第四話 アトラス商会【1/2】
――その名が刻まれた瞬間を、セオドアは今でも鮮明に覚えている。
“アトラス商会”
羊皮紙の上にインクが染み込んでいくあの一画。仲間たちが喜びに沸いたあの瞬間。ドランが呟いたその名前に、彼らは未来を託した。
「これでアトラス商会の旗揚げよー!」
フィオナの高らかな声、ノエルの歓声、セリカの夢見がちな笑顔、ドランの無言の激励。全てが、まばゆい始まりを象徴していた。
――そして今。
机に突っ伏すセオドアの頬に、乾いたインクの匂いが残っていた。
アトラス商会が正式に名乗りを上げてから、まだ一週間も経っていないというのに――。
セオドアは、頬杖をついたまま机に突っ伏しかけていた。目の下には薄く隈が浮かび、広げられた帳簿の数字がぼやけて見える。
「……もう何がなんだか......」
「そうだね〜。私は初日からちんぷんかんぷんだよ〜」
ノエルが隣の椅子から覗き込みながら、肩をすくめて笑う。その声にも、いつもの軽さよりも明らかに疲れがにじんでいた。
広げられた机の上には、売上集計表、印刷業者との契約書、流通スケジュール、そして……誰も触れようとしない未決済の請求書の束。
最初こそ、勢いとやる気でどうにかなると思っていた。
だが現実は、それよりずっと厳しかった。
フィオナは午前は依頼、午後は販売の打ち合わせに奔走し、ドランは流通倉庫との交渉役と荷運びを兼任していた。
ノエルは宣伝活動と事務処理を掛け持ちし、セリカは素材提供の傍らで印刷の品質にクレームを出し続けている。
そしてセオドアは、帳簿と依頼の両立に追われて、心も体も擦り減らしていた。
「……こんなはずじゃなかったんですけどね」
呟いた言葉に、誰も返さなかった。返す余裕がなかったのかもしれない。
応接間の壁に立てかけられた《冒険の書・初心者編》は、まるで「それでもやるんだろう?」と無言で問いかけてくるようだった。
これが夢だった。誰かの命を救うための“仕組み”を作ることが。
けれど、夢を現実に変えようとすればするほど、その現実に押しつぶされそうになる。
「……今日もモンスター討伐、三件入ってるんですよね?」
「うん。情報集めも進めないと、中級者編が出せないしね……」
フィオナが引き攣った笑顔を見せた。
重たい沈黙が落ちた。
けれど、誰も口に出して弱音を吐く者はいなかった。ただ、それぞれの肩に、ひとつまたひとつと、静かに疲労が積もっていく。
まるで、世界を支える巨人のように――その名の重さが、静かに背中にのしかかっていた。
あるの日、アトラス商会の扉が重々しく開かれた。
金属の留め具が軋み、来訪を告げる鈴が高く鳴る。セオドアが顔を上げると、そこには黒い手帳を携えた女が立っていた。
「ご機嫌よう。商業ギルドの監査担当のベアトリスです。視察に参りました」
いつもながら隙のない物腰。見るからに格式と責任を背負ったその姿に、店内にいたフィオナとノエルも思わず姿勢を正す。
セリカは書類に埋もれたまま居眠りをしていた。
書類まみれの帳簿、在庫の山、乱れたスケジュール表。セオドアは内心で絶望的な叫びをあげつつ、ぎこちなく立ち上がった。
「ベアトリスさん……お忙しい中、ありがとうございます。い、今、応接の準備を――」
「お気遣いなく。見たいのは“ありのまま”ですから」
ベアトリスは無遠慮な視線を室内へ滑らせ、積まれた印刷途中の本や、手作業で製本中の資材、無造作に放置された未処理の伝票に目を留めていく。
「……なるほど。勢いで始めたのが見てわかりますが、これは想像以上に混乱してますね」
その言葉に、セオドアは返す言葉がなかった。
フィオナが言い訳めいた声で口を開く。
「一応、みんなで手分けして頑張ってはいるんですが……」
「その“みんなで”が問題でしょう」
ベアトリスの視線は鋭かった。特に制作台に積まれた、セリカの図鑑原稿の山にじっと目を止める。
「あなたたちは《制作》と《現場》の区別が甘すぎます。現場の人間を制作に回せば、本来の機能が失われるのは当然でしょう」
「……それは、はい。僕も……うすうす感じてはいました……」
俯くセオドアを見やり、ベアトリスはため息をひとつ吐いた。
「――紹介したい人物がいます」
そう言って手帳を開き、一枚の名刺を取り出す。細かな文字で「マックス・エルバート」の名が刻まれていた。
「彼は若いながらも商業ギルドの“外部顧問候補”として動いている才人ですが......」
「ですが......?」
「少々正確に難のある人材です。そこはまぁ......ここを立て直すと思って辛抱して下さい」
セオドアは名刺を受け取る手に力を込めた。
「明日、ここに連れて来ます。――経営、見直す準備をしておいてください」
次の日の昼、アトラス商会の事務所に、控えめなノック音が響いた。
開いた扉の向こうから現れたのは、シャツの襟をきっちりと立てた少年――セオドアたちと同世代ほどの年齢に見える青年だった。
淡い金茶の髪をなめらかに撫でつけ、瞳は冷ややかな灰色。精悍で整った顔立ちであった。
「初めまして、アトラス商会の皆さま。商業ギルド監査室から参りました、マクシミリアン・エルバートと申します。どうぞマックスとお呼びください」
一礼する仕草は完璧だった。が、マックスは視線を商会の中へと巡らせる。
「……これはこれは実に興味深いです。“手作り商会ごっこ”というのは、なかなか珍しい事例ですので」
「あ“?」
フィオナのこめかみにピキッと青筋が浮かぶ。セリカが手元の書類を落としかけ、ノエルは「うはー」と口を半開きにした。
「え?」
セオドアが思わず反応すると、マックスは微笑みながら続ける。
「あぁ、お気になさらず。もちろん、否定しているわけではございません。
皆さまの冒険の書制作への情熱はベアトリスより聞き及んでおりますので敬服もしています。
理念も素晴らしい。
ただ、商売というものは“情熱”と“計画”が両輪でなければ、すぐに空転してしまいます。
ええ、今のアトラス商会がそうであるように」
敬語なのに刺さる。むしろ、敬語だからこそ余計に刺さる。
机に置かれた冒険の書をひと目見るなり、彼は言った。
「この商品、素材は悪くありません。
が、流通設計ゼロ、費用対効果は不明、宣伝は良好とは伺いましたが.......この有様なら評判もすぐに落ちてしまうでしょう。
……端的に申せば、このままじゃ倒産ってことです」
「……っ!」
セオドアが言い返そうとするが、その隣でフィオナが立ち上がる。
「さっきから黙って聞いてりゃ、なんなのよアンタ!」
「商業ギルド監査室のマクシミリアン・エルバートでございます。あなた達が商会ギルドからの資金提供をドブに捨てさせない様に派遣されました」
「……!」
ニコリと笑いながら返され、言葉を詰まらせるフィオナ。
「これからよろしくお願いします」
マックスはにっこりと微笑むがフィオナが爆発しかけた為、暴れる前にドランがフィオナを取り押さえた。
マックスはそんなフィオナを皮肉めいた笑みを浮かべながら、手にしていた冒険の書を徐に開いた。
さっきまで浮かべていた薄ら笑いが消え、無表情となる。
「ほぅ.......これは.......これは......」
パラパラと目を通したマックスはパタンと冒険の書を閉じた。マックスは、再び全員へと視線を巡らせる。
「.....いいでしょう。これより、私が商会経営の助言を行います。
やるからには徹底的に。
……ただし、趣味のサークル活動を続けたいだけなら、私は帰りますが如何致しましょう?」
静寂。張り詰めた沈黙。
だが、彼の瞳には一切の悪意はなく――ただ冷徹なまでの“合理”だけが宿っていた。
セオドアの喉がごくりと鳴ったノエルも、珍しく笑っていない。それでも、誰一人「帰ってください」とは言わなかった。
重たい沈黙の中、マックスは再び冒険の書を軽く持ち上げて、ことんと机に戻した。
「では、まずは現状の問題点から整理いたしましょう」
その声は落ち着いていたが、どこか戦場の号令のような厳しさを含んでいた。
「あなた方は現在、冒険者と商会運営の両立を目指していると伺いました。……正直に申し上げて、それは愚策です」
「グサッ」
ノエルがダジャレをぶっこむが、マックスはそれを遮るように言葉を続けた。
「もちろん、志の高さは結構です。しかし、あなた達がモンスター討伐やらに出るたびに製作が止まります。
逆を言えば制作に入れば、モンスター討伐とやらが行えない。
非常に効率が悪い。
結果、納期は延び、品質は安定せず、収支は赤字に転落する。……この悪循環、気づいておられないわけではないでしょう?」
「……」
誰も言い返せなかった。図星だった。
「よって、提案いたします。ブックメーカーの皆さまは、現場と記録の専門集団として完全に業務を分離してください。
冒険の書の“製品化”には一切関与なさらないことをお勧めします」
「でも、それじゃあ……僕たちの意志が――」
セオドアが反論しようとすると、マックスはぴたりと視線を合わせた。
「意思!
大変結構!!
ですが、私が思うに貴方達が現場で培った知見にこそ価値があるのです。
あなたの知識に価値がある。
あなた達が”真心を込めて作った本“には価値はない!
”あなた達の知識を元に作られた本“であるから価値があるのです!」
「.......僕達の知識を元に作られた本であるから価値がある......?」
「作家が本を出す時、必要なのはその情報が如何に有用であるか、如何に面白いかが重要なのです。
そこまでしか求めていません。
作家が製造・流通・帳簿・取引などのその他諸々の業務をするなど、言語道断。
そんな暇があるのなら早く続きを書くべきです」
熱を帯びていたマックスはスッと冷静な表情に戻る。
「製造・流通・帳簿・取引先交渉。これらは我々“裏方”がやります。情報を届けるためには、まず商品として“流れる仕組み”を作る必要があるのです」
マックスは資料を取り出し、机に広げてみせた。そこには予算案、資金回転率、印刷所の稼働可能日程、地域別の配送網までが緻密に整理されていた。
「――これが、私の計画案です。“アトラス商会”が商いとして生き残る道。ご査収くださいませ」
セリカがそれを覗き込み、ぽつりと呟く。
「......」
「……情報のまとめ方も、美しいですね」
「ムカつくけど......仕事はできる様ね.....」
「うん。わからん」
「数字ばっかり.......」
マックスはそれを軽く聞き流すと、腕を組んで改めてセオドアを見つめた。
「さあ、代表。決断の時です。“理想を語るだけの団体”で終わるのか。“理想を叶える体制”を築くのか。どちらを選ばれますか?」
セオドアは静かに手帳を握りしめ、仲間たちを見回した。
ノエル、セリカ、フィオナ、ドラン――誰もが、それぞれの覚悟を瞳に宿していた。
「……お願いします。マックスさん」
マックスはにっこりと笑い、わずかに頭を下げた。
「最初からそのおつもりでいてくだされば、助かります。では、地獄の再編会議を始めましょうか」
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