋼のような体躯を持つ将校が、即座に跪いた。それに呼応して、背後の森の闇に溶け込んでいた数十人の兵士たちが、一糸乱れぬ動作で片膝を突く。

 金属が擦れ合う鋭い音が重く響き渡った。


「リュシアン殿下、御無事で何よりにございます」


 将校のその声には、深い安堵と、岩をも通すような峻烈な忠誠心が宿っていた。

 私はリュシアンの背後に隠れるようにして、その光景を呆然と見つめた。

 灯の青白い光に照らされた騎士たちの甲冑は、森の湿気を吸って鈍く光っている。誰一人として身じろぎせず、ただ一人の主君の言葉を待つその静寂は、まるで森そのものが息を潜めているかのようだった。


「面を上げろ、カイル」


 リュシアンの声は、低く、そして驚くほど冷ややかだった。屋根裏部屋で見せていたあの縋るような脆弱さは、今は微塵も感じられない。その声一つで空気が凍りつくような、天性の支配者の響き。


「はっ」


 カイルと呼ばれた男——が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は鋭く、知性的だ。


「ようやく、私の魂の半分を見つけ出した。捜索はこれで終了だ」

「承知いたしました。転移の門はすでに準備させております」

「いや、私はまだ戻らん。しばらく、この場所で過ごす」


 その場の空気が、一瞬だけ揺らいだ。

 跪く兵士たちの間に、困惑と、そして隠しきれない驚きが走ったのが痛いほど伝わってくる。それほどまでに、リュシアンの宣言は常軌を逸しているのだろう。


「殿下。畏れながら、申し上げます」


 カイルの声は、主君の意志を尊重しつつも、軍人としての正論を突きつけた。


「この場所は、警備にはあまりにも不向きにございます。周囲は視界の開けぬ深い森、背後には激流の川。地形の利がございません。……それに」


 カイルは一度言葉を切り、目の前にあるナラの小さな家を一瞥した。


「殿下をお世話するには、あまりにも劣悪な環境にございます。尊き玉体が、このような、隙間風の吹く小屋で夜を明かされるなど、歴史上類を見ぬ事態にございます」


 カイルの正論は、鋭い刃のように私の胸を刺した。


(……そうだ。ナラさんの家は、私にとっては温かなお城だけど、リュシアン様にとっては……)


 私は、繋がれたままの自分の手を見つめた。

 私の指は泥に汚れ、ナラの手伝いをしてできた小さな傷や、あかぎれが刻まれている。一方で、リュシアンの掌は、今は汚れているけれど、本来は王族の象徴である美しい肌と、高い魔力を秘めた滑らかなものだ。


 シルクの寝具、銀の食器、豪華な晩餐。

 彼が当たり前としてきた世界と、この森の生活は、あまりにもかけ離れているのだろう。


 もし、リュシアンが王都に戻る決断をしたら。

 その時、私はどうなるのだろう。

 彼は「二度と離宮には入れない」と言ってくれた。けれど、王都という場所そのものが、私にとっては巨大な檻だ。あの冷たい空気、自分を「道具」としてしか見ない周囲の視線、そして何より、自分という人間が消えて、ただの『凪の番』として塗り替えられていくかもしれない恐怖。


「……つむぎ。そんな顔をするな」


 耳元で囁かれた声は、先ほど兵士たちを震え上がらせた冷徹なものとは正反対の、羽毛のように柔らかく、甘い響きを帯びていた。

 驚いて顔を上げると、そこには黄金の瞳を揺らし、痛々しいほどに私を案じる一人の男の顔があった。


「案ずるなと言っただろう。お前が嫌がる場所へ、無理に連れて行くことなど万に一つもない。王都が嫌だというなら、それでかまわない。お前がこの森で暮らしたいなら、私もここを離れぬ」


「リュシアン様……」


 彼は私の震える指先を一本ずつ解くように握り、慈しむようにその甲に唇を寄せた。

 そのあまりにも献身的で、熱を帯びた仕草に、周囲の空気が再び凍りついたのが分かった。


「……っ!?」


 最前列にいたカイルが、思わずといった風に小さく声を漏らした。

 背後に控える近衛兵たちの間にも、動揺がさざ波のように広がっていく。


 兵士たちの視線が、突き刺さるように痛い。

 けれどリュシアンは、そんな彼らの驚愕など、気にもかけていないようだった。彼の世界には今、私という存在しか映っていないようだった。


 カイルは、主君のその姿を見て、深く、重い悟りを得たようだった。

 彼は再び深く頭を下げ、震える声を押し殺して告げた。


「……殿下。おふたりの御姿を拝見し、理解いたしました」

「そうか。ならば、貴様らのすべきことも分かるだろう。……去れ。私の視界を汚すな」


 リュシアンは冷たくあしらうように言った。

 けれど、カイルは一歩も引かなかった。彼はリュシアンが自分の進言では動かないことを悟ったようだった。

 彼の視線が、リュシアンの肩越しに、私へと向けられた。


「つむぎ殿、貴女にお願いしたい」


「え……っ、私、ですか?」


 急に話を振られ、私は肩を跳ねさせた。リュシアンが「この娘を巻き込むな」と低い声で唸ったけれど、カイルは続けた。


「殿下は、貴女との平穏な生活を何よりも優先したいとのお考えですが、この無防備な状態で留まれば、魔獣の襲撃や、この事態を好機と見る強硬派の急襲を招きかねません」


「……っ」


「我ら近衛が周囲を固めれば、殿下は心置きなく、貴女との時間に没頭できます。……貴女が殿下にお願いしてくだされば、殿下も矛を収められるでしょう」


 カイルの瞳が、私に助けを求めている。いや、これは「交渉」だ。


 私はリュシアンの顔を見上げた。彼はひどく不機嫌そうな表情を浮かべていたけれど、私の反応を伺うように、その黄金の瞳を揺らしている。


「……リュシアン様」


 私は、彼の大きな手を両手で包み込んだ。


「……カイルさんの言う通りに、してあげてください。私、あなたが無理をして、またボロボロになるのを見たくありません。……それに、あなたが安心して眠れるように、誰かが見守ってくれているなら、私だって……その、安心ですから」


「……つむぎ」


 彼は一度、深く、深く溜息をつき、天を仰いだ。


「……カイル。好きにしろ。ただし、私の視界には入るな。もちろん、つむぎに指一本触れることも許さん。家に一歩でも踏み込めば、迷わず首を撥ねる。分かったな」


「承知いたしました」


 カイルが立ち上がり、音のない手信号を送る。

 瞬く間に、兵士たちは霧のように闇の中へ散っていった。

 あんなに大勢いたはずなのに、そこには再び、静かな森の夜が戻っていた。


「……満足か、つむぎ」

「……はい。ありがとうございます、リュシアン様」

「戻ろう。これ以上外にいて、ナラに怪しまれては面倒だ」


 リュシアンは私を抱き寄せ、再びナラの家の扉へと向かった。


 部屋に戻ってからのことは、あまりよく覚えていない。

 同じ部屋にリュシアンがいるという緊張感と、彼から伝わってくる、凪いだ海のような穏やかな魔力の奔流。それに包まれるようにして、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。


 翌朝、小鳥のさえずりと、階下から聞こえるナラの忙しない足音で目が覚めた。


「つむぎ、起きてる? 私、今日は村へ薬を届けに行かなきゃいけないから、早めに出るわね。リュシアンさんによろしく伝えてちょうだい」


 ナラは、昨夜の庭での出来事——数多の騎士が跪き、空気が凍りついたあの異常事態——には、これっぽっちも気づいていない様子だった。


「いってらっしゃい、ナラさん……」


 半分寝ぼけた声で返事をして、私は体を起こした。

 隣の寝具では、リュシアンがまだ眠りの中にいた。銀色の髪が枕に広がり、シーツの白さと混ざり合って、まるでそこだけ月の光が溜まっているかのように見える。昨夜、兵士たちと対峙したときのあの冷徹な威圧感はどこへやら、今の彼は、ただただ静かに安らいでいた。


(……この人が、私の部屋にいるなんて。まだ夢を見ているみたい)


 私は心臓の鼓動を落ち着かせるように胸を押さえ、そっと彼を起こさないように部屋を出た。

 一階に降りると、ナラが準備してくれた朝食の香りが残っている。でも、その穏やかな空気を切り裂くように、家の外からひそひそとした、けれど切迫した話し声が聞こえてきた。


「——ですから、これではいけないと申し上げているのです! 殿下がこのような粗末な寝床でお休みになられているなど、我ら侍従の末代までの恥ですぞ!」

「声が大きい、控えろ。殿下のお耳に障れば、貴殿の首が飛ぶぞ」


 私はぎょっとして扉に駆け寄り、少しだけ隙間を開けて外を覗いた。

 そこには、昨夜の白銀の甲冑を纏った兵士たちではなく、隙のない身なりをした中年の男性と渋面のカイルが言い合いをしていた。


「あ、あの……!」


 思わず声をかけて外に出ると、侍従の男性は弾かれたようにこちらを向き、私のすがたを認めるとすぐに優雅な礼を捧げた。


「あぁ、御番様でいらっしゃいますね。お会いできて光栄でございます。私はリュシアン殿下付き侍従のカールと申します」


 カールが私の前に進み出た。


「こちらにおります近衛兵隊長カイルより、殿下がしばらくこちらでお過ごしになると伺い、取り急ぎ支度を整えて参りました」


「……支度ですか?」


 カールはうなずき、優雅な合図を送った。朝霧の向こう側から、音もなくしずしずと、十数人の男女が姿を現した。


「……えっ?」


 現れた者たちの手には、単なる荷物と呼ぶにはあまりに不遜な、王宮の粋を集めた至宝の数々が捧げ持たれていた。白磁の衣装籠には、極上の重厚なシルクが幾重にも波打っていて、その表面には、一針ごとに小粒のダイヤモンドが縫い込まれた銀糸の刺繍が、虹色の光彩を散らしている。その隣の侍従の手には、月光を凍らせて削り出したような冠や指環が並んでいる。


 さらに、別の侍従が捧げ持つのは、リシュアンの休息のために作られたのだろう、一抱えもある大きなクッションだった。表面は金糸で竜の鱗模様を織り上げた、燃えるような緋色のベルベットで覆われている。四隅には、拳ほどもある大粒の琥珀がタッセルと共に揺れ、朝日に照らされて、まるでそれ自体が発光しているかのようだった。


 私は、その圧倒的な光景に、眩暈めまいを覚えた。


「御番様、殿下のご様子はいかがでしょうか」


 カールが、どこまでも洗練された仕草で私に問いかけた。その声音には、私を疎んじるような色は微塵もない。むしろ、主君が選んだ「魂の半分」に対する敬意と、職務への誠実さが滲んでいた。


「湯浴みの準備もすぐに整います。殿下のご体調に合わせ、魔力を安定させる霊草を配合した香湯を用意いたしました。移動式の湯船ではありますが、王宮の離宮と同等の心地よさを提供できるかと存じます。……それから、あちらの馬車には殿下専属の料理人も控えております」


 カールは、止まらない。


「殿下は消耗はされたが落ち着いている様子だったとカイルより報告を受けております。殿下の心拍、体温、そして魔力の揺らぎに合わせ、最高級の飛竜の滋養スープ、あるいは気を鎮める月の雫のジュレなど、最適な一皿を提供させていただきたいのです。……御番様、殿下のご様子を詳しくお聞かせください」


「カール。貴様の献身は、騒がしすぎる」


 私が弾かれたように振り返ると、そこには昨日の外套を羽織った格好のままで、不機嫌そうに眉を寄せたリュシアンが立っていた。


「で、殿下ッ……!」


 カールが、歓喜の声をあげた。

 リシュアンを見つめるカールの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。彼は、目の前の主君の姿を見て、感極まっているようだった。


「おぉ……なんということだ。殿下の魔力が、これほどまでに澄んでおられるとは……。カイルの報告通り、いえ、それ以上に魔力の揺らぎが凪いでいらっしゃる……。あぁ、神よ。ようやく、ようやくこの時が……!」


 カールは、リュシアンの健やかな――少なくとも、彼らから見て劇的に安定した――様子に、肩を震わせた。しかしすぐに顔から血の気が引き、絶叫に近い悲鳴が上がった。


「……っ!? 殿下、その、そのお姿は……!?」


 リュシアンが羽織っているのは、森を歩いたことで泥に汚れ、さらに濁流にのまれ無惨に破けた外套。そして、ボタンが一つ外れ、無造作に捲り上げられたシャツの袖。

 王宮の美学の中に生きるカールさんにとっては、国家転覆にも等しい大事件のようだった。


「なんたる……なんたる無体な! 王国の太陽たる殿下が、そのような……そのような泥に塗れた布を纏われるなど、あってはならないことです! あぁ、 すぐに、すぐに湯浴みの用意を致します!」


 カールは恐怖に駆られたような素早さで、背後の侍従たちに激しい合図を送った。


「何をぼうっとしている! すぐに湯浴みの準備を!最高級の香油と、霊峰の滴を沸かせ! 殿下の御肌に一粒のちりも残してはならん! さあ、殿下、こちらへ!」


 まるで火事にでも遭ったかのような騒ぎに、私は圧倒されて立ち尽くした。

 リュシアンは、詰め寄るカールを片手で制し、ひどく煩わしそうに言った。


「このままでよい。下がれ」


 カールは言われた言葉が理解できないようだった。汗を浮かべて激しく瞬きを繰り返している。


「湯浴みも着替えも不用だ」


「……ですが、殿下。これではあまりに……。せめて、その、お身体をお拭きするだけでも……」 


「私に二度同じことを言わせるな」


 低く、地這うような声に、カールは憔悴した表情で静かに下がった。


「……失礼、いたしました。では、お休みの邪魔にならぬよう、控えております」


 カールは、主君の変わらない決意を悟ったのか、がっくりと肩を落とした。侍従たちが、手早く撤収していった。

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