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瑠奈

 実験室にヒトが一人とネコが一匹、閉じ込められたその日は何事もなく過ぎ去り、戦闘実験開始より早くも二日目となっていた。

 初日、朝早くに起こされ、寝不足だった木嶋は実験開始早々にマットレスに横たわり、昼まで眠っていたため、必然的にその日の夜も遅くに眠っていた。そのせいで、目を覚ました彼が時刻を確認すると、既に午前十一時を回っていた。


 しかし、拍子抜けだと思った。

 いざ、実験が始まってみると何が起こる訳でもなく、猫が襲いかかってくる訳でもない。

 木嶋からしても日常とはかけ離れたこの状況の中、多少の慎重さはあったのかもしれないが、初日となる一日目は眠り、食事し、暇潰しにタブレットを弄っていただけで、何一つとしてトラブルなどはなかった。

 戦闘実験などと、穏やかではない物言いをしている割に、実際、参加してみれば単に暇を持て余しているだけで、そこには何の緊張感もない。かといって、日給を稼ぐためにはこちらから積極的に猫を襲撃し、早々と決着を付ける訳にもいかず、本当にやることがなかった。


 木嶋はとりあえず猫の様子でも見てやろうと思い立ち、隣接するエリアを敷居越しに覗いてみるが、その姿はどこにも見えない。猫に用意されたエリアには、幾本かの植物が点在しているのみで、床となる芝生の上には、昨日蹴り飛ばしてやった紙皿が転がっているだけだ。


 二つのエリアを跨ぐ敷居の上には紙皿が二つ放置されている。

 おそらく今日の朝に配給された分の食事だろう。

 紙皿の一つには木嶋の分らしき、おにぎりのセットが手も付けられずそのまま置いてあるが、もう一つの紙皿は空っぽになっていた。


 それにしても退屈だ――。これで金が出るなら楽な仕事だが、あまりにやる事がない――。

 木嶋はそう思い、パイプ椅子へと腰かけるとタブレットを指で操作し、動画サイトへとアクセスする。

 何しろここには本もテレビもなく、暇潰しに出来ることといえば、タブレットからあらかじめ用意された動画サイトを視聴するくらいしかない。しかも、音量も妙に小さく固定されていてボリュームを変えることさえもロックされていてできなかった。

 さして興味もない動画を半ば、仕方なく観ていると実験室に機械音声が響く。


《食事の時間です》


 透明な壁越しに外を覗くとクレーン車を操作する女が見えた。

 案内人だ。美人な部類ではあるが、今日も表情は変わることなくむっすりとしている。

 木嶋は出し抜けに赤いスイッチを押すと声を上げた。


「おい、聞こえるか? 随分と可愛らしいお姉さんだな、あれ。召使いにしちゃあ愛想がないが、金持ちはあんなメイドを雇って毎晩お楽しみなのか?」


 さらに「実験に専属メイドにいいご身分だな」と、煽るように続けた。


『君には全く関係のないことだ』


 返答は間を置かずに返ってくる。

 木嶋は実験室内から案内人を指差して言った。


「ちゃんと監視しているようで何よりだよ、実験主さん。それで、あの女の名前はなんて言うんだ?」


『彼女は名乗らなかったかね』


「知らないから聞いてるんだよ」


 吐き捨てるように言うと、ややあってから答えが返ってきた。


『もしかして彼女のことが気に入ったのかい。こちらはフェアな環境作りのためにも、情報は必要最小限のものしか与えるつもりはないのだが……。しかしまあ、いいだろう。彼女の名前など、勝負には何の影響も及ぼさないのだから』


 そう前置いてから猫屋敷は言った。


『彼女の名前は瑠奈るなという。これで満足かい?』


 木嶋は意地汚い笑みを浮かべた。


「俺にもやらせろよ――。どうせお前の愛人か何かだろ?」


『……やらせろとは、何を?』


 すっとぼけやがって。木嶋は思ったが、声は続く。


『言葉の意味がわからないが、何をするにしてもそれは彼女の意志次第だよ。瑠奈くんの方が君に同意するようであれば、それが何にしたって、私から行動を制限するつもりはないし、好きにすればいい』


 そう聞いてから木嶋は案内人の瑠奈をガラス壁越しに見つめる。

 流れるような黒髪のショートカットに端正な顔立ち。

 表情こそ、むっすりと不機嫌そうにしているが、色白で、ひらひらとした服を着たその身体は華奢で、いかにも女らしいシルエットを映し出している。


 猫を絞め殺してやった後に五万くらい払ってやれば、股を開くだろうか。

 そんな下卑た考えを巡らせていると、ばりばりといった咀嚼音が聞こえてきた。

 敷居の上に目を向けると、既に昼食がトレーに乗って置かれている。

 猫は昨日と同様、勢い良くキャットフードに食らいついている最中だった。


「全く、うるせえ猫だな。餌が降りてくるなり飛びつきやがって――」


 木嶋は眉を顰めると、ずかずかと敷居へ向かって歩き出す。


「最後の晩餐ばんさんにしてやろうか、おい!」


 そして怒鳴り、右足を上げて振りかぶった。

 しかし、攻撃を察した猫は、今度は逃げることもなく前足で紙皿を抑えた。

 木嶋は構わず足を振り抜くが、直後、だんっと、鈍い音が鳴り渡ると、小さな影が、風が吹き抜けるようにして駆けだした。

 それと同時に木嶋は足先に激しい痛みを感じ、叫びながら床の上を転げ回る。


「痛えっ……。この野郎っ――!」


 爪先を走る鋭い痛みに顔を顰める木嶋は悲鳴を上げると、しばらくの間、床へと寝込んでしまうが、やがてしゃがみ込んだ態勢になると、自分の足の指をゆっくりと擦るにようにして目をやった。

 見れば、足趾そくし――。親指と、人差し指の爪が割れて真っ赤になっている。

 紙皿を蹴り飛ばそうとして、敷居の段差に躓いたのだ。

 段差は、僅かばかりの高さではあったが、猫が前足を伸ばす態勢を取っていたおかげで見誤ったらしい。傷としては大したものではないが、薄っすらと血の赤で滲む爪の周囲は少し押しただけで激痛が走る。


 痛みに呻く木嶋は苦悶の声を上げながらようやく立ち上がる。

 それから、怒り心頭のままに部屋を見回すと、何事もなかったかのようにマットレスへと座り込む猫の姿が見えた。猫は、こちらのことなど、まるで気に留めないといった様子で、ばりばりと音を立ててはマットレスを引っかき、爪を研いでいる。

 その余裕ぶった態度と、足先に感じる鋭い痛みに、木嶋の怒りは膨れ上がった。


「このクソがっ! 殺すぞ!」


 怒りのままにマットレスにいる猫を踏みつけようと動く。

 が、今度も木嶋の攻撃はすんでの所で躱され、同時に左足の脛に痛みが走った。

 マットレスに足をついた瞬間、脛を引っ掻かれたのだ――。耐えられないほど強い痛みを感じるような攻撃でこそなかったが、痛みというよりも熱さを感じるような、まるで鋭利な刃物で切られたような感覚に顔を顰めた瞬間、もう猫はそこにはいない。突風でも起こすかのように室内を走り抜け、自分のエリアへと戻っていく。

 挑発されたようにも感じた木嶋は反射的にデスクの上に置かれたタブレットを掴むと、怒りのままに投げ付けようとしたが、強固に固定されたそれは微動だにしない。


 畜生――。こういう訳か。

 何でもかんでも固定していやがるのは、ここにある物を武器にさせないためか。

 あの猫野郎、絶対に許せねえ。


 木嶋は考え、乱れた息を整えると、ふいに外からの視線を感じた。

 目を向けると、そこには昼食の配膳を終えた瑠奈が歩き去っていく姿があった。

 背を向け、よどみなく歩く彼女の口の端は、まるで面白がっているかのように上がっていたが、木嶋がその表情の変化に気付くことはなかった。

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