実験開始
実験の詳細とサインを済ませた翌日の朝のこと、応接間からはけたたましいアラームの音が鳴り響いた。
昨日の猫屋敷との話し合いが終わった後、今日からの実験に備え、応接間に泊まることとなった木嶋はアラーム音で目を覚ますとベッドから起き上がり、携帯電話を握る。
時刻は午前五時五十分。大欠伸をして立ち上がると、どことも知れず仕掛けられているスピーカーから既に聞き慣れた声が響いた。
『おはよう、木嶋くん。よく眠れたかね。もう実験開始十分前になるが、まだお目覚めにならないようなのでね。僭越ながら、こちらで起こさせてもらったよ』
カーテンが自動で開き始め、朝の控えめな光が室内へと入ってくる。
このカーテンも遠隔操作で動かせるのだろうか。最近は音声で操作できる家具類などをよく見るが、隠しスピーカーといい、どこまでも金に糸目を付けない奴だと、そう思いながら木嶋は窓辺に立って中庭を眺めた。
見える景色は昨日の夜に確認したものと変わらない。殺風景な中庭の中央に建つ長方形の透明な建造物と、それを囲むような形でレンガの塀が三方に立ち並んでいる。相手となる猫の姿はまだどこにも見えなかった。
『では、そろそろ準備と行こうか。まずは服を脱いで部屋にあるクローゼットにでも入れておいて貰えるかね。昨日、確認してもらった通り、戦いは双方裸体で行うのでね』
「パンツも駄目かい?」
寝惚け眼を擦って言うが、すぐに『駄目だ』と一言、語気も強く返される。
「姿は見せないわ、人を裸にさせるわ、こいつはとんだ変態野郎様だぜ」
『嫌ならば、今からでもやめていい。交通費程度ならこちらで出そう』
「別に嫌だとは言ってないだろ」
木嶋は言い捨てると、乱暴に服を脱ぎ始めた。
風呂でもないのに見知らぬ家で全裸というのは少しばかり抵抗があるが、それも大した問題じゃあない。何より、百万円がかかっている。つまらないことでごねて、話をなかったことにされても面白くない。
『服を脱ぎ終わったら中庭へ降りて、君から見て左手側へ回ってみてくれ。実験場の入口となる扉があるはずだ。そこまで着いたら、次の指示があるまで待機してほしい。くれぐれも遅刻などしないように頼むよ。もしもそんなことがあれば、フェアではなくなるし、実験の日取りを変える必要性も出てくるかもしれないのだから』
急かすような声に木嶋は舌打ちして服を脱ぐ手を早める。
手早く裸になった木嶋は中庭に降りようと窓に手をかけた所で、大切なものを思い出し、ベッドに駆け寄った。そこには昨日、寝る時に握り締めていた万札の束が、所在なさげに転がっていた。慌てて百万円を手に取ると、勢いもそのままに中庭に降り立った木嶋は、猫屋敷から聞いた通りに温室めいた建物の左手側側面に回った。
『見えるかね、そこに扉があるだろう』
続けて聞こえてくる声に、目を凝らして見た。
全面透明な建物と同じく、透明なノブが視界に入る。
そのノブは一目見た限りではプラスチックのようにも見えるが、触ってみると思いの外、固く、強度が高い。さらに、ノブの下には簡素なスライド式のバーが取り付けられており、周囲には四角く象った線が走っているのも確認できる。どうやらここが出入口となる扉らしい。
木嶋が到着を告げると、猫屋敷も言葉を返してくる。
『今、午前六時、二分前だ。遅刻はせずに済んだようで何よりだよ。では、次の指示を出そう、木嶋くん。六時丁度に、私から合図を出すからね。君は私からの合図を聞いたと同時に、ノブを回して内部へと入ってくれればいい。君が中へと足を踏み入れた時点を持って、この度の戦闘実験を開始としよう。あと一分……。準備はいいかい?』
「いつでもいいさ。あんな猫ごとき相手にするのに準備なんていらねえしな」
この戦闘実験とやらに思う所のある木嶋は口の端を上げた。
何しろ結果は見えている――。人と猫が密室の中で戦って、人が負けるはずもない。
体重もパワーも、比較にならない差があるのだ。
しかし、それでも、こんな馬鹿げた実験を行うということは、何か別の目的があるのに決まっている。
おそらく、声の主である猫屋敷という奴は、生粋の変態か、よほどの猫嫌いか、そうでなければ、人の方が素手で猫を殺せる気概を持っているのか確かめたいのだろう。
だったら、俺を選んだのは正解だ。
以前に参加させたのであろう野田みたいなオタク野郎は、自分の手で動物を殺す勇気を持てなかったのかもしれないが、俺はそんな甘ったれじゃない。必ず猫を殺して、百万持って帰ってやる。
『午前六時だ。中に入りたまえ、木嶋くん』
合図が出された。
木嶋はノブを静かに引くと、内部へと入り込んだ。
※※※
部屋の中へと足を踏み入れた木嶋が後ろ手で扉を閉めた瞬間、がちり、という重い音が鳴った。
反射的に後ろを振り返ってみると、透明な扉の向こうにあるスライド式のバーが横へ動いているのが見て取れる。鍵としては簡素なものだが、金属で出来たバーは重々しく、力づくで開けられるようなものではないことはすぐにわかった。
とりあえずは猫の姿を確認しようと木嶋は前へ向き直り、自分が入ってきた扉とは反対側の壁の方へ視線を移すと、そこには小さく切り取られたような丸い穴が開いていた。
不審に思って眺めていると、やがて中庭から走ってきた猫が穴を抜けて入ってきた。同時に、開いている穴の上部からアクリル板のような透明な板が降り、鈍い音と同時に閉じられる。
猫の方はというと、勢いもそのままに駆けてくるので木嶋はつい身構えたが、その動きは実験室中央付近、人のエリアと猫のエリアの境目で止まった。
何をしているんだ、こいつは?
実験室内部中央、エリアを分ける境界線となる場所には線でも引くかのように、真っ直ぐに敷居が設えてあった。木製で微かな光沢を放つそれは、和室でよく見かけるものと同様で特に珍しいものでもないが、エリアを分ける役割を持たせるためか、二センチ程度の高さがあり、多少の幅もある。
猫は、その付近に座り込み、じっと何かを待つようにしていた。
《食事の時間です》
不思議に思っていると、突如、どこからか機械音声のようなものが聞こえてくる。
続けて実験部屋の上方から何かが動くような音が鳴り、上を見上げてみると、シャッターでも開閉するかのように透明な天板がスライドし、そこからロープが降りてきた。
見ればロープの先にはプラスチックのトレーが括り付けられ、料理と、キャットフードらしきものが盛り付けられた紙皿が二つ乗っている。
『早速だが、伝達だ。ルール通り、食事は一日に三度、このように提供する』
今度は猫屋敷の声が聞こえてくる。
木嶋は周囲を見回すが、スピーカーはよほど巧みに隠されているのか、こんな透明な密室の中でも、どこから声が聞こえてくるのかわからない。
だが、姿かたちの見えない主の代わりに、木嶋は透明な壁越しに小型のクレーン車と、それに乗ってクレーンロープを操作している人影を見つけた。人影は昨日、屋敷の応接間へと案内された時に会った女だった。
案内人の女は木嶋の視線を受けても全く気にする素振りもなく、むっすりとした表情をしていて、こちらには目もくれない。そんな女に代わるようにして猫屋敷の声は続いた。
『彼女のことが気になるかい、木嶋くん。あれは私の召使いのようなもので、単に実験の手伝いをするだけだ。不機嫌そうな顔をしているように見えるかもしれないが、それはきっと君が裸なので恥ずかしがっているだけだろう。いずれにしても、彼女がこの戦闘実験に無駄な干渉をするようなことはないので安心してくれていい』
まあ、本気でこんな実験をしようというならば、手伝いの人間くらいいるだろうし、自分が裸でいることを考えれば、若い女としてそう不自然な態度でもない。
木嶋はそう考え、気を取り直す。
『もう二つだけ、伝達だ。君が居住する人側エリアの角に、デスクがあるだろう。その引き出しの中に、ルールを記した書類が入っている。これは、君がいつでもルールを確認できるようにするためだ。忘れてもらっては困るし、フェアにならないからね。それから、もう一つの伝達事項なのだが、こちらはより大切だ』
一つ、息を吐いてから猫屋敷は続けた。
『デスクとは反対側の角を見てほしい。壁際に赤いスイッチが設置してあるだろう。これは、私との連絡を取る時に使うものだ。押してから声を上げてもらえば、館内で観察している私の耳へと届くようになっている。連絡をする内容については、実験についての質問がある時、ギブアップしたい時などに使ってくれればいい。もっとも、私にも自分の生活がある訳だから、いつでも即時の応答ができるとは限らないがね――。以上で、実験の説明は終わりだ。以降、君から連絡をしてこない限り、私から口を挟むようなことはない。理解してもらえたならば、一度、赤いスイッチを押してから、「理解した」と伝えてみてもらえるかな』
こだわりもここまで強いと見上げたものだが、何か文句を言って機嫌を損ねても面倒だと思った木嶋は壁際にある赤いスイッチを押すと、「わかった」と一言、呟いた。
すると、周囲は静かになり、振り返ってみた時には実験室中央から垂れ下がっていたロープは既に引き上げられている。
クレーンの操作が終わったのであろう、透明な壁越しから見える案内人の女は不機嫌な表情もそのままに歩き去っていった。
かくして密室の中には、木嶋と猫。
ヒトが一人と、リビアヤマネコ一匹だけが取り残された。