第2話:紅い舌と白い酒
(……また面倒に巻き込まれてる)
朝から洗濯物の中に潜んでいた「生乾きの赤痕」に気付き、
同室の下女の食器から微かに「土気の匂い」を嗅ぎ取り、
そして今──ユウは、酒宴の最中に、急遽呼び出された。
「舌が……舌が、真っ赤に……っ」
絹の帳をかき分けて飛び込んだ先、
ひとりの妃が、口を開けて、泣きそうな顔をしていた。
小さな舌は、まるで染料に漬けたかのように、どす黒い紅に染まっている。
「毒です! 誰かが毒を盛ったんです!」
騒然とする部屋。
集まっていたのは五人の妃と、酒を注いでいた宦官数名。
食膳の中身はほとんど手がついておらず、皆が固唾を飲んで妃の舌を見守っていた。
「動悸なし、顔色良好、嘔吐・下痢なし……呼吸も正常」
ユウは、脈を取りながら呟く。
毒なら真っ先に見られる症状が、どれもない。
だが舌は確かに紅く染まっていた。
「……何か召し上がりましたか?」
「白酒を……皆で乾杯を……」
傍らの杯には、半分だけ残った白い酒。
ユウは手に取って香りをかいだ。
(……甘い。梨の花と……杏仁? どこか、鉱物のような匂いも混じってる)
白酒に異臭はない。色も問題なし。毒なら、こんなに堂々とはしていない。
「ほかに誰か飲んだ方は?」
「私も……」「わたくしも……」
他の妃たちも、口をつけていたという。
(でも、舌が染まったのは一人だけ──なぜ?)
ユウは杯を慎重に傾けた。
底に、何かが沈んでいる。
「……これは」
小さな粒。それは透明で、指先に取ると、すっと消えた。
「氷……?」
(白酒に氷? 夏でもないのに?)
違和感が、ユウの脳裏に引っかかった。
この国の上流階級では、夏になると氷室から氷を運ばせ、冷たい菓や酒を楽しむ習慣がある。
だが今はまだ春。
氷は貴重品のはずだ。まして、酒に仕込む理由があるだろうか?
ユウは、器の外を指でなぞった。
(冷えていた形跡は……ない。ではこれは、見せかけの氷?)
氷のふりをした何か?
──そのとき、別の妃が口を開いた。
「そういえば、氷を運んできたのは珍しい宦官でした。見かけない顔で……」
「紅い舌の原因、判明しました」
ユウは、そう告げた。
「毒ではありません。ただの“色素”です」
「色素……?」
「白酒に沈んでいた“偽氷”は、ある植物の根を乾燥させて作った塊です。
水に溶けると、濃い紅の色素を放つ。毒性はありません」
「でも、どうしてそれを……?」
「仕掛けた者は、“舌が紅く染まった”ことだけを狙ったのでしょう。
見た者が驚いて騒げば、疑心暗鬼になる。
一番目立ちたがりの妃に仕掛ければ、全員が警戒しますから」
そう言って、ユウは白酒の杯をいくつか並べた。
そのうちのひとつだけ、底に“色素の氷”が沈んでいる。
つまり、最初からその妃だけが狙われていたのだ。
「では……犯人は?」
「氷を運んだ宦官。けれど、おそらく“雇われた”だけでしょう」
ユウは、妃たちの席次を見渡す。
──誰が、どの位置に座り、どの杯を取るかは決まっていた。
「一番手前に置かれた酒」が“紅舌の杯”だったのだ。
「この席次と杯の配置を決めたのは、あなたですね」
ユウの視線が、ひとりの妃に注がれる。
驚いたように身を引いたその妃は、淡く笑った。
「証拠など、ないでしょう?」
「ありません。でも、舌が染まらなかったあなたの杯……そこにだけ、“水滴の輪”がない。
つまり、冷えた氷の杯が置かれたのは、他の四人だけだった。あなたの杯は最初から空だった」
それは、冷えた杯をわざと避けた証拠だった。
「……なるほど。だから“毒”ではなく“色”なのね。やるじゃない、田舎娘」
妃は唇を吊り上げ、堂々と去っていった。
(──毒にもならない色素で、心を惑わせる)
ユウは、染まった杯を見つめる。
視覚の印象は、時に毒以上の衝撃を与える。
まるで幻覚のように、記憶に残り、思考を狂わせる。
(目に見えるものが、真実とは限らない。だから私は、“匂い”で確かめる)
ふっと香の匂いが鼻先をかすめる。
都の空気にも、ようやく少しだけ慣れてきた。
だが──
「これが“無害な色素”で済む話なら、まだいい。
次は、そうとも限らない」
これはまだ、始まりに過ぎない。
この後宮には、もっと濃く、もっと黒い“毒”が潜んでいるのだから。