第八話 灰色と赤
『本!いいわね! それだったら――』
フィオナが思いついたように顔をハッとさせる。
『“冒険の書”! 冒険の書を作るのよ!』
フィオナは目を輝かせていた。
今はーー
目は虚で口からは血が流れ出ている。身体は脱力し、セオドアにただだらりと身体を預けているのみであった。
森を支配していた静寂が、砕けた。
セオドアの腕の中でフィオナの体が冷たくなっていく、その瞬間。
木々の間にうごめく影――黒装束の集団が、音もなくセオドアたちを囲んでいた。
その存在はまるで、死の香りに導かれた亡者のようだった。
「――っ、なんだ……!? 何者だ!」
誰かが叫ぶより早く、空が裂けた。
無数の黒杭が、空から降り注いだ。
それは弓でも投槍でもない、まるで“呪い”のような質量だった。
「避け――!」
ドシュッ!
その声が届くより先に、一人、また一人と新人冒険者が杭に貫かれていく。
ロゼが叫ぶ。ダリルが振り向きざまに盾を構える。だが、その必死の防御すら意味をなさなかった。
セオドアは周りの喧騒も聞こえておらず、ただ、フィオナの血が染み込んだ腕にしがみつき、目を見開いたまま、呆然としていた。
視界の端で、誰かが倒れ、叫び、もがく。
誰かが泣きながら他人をかばい、叫び声が空へと吸われていく。
――それでも、何も聞こえなかった。
音は消えていた。
彼の中で、何かが決定的に、壊れていた。
だから。
右肩に杭が突き刺さった瞬間、セオドアの体が、ようやく我に返る。
ズブリ、と肉を割いて体内へ食い込んでくる感覚。
血の熱。痛み。震え。
そして――
「…………う、ぁ……」
セオドアはやっと周りに目をやった。空から振り返り注ぐ、杭に逃げ惑う新人冒険者達。
すでに地面には何人かが倒れて、虚な目をして血を流している。
「あ........あぁ........」
「セオドアさん!!!!」
ロゼがセオドアに手を伸ばしながら近寄ろうとするもセオドアの前でロゼの首に杭が打ち込まれる。
目の前に血飛沫が広がる。
「ロゼ!!!!!!」
すでに背中に杭を受けているダリルが急いでロゼに駆け寄ろうとするも足に杭を受けて、その場に転がる。
ダリルは足に杭を受けてなお必死にロゼに近寄ろうと這いずる。
「ロゼ......!!ロゼ.......!!あぁ.....そんな......!」
セオドアとダリルが目が合う。
「セオドアさ......ーー」
ダリルの頭に杭が打ち込まれる。
「あぁ.....、あぁ.......!」
瞳が、濁る。
視界の色が、灰に染まっていた。――いつもの、あの色だ。
杭を自らの肩から引き抜き、セオドアはゆっくりと立ち上がった。
腕の中のフィオナの体を、そっと地面に横たえながら――
「……誰も、死なせないって……言ったのに」
その声は低く、凍りつくような怒りと悔恨に満ちていた。
「……なのに……!」
セオドアは斧を抜いた。
血を吸った刃が、夕暮れのような色を帯びて煌めいた。
黒装束の一人が、動いた。
瞬間、セオドアの姿が掻き消えた。
次の瞬間、黒装束の首が、宙を舞っていた。
「な、気をつけろ!!!!そいつが一番厄介だぞ!!!!!」
黒装束の集団がセオドアの一閃にたじろぐ。
「馬鹿野郎!!あんなボロボロで何ができる!やれ!!」
再び杭がセオドアに降り注ぐ。
セオドアは灰色の世界には他の色を認識する事もなく、ただただ赤色の水飛沫が上がるのだけを感じていた。
斧を振る。
杭が身体に刺さるのを感じる。
また斧を振る。
いつのまにか杭は止んでいた。
降り注ぐのは灰色の雨。
セオドアの足元には赤色の水溜りができている。
それは敵のものか、自分のものか――もうわからなかった。
右肩からは杭を引き抜いた痕が痛む。左脇腹には刃の裂傷。視界の端では、新人冒険者達の亡骸が見える。
斧を握りしめる。
一人、また一人。
黒装束の男が音もなく間合いを詰めてくる。その気配を読むよりも早く、セオドアの身体が反応する。
斧を横に薙ぎ払えば、黒布の仮面が弾け飛び、男が喉元を押さえて崩れ落ちる。
「ッラアァァアッ!!」
裂帛の気合と共に、セオドアは次の敵に斬り込む。刃と刃がぶつかり、金属の火花が散った。
だがその動きは直線的だった。
セオドアの動きには“迷い”がなかった。何も守れなかった自分を殺すかのように、ただ振るい、ただ進んだ。
二人目の首筋を切り裂く。
三人目の腹に斧が食い込む。
敵が動揺し始める。
圧倒的な破壊力――ではない。ただ、“死を恐れていない者”の動き。それは、狂気にも近かった。
「……ちっ、やってられねぇ……!」
低く、くぐもった声。黒装束の一人が、後方へ跳ぶ。
「撤退しろ。今は“時”じゃねぇ」
「だが奴は――」
「いいから行け!これ以上はまずい!」
言葉と同時に、残った黒装束の男たちが、一斉に森の闇へと消えていった。
残されたのは、セオドアただ一人。
手からするりと斧が落ち、地面に鈍い音がする。
血の海の中、彼は膝をつき、息を吐く。泥にまみれ、雨に濡れ、視界が霞む。
やがて、天気は土砂降りとなり、戦場に降り注いだ血を薄く洗い流していく。
「……誰も、死なせないって……言ったのに……」
震える声が、雨音に溶けていく。
誰の返事もない。
息をしているのは、もはや彼一人だった。
倒れた仲間たちは、もう目を開けない。
ロゼも、ダリルも。
そして――フィオナも。
セオドアはその場に膝をつき、顔を伏せた。
雨は止まない。
まるで世界そのものが、彼の罪を洗い流すかのように、冷たく、無慈悲に降り注いでいた。
セオドアは亡霊の様に新人冒険者の亡骸の中を歩き、地面に横たわるフィオナに歩み寄る。
膝から崩れ落ち、力無くフィオナを抱え上げる。
雨音だけ周囲を激しく包み込む。
気がついたらフィオナを抱え森を歩いていた。
ぬかるむ森の中、セオドアはただ一人、フィオナの亡骸を抱きしめながら歩いていた。
雨は止む気配もなく、森の木々から滴る水音が単調に続く。
土も、葉も、空も、すべてが灰色だった。
歩いているのか、彷徨っているのか、セオドア自身にもわからなかった。ただ、フィオナの身体の重さだけが現実を引き留めていた。
そのときだった。
――目の前に、人影が立っていた。
「……セリカ……さん.......?」
血塗れの顔。泥まみれのマント。ぐったりと両腕を垂らし、それでもセリカはそこに立っていた。
「セリカさん達も襲われて.......?」
セリカは濁った瞳で、ただ淡々と呟いた。
「……ノエル氏も、ドラン氏も……他の新人冒険者達もみんな、殺されました........」
「……え?」
理解が追いつかなかった。
「……黒装束に、囲まれて……みんな逃げようとしたけど、ダメで……」
セリカの唇が震えていた。
「こんな私だけ……私だけが、生き残ったの……どうして、私なんかが……!」
その声に、セオドアは言葉を失った。
ノエルさんが?ドランさんが?明るく皆を励ましていた彼女たちが――?
セオドアがループを打ち明けた時にみんなで抱き合ってくれた事を思い出す。その思い出がどんどんと焦げ付いていく。
「うそ……だ……」
ようやく絞り出した声は、雨音にかき消された。
セリカはよろよろと歩み寄ってきて、セオドアの目の前に立った。
その顔には、涙が混じっていた。
「……セオドア氏」
次の瞬間だった。
――ズブリ、と。
湿った音と共に、激しい痛みが胸を貫いた。
「…………あ……?」
視線を落とすと、自分の胸に突き立てられた銀の刃。柄を握っているのは、他でもない、セリカだった。
「……ごめんなさい……」
そう囁いた彼女の顔に、かすかに笑みが浮かんでいた。
「だって……もう、終わらせなきゃいけなかったのよ。全部……この世界は狂ってる.......」
セオドアの腕から、フィオナの体が滑り落ちる。
理解も、感情も、追いつかない。
ただ、血が流れる。
胸を貫いた刃から、赤がこぼれ、雨とともに混ざり合っていく。
世界が、音もなく、静かに崩れていくようだった。
この感覚.......知っている........
死だ。




