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第10章:あたたかな時間

 リュシアンが手で虚空をなぞると、銀色の魔力がさらさらと大気に溶け出し、足元の空間が陽炎のように揺らぎ始めた。


「リュシアン様、これは……?」

「歩いては日が暮れる。お前の身体に負担はかけたくない」


 次の瞬間、視界が白銀の光に包まれた。

 ふわっ、と身体が宙に浮くような感覚があり、目を開けたときには、私は見覚えのあるナラの家の前に立っていた。


 目の前には、つい数時間前に飛び出してきたばかりの、質素だけれど温かい木造の家。煙突からは朝食の準備を知らせる柔らかな煙が立ち上り、周囲には薬草の香りが漂っている。


(……帰ってこれた。遠くまで流されたはずなのに)


 あまりにもあっけない帰還に、私は眩暈のような感覚を覚えた。


「……あなたは、こんなにすごい魔法が使えるのに。どうして、私を追いかけてきたときは、あんなに……その、傷だらけだったんですか? 魔法で空を飛んだり、一瞬で移動したりはできなかったんですか?」


 私の問いに、彼はわずかに視線を伏せた。銀色の睫毛がその頬に影を落とす。しばらくの沈黙の後、彼は自嘲気味に、低く呟いた。


「……使わなかったのではない。使えなかったのだ」


「え……?」


「竜人の魔力とは、破壊の力だ。荒れ狂う焔であり、吹き荒れる嵐だ。……お前という『凪』を失った瞬間、私の中の魔力は制御を失い、私自身の精神と肉体を内側から焼き始めた」


 彼は、自分の掌を凝視した。


「視界は血に染まり、思考は焦燥という名の毒に侵された。お前を探さねばという本能だけが私を突き動かしていたが、魔力を使おうとすればするほど、それは牙を剥いて私自身を切り刻んだ。……空間を繋ぐような繊細な術など、あの時の私には、暴風の中で針に糸を通すよりも不可能に近いことだったのだ」


 リュシアンが、私の手に、自分の手をそっと重ねた。


「お前が傍にいて、私の名を呼び、その体温を分けてくれた。それだけで、狂っていた私の魔力は、本来あるべき静寂を取り戻した。……今の私は、お前というくさびによって繋ぎ止められている。だからこそ、私は私であれるのだ」


 リュシアンが、私の隣で静かに家を仰ぎ見た。


「……ここか。お前が、安らぎを見つけた場所は」


 泥にまみれ、血を吐きながら私を追ってきたときとは別人のような、凛とした佇まい。銀髪は朝露を浴びて神々しく輝き、その美貌は、この素朴な森の風景の中ではあまりにも浮世離れして見えた。まるで、お伽話の挿絵から抜け出してきた森の精霊のようだ。


 その時、家の扉が勢いよく開いた。


「つむぎ!? つむぎ、どこに行っていたのよ!帰ってこないから、心配して……!」


 ナラが、エプロンで手を拭きながら飛び出してきた。

 彼女の顔は不安で引き攣っていたけれど、私を見つけた瞬間にパッと明るく弾けた。……けれど、その視線が私の隣に立つ人物に止まった瞬間、彼女は文字通り、石のように固まった。


「……あら……?」


 ナラは、目を丸くしてリュシアンを凝視した。

 そりゃあ、そうだろう。セフィラの森の奥深く、獣人がひっそりと暮らす平穏な場所に、これほどまでに圧倒的なオーラを放つ貴人が立っているのだから。たとえ彼がボロボロの外套をまとっていたとしても、隠しきれない高貴さと、竜人特有の近寄りがたい美しさは、見る者の魂を射抜くほどに鋭い。


「つむぎ……その、お隣の方は……? もしかして、あなたが村で噂になっていた兵士たちに探されていた……その、お知り合いの方?」


 ナラの声が、微かに震えている。

 私は慌てて、彼女の前に踏み出した。


「ナラさん! 心配かけてごめんなさい。この人は……その、私の大切な……」


『大切な』。

 その言葉が、自分の口から自然にこぼれたことに、私自身が一番驚いた。

 憎くて、恐ろしくて、逃げ出したはずの相手。それなのに、あの濁流の中で私を抱きしめた彼の腕の強さを思い出すと、どうしても「敵」だとは言えなかった。


「私の、以前いた場所の関係者なんです。……リュシアンさんといって、その、私の様子を心配して、一人でここまで……」


「リュシアンさん……?」


 ナラは、その名前の響きにゴクリと唾を呑み込んだ。彼女のような森の住人にとって、中央の王族の名前など縁のないものだろう。彼女の目には、リュシアンがドラグランドの皇子であることまでは見えていないようだった。ただ、身分の高い、驚くほど美しい貴族の青年が、大切な家族?である「つむぎ」を訪ねてきたのだと、そう解釈したらしい。


「まあ……! そうだったのね。つむぎ、あなた、こんなに立派なお方と知り合いだったの? ……リュシアンさん、とおっしゃるのかしら。お初にお目にかかります。私はナラ。つむぎと一緒に暮らしている者です」


 ナラは、いつもの素朴な振る舞いをどこかへ置き忘れたように、ぎこちなく、けれど精一杯の敬意を込めてお辞儀をした。


「……ナラ、と言ったな。この娘を……つむぎを、守ってくれたことに感謝する」


 リュシアンの声は、いつになく穏やかだった。

 傲慢な響きは一切なく、むしろ、私の恩人である彼女に対して、彼なりの誠実さで向き合おうとしているのが伝わってきた。


「感謝なんて、滅相もございません! つむぎは私の家族のような娘ですから。……でも、リュシアンさん。まあ、顔色が少し青白いようですが……。もしや、森の中で道に迷って、難儀なさったのでは?」


 ナラの「お節介焼き」の本能が、畏怖を上回ったらしい。

 彼女はリュシアンの整いすぎた顔をまじまじと見つめ、その奥に潜む隠しきれない疲労を察知したようだった。


「さあ、外で立ち話も何ですから。中へ入ってくださいな。ちょうど朝ごはんの支度ができたところなんです。つむぎの好きなお豆のスープと、焼きたてのパンがありますから」


「……いただこう」


 リュシアンは、私の手を引いたまま、迷うことなく家の中へと足を踏み入れた。


 家の中は、いつも通りの温かな空気に満ちていた。

 薪がはぜる音、香ばしいパンの匂い。

 リュシアンは、ナラに促されるまま、手作りの木の椅子に腰を下ろした。大きな体躯の彼が座ると、その椅子は少し小さく見えたけれど、彼は不満を漏らすどころか、珍しそうに辺りを見回していた。


「ほら、つむぎも座って。今、リュシアンさんの分もお皿を出してくるからね」


 ナラは忙しなくキッチンを動き回り、大切にしまっていた上等な木の器を並べた。


 テーブルの上に置かれたのは、根菜たっぷりの豆スープと、少し形の歪な黒パン。それに、私が摘んだ木いちごを煮詰めたジャム。

 王都の豪華な晩餐会では決して出されることのないだろう、質素な食事。


 私は、緊張でリュシアンの横顔を窺った。


(……口に合うかしら。不味いって言わないかな……)


 リュシアンは、静かに木のスプーンを手に取った。

 そして、一口。ゆっくりとスープを口に運んだ。


 沈黙が流れる。ナラも、固唾を呑んで見守っている。

 やがて、リュシアンはゆっくりとスプーンを置くと、私の方を見て、微かに目を細めた。


「……温かいな」


「まあ! お口に合いましたか?」


 ナラは、嬉しそうに頬を赤らめた。


「リュシアンさんは、都会の美味しいものをたくさん召し上がっているでしょうに。こんな田舎の料理を褒めていただけるなんて!」


「いや……これが、つむぎが食べていたものだというのなら、それが何よりの御馳走だ」


 リュシアンはそう言って、今度はパンをちぎって口に運んだ。

 その仕草はどこまでも優雅で、森の家が、まるでそこだけ王宮の一室に変わったかのような錯覚を覚える。


 私は、スープを飲みながら、胸がいっぱいになっていた。

 憎んでいたリュシアン。

 大好きなナラ。

 交わるはずのなかった二つの世界が、今、一つのテーブルを囲んでいる。


(……不思議。どうして、こんなに穏やかなんだろう)


 絆を通じて伝わってくるリュシアンの感情は、驚くほど静かに凪いでいた。

 彼は、ナラが話す「今年の冬の長さ」や「裏山の薬草の育ち具合」といった、王族にとっては些末で退屈極まりないだろう話を、一言も漏らさず聞き入っていた。

 時折、彼が「それは……大変だったな」と短く相槌を打つたびに、ナラはどんどん上機嫌になり、ついに私の失敗談まで話し始めた。


「そうなんですよ、リュシアンさん。つむぎったら、最初に来たときは火の起こし方も知らなくて。マッチを擦るたびに『ひゃっ!』って飛び上がってたんですから」


「ナ、ナラさん! その話はもういいってば……!」


 恥ずかしさで顔を覆う私。

 けれど、ふと横を見ると、リュシアンが声を押し殺して、肩を揺らしていた。


「……そうか。火を恐れていたのか」


「もう、笑わないでください!」


「いや、済まない。……ただ、想像してしまったのだ。お前がこの場所で、右往左往しながらも、懸命に暮らしていた姿を」


 リュシアンは、私の頭にそっと手を置いた。


 私は顔が熱くなるのを誤魔化すように、わざと不機嫌そうな顔をしてスープを口に運んだ。けれど、ナラはその様子を、目を細めて、何とも言えない慈しみの表情で見守っていた。


「……あらあら、まあ。つむぎ、そんなに真っ赤になっちゃって。リュシアンさんも、そんなにつむぎを可愛がってくださるなんて。お二人の仲の良さ、見てるこちらまで当てられちゃうわね」


「えっ!? 仲が良いっていうか、その……!」


 私が慌てて否定しようとした瞬間、隣のリュシアンが私の言葉を遮るように、静かに、けれど有無を言わせぬ重みで告げた。


「ああ、ナラ。私はこの娘を、生涯をかけて繋ぎ止めると決めている。……たとえ、彼女にどれほど疎まれようともな」


「まあ! なんて情熱的なのかしら!」


 ナラは頬に手を当てて、うっとりとため息をついた。違う、ナラさん、それは「愛の告白」というより、竜人特有の執念深い「独占欲」の表れなの! ……と叫びたかったけれど、リュシアンの横顔があまりにも真剣で、そしてその瞳の奥に、私を失いかけた恐怖がまだ沈殿しているのを見てしまった私は、何も言えなくなってしまった。


 その日の午後は、嵐のような忙しさだった。ナラは「大切なお客様に、不自由はさせられない」と張り切り、私と二人で大掃除を始めたのだ。リュシアンも手伝うと言い出したけれど、彼が少し指を動かすだけで重い家具が浮き上がり、庭の雑草が一瞬で消え去るのを見て、ナラは「魔法は便利だけど、これじゃ掃除のしがいがないわ!」と彼を庭のベンチに追いやった。


 結局、夕暮れ時。ナラは満足げに腰に手を当てて、私の寝室——といっても、屋根裏に近い小さな部屋——を指差した。


「さあ、お掃除も終わったし。今日はもうゆっくり休んでね。リュシアンさん、うちは狭いから、つむぎの部屋で一緒に休んでいただくことになるけれど……構わないかしら?」


「なっ、ナラさん!? 何を言って……!」


 私は心臓が飛び出しそうになった。王城にいた頃、同じ空間で眠るなんてことはなかった。


「何言ってるのよ、つむぎ。遠いところから、苦労してあなたを迎えに来てくれたお方なのよ? 離れ離れにするなんて、そんな酷なことできないわ。それに……お二人は、その、そういう仲なんでしょう?」


 ナラは茶目っ気たっぷりにウインクをした。彼女の善意100%の勘違い。けれど、それを訂正できるタイミングは、リュシアンの「構わない。むしろ、その方が安心だ」という短い返諾によって、永遠に失われてしまった。


 夜が訪れた。

 窓の外では、夜の森特有の深い静寂と、時折聞こえるフクロウの声が響いている。

 狭い屋根裏部屋。そこには、私が使っている小さなベッドと、ナラさんが急いで用意してくれた予備の寝具が敷かれていた。


「……狭くて、すみません。リュシアン様が寝るような場所じゃなくて」


 私は、膝を抱えてベッドの端に座り、俯きながら言った。部屋の灯火は小さく揺れ、彼の長い銀髪を淡いオレンジ色に染めている。


「構わないと言ったはずだ。……王宮の、あの広すぎるだけの寝所より、ここはよほど息がしやすい」


 リュシアンは、床に敷かれた寝具に腰を下ろし、背中を壁に預けた。彼の大きな身体には、この部屋はあまりに窮屈そうで、そのことが余計に私の胸をざわつかせた。


「……つむぎ」


 不意に名前を呼ばれ、私は肩を跳ねさせた。


「こちらへ来い。……眠るまででいい。お前の気配を、もっと近くで感じていたい」


 その声は、命令ではなかった。あの日、激流の中で私を呼び止めたときのような、縋るような響き。


 私はベッドの端に腰掛けたまま、指先をぎゅっと握りしめた。心臓の音が、狭い屋根裏部屋に響き渡っているような気がして、顔を上げることができない。

 あの冷たい離宮にいた頃の彼なら、有無を言わさず腕を掴み、自分の傍らにひざまずかせていただろう。けれど、今の彼はただじっと待っている。その「待たれている」という事実に、私の心は千々に乱れた。


(……どうしよう。だって、同じ部屋で、こんなに近くに……)


 ナラは気を利かせてくれたつもりなのだろうけれど、私にとっては刺激が強すぎる。隣に座れば、彼の高い体温や、雨に濡れた森のような、あの独特の香りが肌を撫でるだろう。絆の糸がトクン、トクンと波打ち、私の理性をじわじわと侵食していく。


「……リュシアン様。あの、私は、ここで……」


「……お前が触れられる距離にいなければ、私はまた、あの暗い泥の中に沈んでいくような心地がするのだ」


 彼は自嘲気味に目を伏せた。その長い銀色の睫毛まつげが、頬に寂しげな影を落とす。最強の竜人であるはずの彼が、私というちっぽけな存在にこれほどまで依存している。その事実が、私の拒絶する勇気を奪い去っていく。


 私が意を決して、彼の座る床の寝具の方へ一歩踏み出そうとした、その時だった。


 穏やかになりかけていた黄金の瞳が鋭く細められ、彼は私の肩を掴んで、そのまま音もなく背後の壁際へと押しやった。


「……リュシアン様? どうしたん……っ」


「静かに」


 耳元で囁かれた低音に、言葉が詰まる。彼の視線は、部屋の小さな窓の向こう、闇に沈んだ森の奥へと向けられていた。

 先ほどまで感じていた、とろけるような熱は霧散し、彼の身体からは一国の皇子としての、冷徹なまでの威圧感が溢れ出している。


 私も息を殺して、彼の視線の先を追った。

 最初は、夜風に揺れる木々のざわめきしか聞こえなかった。けれど、カチャリ、という金属が擦れ合う微かな音。整然と草を踏みしめる、訓練された複数の足音。そして、闇の中に浮かび上がる、ぼんやりとした灯。


「……来たか」


 短く吐き捨てられた言葉に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。

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