第二十六話 鬼ごっこ【1/2】
――第五階層《残響の回廊》。
風化した大理石の床は、踏むたびに粉を吐き、足裏にざらりとまとわりつく。
天井は低くも高くもない曖昧な高さで、黒ずんだ柱列が延々と続く。
薄い瘴気が白靄となって漂い、灯りはすぐにくすみ、遠くの輪郭を溶かしてしまう。
「……走りますよ、ザガンさん」
「ああ」
二人は肩を並べるでも、背を預けるでもなく、ただ“同じ方向”を見て駆けた。
地図も、目印も、ない。
セオドアの十年は、牢の中で朽ちる空白だった。選べるのは本能と勘、そして一握りの手札だけ。
――蹄。
大理石を蹴り割る鈍い破砕音が、どこからともなくなった。
「......っ!」
「ミノタウロスかっ!」
ザガンが焦って振り返る。
「振り返っている暇はありませんよ!まだ追いつかれていません!!」
セオドアは駆けながらザガンに呼びかける。
「わかってる!」
ザガンは双剣を逆手に握り直し、走りながらもいつでも切り返せる重心を保つ。
曲がり角の先――鎧がひとりでに立ち上がった。空洞の兜に灯るはずもない閃光が瞬き、錆びたランスがこちらを向く。
金具の擦れる音が、皮膚の裏側をじわりと撫でた。
「ポルター・アーマーか!」
「倒している暇はないです!」
言うやいなや、セオドアは床を蹴る。
鎧の突きが真っ直ぐに伸びた瞬間、その穂先に“自分の足音”を一拍遅れで重ねるように踏み込み、肩を滑らせて内側へ。ランスは石壁に突き立ち、火花が散った。
ザガンが残像を引く速さで横を通り抜け、二人は止まらない。大理石の粉を巻き上げ、次の角を切った。
――蹄。
「近付いてる!」
今度は明確に背後。間違いない。反響ではない、生の迫り。
遠く、鉄が石を引きずる音。ギィィン……。セオドアの背筋に冷たいものが走る。
あの音は知っている。
デュラハンが剣を引き摺る音。首のない騎士が、どこかの枝道でこちらと並走している。
「近くにデュラハンもいます!」
「デュラハンか......厄介な奴がうろついてんな!」
二人は分かれ道に差し掛かった。
「右と左、どっちだ!」
「――左!」
返事をした瞬間、左前の闇からデュラハンが滑り出た。剣が一直線に突き出される。
「下!」
セオドアは叫ぶより早く身を落とし、スライディングしながら、デュラハンの剣を避け床を滑る。剣先が髪を攫い、ザガンの刃がその柄を斬り落とす。
「立ち止まらないで!」
「行け行け行け!」
――蹄。
ザガンが後方を振り返ると牛の角がチラリと見えた。
もう、曲がり角一つ分の距離もない。
「もう、すぐ後ろに来てるぞ!」
角。肩。息。あれは――ミノタウロスだ。
「ザガンさん、また分かれ道です!」
「狭い方は!?」
「右です!!」
選んだ瞬間、空気が押し潰れた。
背後で大理石が砕け、粉が霧となって迫る。
二人は幅一人半の脇道へ飛び込んだ。壁と肩が擦れ、皮膚に冷たい感触が走る。
――蹄。
角の石が跳ねた。ミノタウロスが壁にはまった音だ。
「よし!奴の巨体じゃここは通れない!」
ザガンはニヤリと笑みを浮かべる。
しかし、セオドアの顔に余裕は見られなかった。
(奴には《擬態》のスキルがある......!身体の大きさは人型まで自在に変えられる筈......!)
「気を抜かないでください!恐らく奴は通れます!」
セオドアの表情にザガンの顔から笑みが消える。
獣の荒い呼気が、通路の空気を震わせる。嗅いでいる。
狭い通路を抜けた後も背後にはミノタウロスの圧が徐々に近寄る。
「ヤベェぞ!セオドア!」
ザガンが叫ぶ。
セオドアが後ろを振り返るとミノタウロスの大きな手がザガンを掴もうとしているのが見えた。
(捕まる距離だ!なら――)
セオドアは喉を震わせた。
「止まれ!ベルザ・ドルグ!!!!」
――蹄が、一歩分だけ遅れた。
空気の圧が、ほんの刹那だけ緩む。
ザガンが間一髪でミノタウロスの手から逃れる。
「っぶねぇ!!」
ザガンが横目でセオドアを見た。何をした?と問う瞳。セオドアは顎で後ろを示すだけにとどめ、足を止めない。
ベルザは二人がが正体を知っているとは知らない。名前を呼ばれて一瞬の動揺を誘った事でザガンを間一髪で回避させる事ができたのであった。
ミノタウロスは目を細めて走り去る二人の背中を見る。
(私がベルザだと気付いている......?)
ミノタウロスは違和感を覚えた。セオドアの背中を見る。
ベルザの脳裏には第三階層でセオドアが放った言葉が過ぎる。
『ループしました!!!このままでは全滅です!!!全員を撤退させて下さい!!!!』
『前にも同じ状況を見たんです……!だから俺は、絶対に、誰も死なせたくない!』
『前にも......?それにさっき言っていたループとは一体?』
『後で説明するので早く撤退を!!!!』
セオドアの言葉から予測される事をベルザの脳内で弾き出す。
(恐らく、彼は何らかの方法で未来を見る事ができる......スキルか......あるいは魔法か......)
『止まれ!ベルザ・ドルグ!!!』
(ミノタウロスの姿の私をベルザと呼んだ事が何よりの証拠......)
ミノタウロスの目はセオドアの背中を捉える。
(セオドア君......君を先に殺しに来て正解だった様ですね......)
ミノタウロスの口角が上がる。
ただ踏み潰す音だけを残し、追ってくる。名を呼ばれたことへの苛立ちか、それとも焦りか。いずれにせよ、距離を縮める速度がわずかに荒れた。
正面に再びポルター・アーマー。今度は二体。片方は剣、もう片方は斧。
(この狭い通路じゃ避けれない!)
「使いたくはなかったけど......!」
セオドアは腰の革袋を片手でまさぐり、親指の腹で小瓶の栓を弾いた。ごく僅かな量。聖水。小瓶を二体の間の床へ叩きつける。
白い煙が一瞬、靄よりも濃く立った。鎧の足元が軋んだ。
ザガンがそこへ踏み込み、双剣を水平に払う。聖気に撥ねられた亡霊の鎧は一拍遅れで霧散し、通路が開いた。
「ナイスだ!!」
「けど聖水を使ってしまいました!残り2本です!」
言った刹那、背後から風が突き抜けた。
角が壁を穿ち、石粉が霧状に舞う。ザガンの外套の裾が裂けた。
「くっ!」
ザガンは外套がミノタウロスの角に引っ掛かりそのまま、振り払われ、壁にぶつかる。
「ザガンさん!!!」
ザガンはすぐに起きあがろうとしたその前にはミノタウロスの大きな目が視界を占拠していた。
『ザガン。その目は......やはり、私の正体を知っているな?』
ミノタウロスの姿から聞こえた声と言葉にザガンは全身が凍りつく感覚に襲われる。
「お前は......本当に......!」
ザガンの表情がみるみる強張っていく。
「ベルザ......さん......」
(まずいっ......!ザガンさんはまだミノタウロスがベルザだということに完全に受け入れ切れていない......!)
ミノタウロスはザガンを掴み取る。
『私の正体を知ってしまったか......哀れなザガン......』
「ふざけんな......みんな......ヴァンベッタもグウェンも......あんたが......!!」
ミノタウロスの手に掴まれたザガンはミノタウロスに悪態をつく。
「ザガンさんッ!」
セオドアは斧を引き抜き、身体に魔力の炎を立ち上らせる。
(完全に捕まった......!!どうする......!?)
セオドアは斧を振り上げながらザガンの救出を試みる。
「ザガンさんを放せぇ!!!!」
セオドアは渾身の一振りをザガンを掴むミノタウロスの腕へと振り下ろす。
キィン!!!!
「ぐっ!!」
セオドアの斧はミノタウロスの皮膚を貫通することができずに弾かれる。
『君の入れ知恵だね?』
ミノタウロスはギョロリとセオドアを見る。
「......っ!」
ミノタウロスの手が伸び、セオドアの身体を摘み上げる。
(しまった......っ!)
「くっそ!」
ミノタウロスは二人を掲げる。
『さぁ鬼ごっこは終わりです』
「放せ!!」
セオドアはミノタウロスの手に噛み付くも、ミノタウロスは全く怯む様子を見せない。
『教えてもらいましょうか?どうやって私がベルザ・ドルグだとわかったのか?』
ミノタウロスはセオドアの顔を覗き込む。
「誰がお前なんかに......!」
セオドアはミノタウロスを睨みつける。
『ほぅ』
ミノタウロスはそう息を漏らすと勢いよくセオドアを持つ手を壁に押し付ける。
ドゴォッ!!
セオドアの全身を衝撃が襲い、「ぐぁ!!」悲鳴をあげる。痛みでセオドアの顔が歪む。
『教えなさい。さもなければ、地獄を見る事になりますよ?』
ミノタウロスはセオドアの顔を再び覗き込む。
「お前は......絶対に倒して見せる......」
セオドアは痛みに顔を歪ませながらも真っ直ぐな目でミノタウロスへと悪態をつく。
『いいでしょう。望み通りに地獄を見せてあげましょう』
ミノタウロスの身体からドス黒い瘴気が放たれる。
『《深淵の咆哮――アビス・ロア》』
ミノタウロスの咆哮と共に、滝のような瘴気が噴き出す。
瞬く間に視界が墨を流したように黒く染まり、耳の奥で不快な低音が絶え間なく鳴り続ける。
冷気が皮膚を切り裂くように刺さり、吸い込んだ空気が胸の奥で凍る感覚が走った。
耳の奥で、誰かの怯えた息が増殖する。
ザガンの歯が鳴る。瞳がかすむ。喉に乾いた棘が刺さる。呼吸するたび、胸の内側が冷え、肺が痛む。
「……ぁ……ぐ……!」
セオドア達が苦しむ様子にミノタウロスはほくそ笑む。
セオドアはミノタウロスの攻撃に見覚えがあった10年後でセリカ達を襲ったミノタウロスの最大の精神攻撃。
だが。
セオドアはミノタウロスの手の中で拳を握る。
僕には十年の地獄で得たスキルがある。
脳裏には光に包まれ、優しく微笑むフィオナ、ドラン、ノエルの姿が思い起こされる。
指をわななかせ、苦痛を演じる。
《精神遮断――ブレイン・ブレイクシール》
可視できない温かさが、胸から脊柱へ、糸のように伝わっていく。
セオドアはミノタウロスの手の中で小瓶の蓋を開ける。
セオドア達が精神を侵され、断末魔を上げる様子をミノタウロスはほくそ笑んでいた。
その時ー、
ミノタウロスの手に焼ける様な痛みが走った。
『......っ!!!』
咄嗟の痛みにミノタウロスはセオドアを掴んでいた手を離す。
「ザガンさん!!!」
セオドアは地面に着地するとザガンを呼びかける。
断末魔を上げていたザガンの声はピタリと止み、笑みを見せた。
「引っかかったな」
『何だと......?』
先ほどまでアビス・ロアの瘴気に当てられて恐怖していた二人の豹変ぶりにミノタウロスは呆気に取られる。
ザガンもミノタウロスの手の中で小瓶の蓋を開ける。
ザガンを掴んでいた手にも焼ける様な痛みが走り、ミノタウロスはザガンを手放す。
『ぐぁっ!!』
ザガンは地面に着地すると双剣を構えセオドアとアイコンタクトを取った。
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