第1話 穏やかな日常
大きな桜の木の前で、私は一人でたたずんでいる。
桜の花が、風もないのに大きく揺れていた。
ざわざわ、ざわざわと。今にも動き出しそうだと感じさせるほどに。
「私に、話しかけてるの?」
訊ねながら幹に触れると、突風が巻き起こった。
地面に散りばめられていた花びらが、一片も残さず舞い上がる。
無数の花びらは、あっという間に私を取り囲み、辺り一面が桜色に染まった。
(……まるで、桜の檻みたい……)
急激な恐怖に襲われた私は、ギュッと目を閉じ、両手で耳をふさいでうずくまる。
――瞬間。
辺りは漆黒の闇にのみ込まれ……私は声にならない悲鳴を上げた。
「おいっ、桜!」
突然の大声に、ギョッとして飛び起きる。
学校の教室。窓際の最後尾席。
陽の光に暖められ、ウトウトしてしまっていたらしい。
声の主は、幼なじみの晃人だった。
斜め前の家に住んでいる、小学校から高校まで同じの幼なじみだ。
一部の女子から『カッコイイ』と言わることもあるらしいけど。
長い付き合いで見慣れちゃってるせいか、いまいちピンとこないんだよね。
「晃人か。ビックリさせないでよ」
眉をひそめて文句を言うと、晃人はムッとした顔で腕を組んだ。
「おまえがなかなか起きないからだろ!……どうしたんだよ、机になんか突っ伏して? 悩みごとでもあるのか?」
「……べつに。ウトウトしてただけだよ。でも……例のアレが、ちょっとね」
「『例のアレ』?」
「前に話したでしょ? 同じ夢を何度も見るって」
晃人は『まだ続いてるのか!?』と目を見開く。
まあ、驚くのも無理はないけど。
かれこれ、十年ほど見続けている夢なんだから。
「そっか、十年も……。おまえが〝神隠し〟に遭った頃から、ってことか」
「うん、まあ……」
神隠しと言っても、私が姿を消していたのはたった一日だけ。
でも、その間の記憶がポッカリ抜けていて……。
確信を持って『神隠しに遭った』と言えないのは、そのせいだった。
六歳の頃、私は晃人たちと神社の境内で遊んでいたらしい。
だけど、彼らがちょっと目を離した隙に消えてしまった。
翌日、私は同じ境内の桜の木の下で発見されたそうだ。
服装は前日と変わらず、特に汚れてもいなかった。
白いブラウスにサーモンピンクのスカート姿で、木に寄りかかるようにして眠っていたんだって。
目覚めた時、優しそうな女性の顔が、すぐ前にあったことを覚えている。
結局その人は、私の母親だったワケだけど……。
驚くべきことに、私はその時、自分の家族や友人のことを、すっかり忘れてしまっていたんだ。
両親はすごく心配して、いくつもの病院で診てもらったらしい。
だけど、診断はいつも〝ショックによる一時的な記憶喪失〟。気持ちが落ち着けば、記憶は戻るだろうと言われたそうだけど。
……残念ながら、今も昔の記憶は戻っていない。
幸い、私はまだ幼かったから、大きな混乱はなかった。
基本的な生活に必要な記憶までは消えていなかったし。家族や友人とも、徐々に関係を再構築できた。
大切な、神隠しに遭う前の思い出は、全て消えてしまったけど。
これからたくさん、新しい思い出を作っていけばいい。
そんな風に考えて、私は十六歳のこの時まで、前向きに生きてきたつもりだ。
「でも……本当に神隠しだったのかな? 神社の境内で遊んでた時だったんでしょ? あそこ、隠れられるとこ多いし」
私が疑問を口にすると、晃人は不満げに口をへの字にした。
「いや、あれは絶対神隠しだって! ほんの数秒、目を離した隙に消えてたんだぜ? 隠れるヒマすらなかったってーの!」
「……晃人、捜すのヘタくそじゃない。かくれんぼとか苦手でしょ?」
「ぐ……っ! そんなのとは全く違うだろ!?」
ムキになって反論する晃人の頬が、真っ赤に染まる。
それがなんだか可愛くて、思わずプッと吹き出してしまった。
放課後の教室。
窓の外はまだ明るく、やわらかな初夏の陽射しが差し込んでいる。
そういえば、あのときもこんな季節だったっけ。
私、神木桜が神隠しに遭ったのは、さっきも説明した通り六歳の頃。
――そう、ちょうど十年前だ。
桜って名前も、桜の花も好きだけど。
夢の中で見る桜吹雪だけは、どうしても好きになれない。
一面に舞い散る花びら。
あれを見るたびに、理由もなく不安になるんだ。
まるでどこかへ――こことは違う場所へ、連れていかれてしまう気がするから。
教室でうたた寝から目覚めてから、数十分後。
私と晃人は、私が幼い頃神隠しに遭った神社を訪れていた。
長い石段を上り、鳥居をくぐる。
参道の先に、あの大きな桜の木が立っていた。
――すると。
突然、木の葉がざわめき、誰かに呼ばれたような気がした。
「なんだろう……? 誰かが、私を呼んでる気がする」
つぶやいたとたん、
「やめろよッ!!」
晃人は突然大声を上げ、真剣な表情で私を見つめた。
真剣すぎて、怖いくらいだった。
「……やめろよ、そんなこと言うの」
「え……? 晃人?」
「なんだよ、『誰かが呼んでる』って!? 誰がおまえを呼ぶってんだよ!? おまえのいるとこはここだろ!?」
「それは……。そう、だけど」
「おまえがいなくなった時、俺たちがどんだけ心配したと思ってんだよ!? ジョーダンでも、二度とそんなこと言うな!」
晃人は、私がいなくなった当時の両親や自分が、どれだけ心配したかを語った。
そして唐突に、
「俺はガキん時、おまえのことが好きだった」
――なんと、予期せぬ告白までしてきた。
いきなりすぎる告白に戸惑い、ポカンとしていると。
晃人は顔を赤らめ、『あくまで昔の、ガキん時の話だけどな!』と念押ししてから、昔の私について語り始めた。
かつては大人しく、泣き虫だったこと。
いつも自分の後ろをついて回っていたこと。
そんな私が可愛くて、大好きだったこと。
なのに、神隠しに遭った日以降、すっかり性格が変わってしまったこと――。
一時期、私のあまりの変わりようについていけなくて、晃人は私を偽物――別人ではないかと疑ったことすらあったらしい。
もちろん、今はそんな風には思ってない。記憶喪失の弊害だろう。
晃人はそう言ってくれたけど……。
……なんだろう、胸がドキドキする。
晃人が側でまだ何か言ってるけど……全く頭に入ってこない。
――偽者?
私が……別人?
ふいにめまいがして、私は御神木に寄りかかった。
「桜っ?」
「……大丈夫。ちょっと、めまい……が?」
まただ。
また聞こえた。
耳にと言うより、頭に直接語りかけてくるような……。
誰かに、呼ばれてるような――。
「――っ!?」
「桜っ!?」
――何これ!?
体が木に吸い込まれてく――!?
「晃人っ、何これ!? 体が木に――!!」
「わっかんねーよ! わかんねーけどっ! 桜、絶対に俺の手離すなよっ!?」
左半身が、どんどん木にのみ込まれていく。
なのに、自分ではどうにもできない――!
「晃人っ! 晃人ぉおおッ!!」
晃人につかまれている右手を残し、私は完全に木の内部へ取り込まれてしまった。
「桜ぁあああーーーーーッ!!」
すごい力に引っ張られ、晃人がつかんでくれていた手が離れる。
瞬間、私は真っ暗闇の中を、下へ下へと落ちていった。
――嘘でしょ、こんなのってアリ!?
いったいどこまで落ちてくっていうの!?
「冗ッ談じゃないわよぉおおーーーーーッ!!」
――叫びも虚しく。
私はただひたすらに、真っ暗な空洞を落下していった。
お読みくださりありがとうございました!
改訂版は元の【桜咲く国の姫君】よりも、一章をかなり短く(四話分を一話に)まとめておりますが、二章からは、そこまで大胆に短くしてはおりません。
ただ、【赤と黒の輪舞曲(続編のギルフォードルート)】とまとめての改訂版のため、彼寄りに内容を変更している部分があります。(序盤以外は特に)
その点を御理解の上、お読みいただけますと幸いです。
そしてもし、お気に召していただけましたら、評価やブクマ、ご感想など、どうかよろしくお願いいたします。