第1話:涙を流す鏡
(……また雨、か)
重い雲を仰ぎ見て、ユウは首をすくめた。
都の空気は、辺境とちがって重たく、どこか腐っている。
香の煙と脂粉の匂いが混じり、鼻が利く彼女には拷問のような場所だった。
──いや、正確には。ここは「後宮」である。
皇帝の妃たちが暮らす、華やかにして陰謀と毒が渦巻く場所。
ユウは“臨時の調薬係”という名目で、文字どおり連れてこられたのだった。
「お前の鼻は使える。後宮で使ってやる」
そう言った宦官の顔を、今でも時々思い出す。
その日、ユウが最初に案内されたのは、薄暗い一室だった。
鏡台の前に座る若い妃が、しゃくり上げるように泣いている。
「……鏡が、私を睨むんです……っ」
宦官と侍女たちは顔を見合わせ、口をつぐんでいる。
どの医官に見せても、異常なし。「気の病」と診断されていた。
「鏡が睨むって、どういうことだ?」
ユウは問いながら、室内を観察する。
香炉からは甘い麝香の香り。
窓はわずかに開いているが、空気は湿っていた。
鏡台の鏡には……確かに、涙の跡のような筋が浮かんでいる。
(……濡れてる? いや、これ……)
ユウは、鏡を拭き取るために布を取った。
鏡の下縁、金属の枠が黒ずんでいる。
「拭くの、やめてください!」
妃の叫びに、ユウの手が止まる。
「この涙が……この鏡が、私の苦しみを写してくれてるんです!」
調査の結果、ユウはあることに気づく。
妃が泣くのは夜だけ。
鏡に涙のような水滴が朝になると現れている。
侍女は、部屋の香を毎日絶やさず焚いている。
鏡の枠は鉛を含んだ装飾で、時折黒ずんでいた。
ユウは、ふと床下を調べるよう宦官に頼み、あるものを見つける。
「……排気口?」
そこからは、低く湿った空気が逆流していた。
「この部屋、寝室のすぐ下に……厨房がありますね?」
宦官が驚く。
「そうだ。調理場の香辛料や湿気がこもるときがある」
数日後、ユウは再び鏡の前に立つ。
「この鏡……裏側、少し開けてもいいですか」
金属の枠を外すと、そこには薄く結露した鉛板。
夜、気温が下がると結露し、それが翌朝「涙」に見えていたのだ。
だが、それだけではなかった。
「この香……何を焚いてる?」
「頂いた香です。心を落ち着かせる、と……」
ユウは鼻をしかめる。
──香に、微量の**ジンチョウゲ(沈丁花)**が混じっている。
それは微量であれば鎮静作用があるが、長期吸引すると情緒不安定を引き起こす。
「これは毒じゃない。でも、毒にもなる」
鏡の涙、香の成分、地下からの湿気。
すべてが妃の“不安”を煽るように仕組まれていた。
「ご覧になりますか?」
ユウは鏡を妃の前に置く。
だが、そこに“涙”はもうない。
「なぜ……?」
「結露が起きないよう、換気口を整えてもらいました。香も変えてあります」
妃はぽかんとした顔で、鏡を見つめる。
「でも……私、あの鏡に見られてる気がして……」
「それは、あなた自身が自分を疑っていたからです」
ユウの言葉に、部屋は静まり返った。
(──毒というのは、必ずしも“殺すもの”じゃない)
言葉、空気、香り、記憶。
それらすべてが毒にも薬にもなる。
「鏡の涙なんて、ただの水滴。でも、それを“呪い”と信じれば──本物になる」
ユウは、そう呟いて部屋を後にした。
これが、彼女が後宮で最初に解いた「謎」だった。
このときはまだ、自分が三年後に“毒見官”と呼ばれるようになるとは、思ってもいなかった。