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二センチ

 時刻は夕方となり、実験室に降り注いでいた陽光が控えめになっていく。

 実験室内、猫エリアの角側上部にはエアコンが取り付けられ、もう一方には簡素なシーリングファンが備え付けられてはいたが、そのいずれもが透明な天板から射し込んでくる日差しを直接避ける訳ではないため、室内はからりとした暑さに包まれていた。


 室内の気温は調節されてはいるが、どちらかと言えば喚起の方がメインなのだろう。

 木嶋は額の汗を一つ拭うと、マットレスから立ち上がる。

 右の足先と、爪を立てられた左の脛に痛みが走るが、歩けない程でもない。それでも溜まった鬱憤が晴れる訳でもなく、苛立ちの収まらない木嶋は昼食に食べた牛丼の容器を掴み、敷居まで歩くと猫エリアへと向かい放り投げた。

 芝生の上に落ちたプラスチックの容器は落下の衝撃によって蓋が外れ、中からは細かな肉や玉ねぎの破片が飛び散り、残り汁が芝生の上に撒き散らされる。

 これは、この戦闘実験が始まって初めて分かったことだが、実験中はゴミを回収しないらしい。

 隣接する猫エリアへと事あるごとに紙皿や容器を投げ捨てていた木嶋は、ほくそ笑む。敵対者のテリトリーを侵犯してやった気がしていたのかもしれなかった。

 猫の姿は相変わらず見えなかった。


「クソ猫が、てめえのエリアは俺のゴミ捨て場にしてやるからな」


 木嶋は唇を歪めて言うと、敷居を跨いで猫エリアへと入っていく。

 普段、猫がどこに隠れているのか知っておきたかったし、日が落ちて夜になると、照明のない実験室は暗闇になってしまうためだった。

 夜になってしまえば明かりといえば朧気に光る月明かりやタブレットの灯りくらいのものだ。そんな頼りない明かりしかない中、隠れている猫を探し当てるのは難しい。

 そう考えつつ、踏み込んだ先で猫のエリア内を見回し、確認するように観察を始める。


 床が板張りで出来た人エリアとは違い、猫エリアの床は芝生で作られ、また、エリア内には緑葉樹が点在していた。二つの角の内、一つの壁側にはエアコンの操作盤らしき物が遠目に見え、もう一方の角の床部分にはペット用自動給水機が設置されているようだった。

 給水機の上部は、皿のような形になっており、絶えず小さな水たまりを作っている。さらに、中央やや奥には並び立つように生えた小型の松の木が二本。

 高さは二メートルあるかないかといった程度で、日本庭園などによく見られる小ぶりの整えられたものだ。外周部には緑葉樹であるヒノキが数本。こちらも高さは松の木と同程度となっている。

 飾り付けのされていないクリスマスツリーにも似たヒノキの木は、枝の一つ一つが細く、葉も茂っており、見た所、これに登るというのは不可能に思えるし、葉の密度が高いので猫とはいえ、無理に潜り込んで隠れることもできないように見える。

 木嶋の足は自然と真っ直ぐに松の木へと向かった。


 そうして木嶋が松の木へと近付いた直後、灰色の影が幾本にも伸びる枝から飛び出した。

 ――猫だ。こっちのエリアからは見えない位置を選び、隠れていたのだ。

 一瞬のことに目をみはるが、音も立てずに芝生へと着地した灰褐色の猫は、芝生に足がつくと同時に駆け出し、外周にあるヒノキの影に隠れると、顔だけを出して侵入者であるヒトの動向を探るようにしている。


 木嶋は舌打ちするも素早く逃げ去る姿から、やはり猫は自分を恐れているのだろうと思い直し、奥へと歩いていくと、エアコンの操作盤が壁際の角に設置してあるのを確認した。

 試しに気温を調節してみようと試みるが、操作盤は強固なガラスケースに包まれていて触ることもできない。強度が高く、叩いてもびくともしないのだ。エアコンは稼働こそしていたが、こちらで操作させる気など全くないらしい。

 木嶋の鬱憤は更に溜まった。



 ※※※



「おい、もう少し気温下げろよ。日差しが入って暑いんだよ!」


 怒りも露わに自分のエリアへと戻ってきた木嶋はスイッチを押し、怒鳴るように言った。


『残念だが、その要求には応えられない。君の要望通りに気温の調整をするのはフェアとは言えないからだよ。喋ることが叶わない猫の要望は聞くことができないのに、人の要望のみ、私が聞くのはアンフェアになってしまうだろう。違うかね』


 猫屋敷からは冷淡な答えが返ってくる。

 木嶋が歯噛みすると、声は更に続いた。


『文句がないようなら話を続けるが……。そういった公平性の観点から、実験室の気温はこちらで決めさせてもらうことになっているのだ。君には残念だがね。とは言っても、気温が三十度に達するようならば、都度、冷房を入れるので、そう不安になってもらわなくても大丈夫だ。そこまで暑くなれば、こちらとしても熱中症のリスクを無視できないからね』


「ふざけるんじゃねえ!」


 返す言葉の見つからない木嶋は怒鳴り立てた。

 何より、黙っていれば一方的に喋られ、言いくるめられてしまうと思っていた。


「フェアだの、アンフェアだの、訳のわからないことばかり言いやがって。大体、あの敷居はなんだよ。あんな物を置きやがって、こっちは転んで大怪我したぞ。どう責任を取ってくれるんだ、ええ?」


『最初に言ったはずだ、治療費はこちらで持つと。君も、それに同意したはずだよ。その上で、この実験に参加したのではないかね』


「あんな危ないものがあるなんて、こっちは聞いてねえよ。それに、気温のことだって、これっぽっちも聞いちゃいなかったぞ!」


『……危ないもの?』


 猫屋敷の声が微かに上擦った。

 まるで笑みが零れるのを堪えているような声であった。


『冗談だろう、木嶋くん。君は、あのたった二センチあるかないかの敷居が危ないものだと言うつもりかね。第一、私はこの戦闘実験が始まる前に、応接間から実験場を見せたじゃないか。君はそれを確認した上で、実験に参加したのだろう』


 苛立つ木嶋は口を閉じそうになるも、さらに反論した。


「だったら、気温のことはどうなんだよ。何も聞いてねえぞ。お前は、重要な情報を隠していたよな。部屋の気温について触れなかった。それについては、どう言い訳するつもりだよ!」


『別に隠してなどいない』


「言い訳してるんじゃねえ! だったら、なんで言わなかった!」


 煮え切らない態度に木嶋が声を荒げる。

 すると、ややあってから猫屋敷は言った。


『聞かれなかったからだ』


 放たれた一言に木嶋は呆気に取られ、言葉を失う。

 口を半開きにしたままでいる彼のその姿を合図に通話は打ち切られた。

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