第三話 勇者とモンスター【2/2】
風車の羽根が、ぎい、と長く鳴った。
――《ディムウッズ》。
森の入口は、思った以上に暗かった。枝が絡み合い、昼でも夜の匂いがする。落ち葉は滑り、土は湿って足を奪う。
「ハルト、左」
「わかってる」
エリナが先、ハルトが半歩後ろ。二人は呼吸をあわせ、倒木を跨ぎ、爪痕をなぞる。幹に残る三日月の裂け目は新しく、樹皮の汁にまだ鉄の匂いが混ざっていた。
「近い」
ハルトの背に、ざわりと知覚が走る。葉の揺れ方、鳥の鳴き止む間、風の機嫌。全てが、ひとつの影の到来を告げる。
ランタンの火が一段弱まった。
足元の小石が、一つ、転がる。
黒いものが、木々の狭間から立ち上がった。
それは、狼に似て、狼ではなかった。二足でも四足でも歩ける膂力を持ち、肩から腰にかけて盛り上がる筋肉は、鎧のような毛皮に覆われている。毛は墨のように黒く、眼は硫黄の火のように光る。
息を吸うたび、喉の奥で石同士が擦れる音がする。
「ベルゼルグ……!」
エリナが唾を飲み込む。刹那、獣は消えた。
空気だけが歪み、次の瞬間、エリナの目の前に顎と爪が迫る。
「はや――」
ハルトが飛ぶ。肩でエリナを弾き、爪は空を切った。黒い傷の匂いが、風に散る。
――来る。
ハルトは踏み込みを半歩に抑え、刃を斜めに滑らせた。毛皮が火花を散らし、皮膚に白い線が一本、細く刻まれる。
(硬い……!)
ほとんど通らない。だが、通らないわけではない。わずかだが、血が――
視界が反転した。胴に衝撃。背中が木に叩きつけられ、肺の中の空気がすべて外へ逃げる。
「っ……!」
「ハルト!」
エリナの剣が鳴る。
彼女は獣の横に回り込み、斬撃を振る。刃は表皮を滑り、毛を飛ばすだけ。
ベルゼルグの赤い目がぬるりと彼女に重なった。
「来んな!」
エリナは退かずに踏み込んだ。
教わった通り、肩の動きで先を読んで横へ抜ける――はずだった。
獣の動きは一拍、速かった。爪が横から、予測の外で閃く。
鈍い音。エリナの体が弾かれ、幹に叩きつけられる。剣が転がり、息が止まる。
「エリナ!」
エリナは気を失った様に地面に力無く倒れる。
「……っ!」
ハルトの足が勝手に動く。脳が後を追い、教えられた手順が叫ぶ。首筋、わずかに薄い……!
ベルゼルグが振り向く。
刃がその視線と交差する。
ハルトは斜に潜り、首の付け根に短剣を押し当てて全身を絞った。
感触はある。だが、刃は浅い。血は滲むが、獣は止まらない。逆に怒気が増す。毛が逆立ち、喉が唸り、腕が上がる。黒い鎌が落ちてきた。
視界が白くはじけ、世界が一瞬斜めになった。左肩に焼けた鉄を押し付けられたような痛み。短剣が手から落ち、土に音を立てる。
(これが……試練?こいつは……バケモノじゃないか……!)
立て。立て。立て。
ハルトはエリナの方を見る。
エリナは未だ気を失っている。
『私が撤退を叫んだら絶対に撤退すること!約束ね!』
(撤退……?いや!エリナが気を失っている今、俺が担いで撤退するしかない……)
ハルトは目の前に佇む黒い影を見る。
(あいつがそんなの許してくれる訳ないよな……)
膝が笑い、足が言うことを聞かない。獣の影が覆う。口が開く。並ぶ牙一本一本が、光を吸って鈍く濡れている。
(まだ――)
指が土を掴む。
俺がこいつを倒さなきゃ、エリナも死ぬ!
そして……セオドアさんも……
戦うんだ……!!
鼻先に、鉄と樹液と自分の血の匂い。マントが破れ、額に冷たい風。ベルゼルグの吐息が、顔面を湿らせる。
「うぉおおおおお!!!」
ハルトは残った右手でナイフを探り、最後の一本を逆手に握る。獣の眼孔に突き立てるために、腕を振り上げ――
間に合わなかった。
牙が降りる。世界がぐしゃりと押し潰された。骨の鳴る音が、耳の中で遠く響く。
鮮やかな色が、音をなくして広がった。
ハルトの右腕の肘から先をベルゼルグが食いちぎる。
「あぁあああああああああ!!!!」
痛みでハルトは絶叫をあげる。
リオは森道を駆けていた。肺は燃え、枝が頬を切る。耳の奥では、五十年前の笑い声が重なる。
『俺は父さんみたいな冒険者になるんだ』
(何をしている――私は)
足が勝手に速さを上げる。
殺せ、と命じた声が背中を掴む。
戦いを教えたのはただの気まぐれ。
その相手がたまたま……勇者……ハルトであっただけだ……
そうだろう。
いや、違う。
ハルトをスナッチファングから救った時の目が、背を押した。あの目の色が、五十年前の誰かと同じだった。
森が開け、鉄と血の匂いが、風を割って顔を殴った。
「……!」
地面に、赤い線。黒い巨影。倒れた少女。そして――力無く、その場に膝をつくハルトの姿があった。
「……っく!」
ビクトールは長剣を鞘から引き抜く。
しかし、ベルゼルグの牙がハルトに迫っていた。
傷だらけのハルトは力無く、ビクトールの方を見る。
その表情はすぐにベルゼルグの牙によって遮られた。
「……っ!ハルトォォォォッ!!!!!」
喉が裂けるような声が、森を駆け抜けた。
ベルゼルグの眼が、遅れて彼を見た。刹那、長剣が鞘から抜け、空気が弾け、鮮やかな赤色がビクトールの視界を覆い尽くす。
――そこで、世界は一度、止まった。
音が消え、色が灰になり、輪郭がほどけ、視界の端に砂嵐が走る。
冷たい静寂の、ほんの一滴の時間。
そして、すべてが落ちた。
ハルトの耳にはグシャリと頭蓋が潰れる音がこだました。
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