仮に、猫と人間が檻の中で戦ったならば
姿なき主から放たれた一声に、木嶋は腰を浮かせて室内を見回す。
ここには野田真一という男の弟、野田真二として来たはずだったが、それは嘘だとばれていたのだ。
山手駅に着いた際には運転手の桐島には野田真二様と呼ばれていたのに、あの運転手も本当は全て知っていたのだろう。とんだ狸野郎だと思った。
「知っていたのかよ。わかっていて、ここに呼んだのか?」
木嶋が室内を見回しながら声を上げると、返事はすぐに返ってきた。
『まあ座りたまえ、木嶋正樹くん。さっきも言った通り、君の素性、そしてここに来た経緯ならば既に把握しているが、だからといって、私は君のことを特にどうしようと思っている訳ではない。野田真一殿のことを襲い、金品を奪ったことについても、特に私から言及するつもりもないよ。警察でもない私に、君のやったことで取り調べをする権限もないからね。そこは安心してくれたまえ』
先程、猫屋敷が言ったように姿は見えずとも会話自体は可能らしい。
木嶋は部屋の出入口へと向かって歩きながら声を上げた。
「だったら、どうするつもりだよ。姿も見せずに何のつもりだ。お前は一体、何のつもりで俺を呼んだんだよ」
言いながらドアのノブへと手をかけ乱暴に回すが、外側から鍵でもかけられたのかドアはびくともしない。
「何のつもりだ、お前。こんな所に閉じ込めやがって、こいつは犯罪行為だぞ!」
声を荒げて、がちゃがちゃと音を立てるだけの扉を蹴飛ばすが、やはりびくともしない。
『仮に……』
再び室内に声が響く。木嶋は手を止め、耳を傾けた。
『仮に、猫と人間が檻の中で戦ったならば、人は日本刀を持ってようやく対等といえる』
続く声に木嶋は目を丸くした。
『実戦空手の父、大山倍達の言葉だ』
一体、何の話をしているのか。
返す言葉もなくなった木嶋が口を噤むと部屋に沈黙が立ち込める。
声は更に続いた。
『単刀直入に言おうか。私は人と猫、どちらが強いのか確かめてみたくてね。いつでも対戦相手となってくれる人材を秘密裏に探している。そして、ここ、私のこの屋敷こそが、人と猫の戦闘実験の舞台という訳だ。ここまで言えば、私の目的は理解できただろう。私はね、君のことを雇いたいんだよ、木嶋正樹くん。君の素性を知りながら、あえてここに招待したのはそのためだ』
猫屋敷が語る荒唐無稽な話に木嶋は呆気に取られたような顔をした。
自分も真面目とは程遠い人間であることは自覚しているが、幾らなんでもここまで馬鹿馬鹿しいことを言い出す奴は見たことがなかった。
「お前、頭が狂ってるんじゃねえのか。第一、こんな場所に人様を閉じ込めて、これは立派な犯罪行為だぜ」
『だったら気が合うじゃないか。君だって犯罪者なのだから』
間を空けずに返ってきた答えに木嶋の頬が少し緩む。
それから猫屋敷は話を改めるようにして言った。
『話を元に戻すが、机の上に置いておいた書類は気に入って頂けたかね。もう読んでくれたことと思うが、報酬は弾むよ』
報酬という言葉を耳にした木嶋はドアにかけた手を止めた。
そして改めてソファーに座り直すと、もう少し猫屋敷の話に付き合ってみることにした。
※※※
その後、幾つかの問答を経てから木嶋は窓際へと移動していた。
窓際へと立ったのを合図にしたように分厚いカーテンが自動的に開かれていくと、外を眺める。
問答の中で、猫とは言ってもトラやライオンを出してくるとのではないかと、そう問い詰めた際に対戦相手となる猫と、戦場となる部屋がある中庭を見せると言われたからだった。
時刻は午後六時を回り、辺りは暗くなり始めていたが、中庭周辺に設置されたライトが白く点灯したおかげで、外の様子は窓越しにもよくわかった。
中庭は、立派な屋敷の外観には似つかわしくない殺風景なもので、広い敷地には木や池がある訳でなく、真っ平で石ころ一つ落ちていない土となっている。まるでいつでも建築物を建てられるように用意された更地のようにも見えるが、それよりも先に目を引くものがあった。
それは、中央に建つ長方形の箱のような建物であった。
その建物は横に長く、高さもある上、全面が透明になっており、外側からも内部の様子がわかる構造になっているようだった。一見した限りだと、温室や菜園などに使うビニールハウスのようにも見えるのだが、内部には人の生活空間とするための家具類が収められているのが見えるため、何とも奇妙なものに感じられた。
それに、よく見て見れば、人の生活空間らしく設えてあるのは向かって左側の半分だけで、もう半分の右側はというと、床のない地面に芝生が生え、周囲には木など生えている有様だった。
ルールには公平性を期すため、人の居住空間と猫の居住空間ありとあったが、こんな風に作ってあるのか。金を持て余した奴には変人が多いと言うが、よくもこんなふざけたことを考えたものだ。
しかし、肝心の猫はどうした……?
木嶋は猫の姿がないことに不信感を抱いたが、ふと中庭を囲む塀の上に居座る小さな動物を視界に端に捉える。そこには、一匹の猫が応接間の方を窺うようにして座っていた。猫の姿は灰褐色で体長は遠目からの確認にはなったが、普通か、若干大きいものに感じられた。
猫は小さな身体を丸めるように、じっと応接間を見つめているが、大きく煌めくような二つの眼は品定めでもしているかのように見える。
『見えるかね。あれが君の対戦相手となる猫だよ』
猫屋敷は相変わらず姿も見せずに声だけを響かせる。
『品種はリビアヤマネコという種であり、体長は約六十センチ程度となる。この種としては平均的な個体で、我々が普段からよく見るような猫と殆ど変わらないサイズだよ。それで、どうかね。あの猫と戦ってみる気にはなったかね』
木嶋は塀の上で佇んでいる猫に向かって目を凝らした。
高い場所に座ってこちらを見つめているその姿は、普段から見かけるような猫と変わらない。暗くなりかけた庭で目を光らせている姿こそ少々不気味ではあるが、あの小さく、頼りない身体は握り締めただけで折れてしまいそうで、いかにも弱弱しいものだ。
「あの猫を捕まえて殺してやれば、本当に百万円払って貰えるんだな?」
木嶋が確認するように声を上げると、返事はすぐに返ってくる。
『疑わしいと思うならば、応接間の角にあるラックの引き出しを開けてみたまえ。そこに、百万円が入っている』
言葉通りに部屋の隅に目を向けると小さなラックがある。
確認すると、引き出しの中には剥き出しのまま収納されていた万札の束があった。
『信用できないならば、先払いでいい。実験は裸体で行い、道具類の持ち込みも一切禁止としているが、特別にその百万円だけは持ち込むことを許可しよう。万が一、君が猫に勝てなかった場合、あるいは敗北を認めた場合には、そのお金は返して頂くがね』
木嶋は吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
「馬鹿言うな、相手は単なる猫なんだろう。俺と、あの猫の体重差を考えろ。普通にやれば、人間が猫に負けるなんて有り得ねえ。猫がちょこまかと逃げ回っている所を一度でも蹴り飛ばしてやれば、それで決着だ」
札束を乱暴に抜き出してから更に続ける。
「お前の言う戦闘実験っていうの、やってやるよ。お望み通り、あの猫をぶっ殺してやる。ただし、すぐには殺さねえぞ。できるだけ長引かせて、日給の方も取れるだけ取ってやるからな」
『もちろんだよ。やり方については自由にしてくれて構わない』
猫屋敷は付け加えるように『実験は明日からだ』と言うと、書類へのサインを促した。
他に言うこともなかった木嶋はソファーに座って用意されていたペンを握る。その一方で、塀の上で座ったままでいる猫――。リビアヤマネコは物を言うこともなく、眼だけを妖しく光らせていた。
その眼の光は、何か奇妙なものでも見つめるか、狩るべき獲物の動向を探っているようでもあった。