野生
事務的な言葉が実験室内に響くと共に天井のシャッターが開く。
中央部からはロープが降り、敷居前へと食事が置かれる。
ビニールに入ったカレーパンと、紙皿に盛られたキャットフード。
ヒトの食事と、ネコの食事。
この数日、繰り返し眺めてきた光景。
それは、こんな時に至っても変わることはない。
木嶋は眉間に固い皺を作り、敷居前を睨んだままでいた。
実験室奥からは、食事の時間を待ちかねたといった風に隠れていた猫が現れ、キャットフードへと走り出すと、いつものように餌に喰らいつき始めた。その姿は全くの無警戒で、今しがたまで行われていた攻防のことなど、もう覚えていないようにも見えた。
そのことが、木嶋の神経をさらに逆撫でた。
直後、実験室内に怒号が上がる。
堪忍袋の緒が切れ、半狂乱状態に陥った木嶋は自分でも何を口走っているのかわからなかったが、目の前にいる猫を今度こそ殺してやると――。復讐心に顔を歪ませながら敷居へと駆け出し、右の足裏でキャットフードを貪る猫を踏み潰そうと足を出した。
だが、そんな怒り任せの攻撃など当たるはずもなく、餌を貪っていた猫は木嶋の足が上がるのと同時に顔を上げたかと思うと、疾風の如く、人エリアへと走り出し、難を逃れる。後に残るのは、激しく床を打つ衝撃音だけだった。
さらに、踏みつけの弾みで木嶋の爪先には若干の痛みが走った。
しかし、この期に及んで少しの痛みなど気にもしていられないのか、怒りで痛覚が鈍磨しているのか、木嶋はさして痛がる素振りもない。憎々しげにその場に屈み込むとキャットフードが載った紙皿を手に取り、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「意地汚い糞猫が――。てめえの食い物なんかこうしてやる!」
木嶋は怒鳴り声を上げると紙皿を振り回し、中身をぶち撒けた。
細かなキャットフードの粒が猫エリアの四方八方へと飛び散ると、少しばかり溜飲が下がったのか彼は唇の端を曲げた。次に、自分に用意されたカレーパンを拾い上げてビニールを破ると、手の平で握り潰して猫エリアに向かい全力で叩き付けた。芝生に落ちたカレーパンは潰れ、残骸が飛び散り、カレーの刺激的な匂いが立ち込める。
木嶋の手の平はパンから溢れたカレーと揚げパンの油でぎとぎとになっていたが、そんなことに構ってはいられなかったし、この強い香りが実験室内に広がれば嗅覚に優れる猫にとってストレスとなるかもしれないと、そう思うだけで気分が良かった。
ほくそ笑み、手の平を軽く振って汚れを払う。
その時だった――。
――グルウゥゥ……。
背後、人エリアから唸り声が響き、木嶋の耳に届いた。
その声は低く、いかにも恐ろしげなものだった。
怒気を孕んだ獣特有の唸り声。
憎々しげな唸り声。
それは妙に耳に障り、尚且つ、聞く者を委縮させるようなものさえ感じられる。
木嶋はゆっくりと首を回し、後ろを振り向く。
視線の先には猫。黄色のパイプ椅子の上に乗っている。
頭を下げ、前足を突き、腰を高くした姿勢を取って、唸り声を上げながら――。
獲物を狩らんとするかのような形相で、威嚇の声を上げている。
――グルウゥゥ……。
表情といい、発せられる唸り声といい、殆ど犬のようでさえあった。
その異様に木嶋は思わず息を呑むが、すぐに猫を睨み返した。
ここで怯む訳にはいかない。むしろ、戦うつもりがあるなら好都合だ。
猫の引っ掻きを受けながらでも強引に捕まえてやればいい。
素早いだけの猫など、一度でも捕まえれば、それで決着は付く。
こいつを殺して金を受け取ったらこんな牢獄みたいな部屋からは、おさらばだ。
木嶋は一つ息を吐くと、腰を落とし、パイプ椅子へと近付いていった。
その動きに反応したのか、猫は唸り声をさらに大きくするが、椅子から動くことはない。大きな眼を見開き、瞬きもせずに近付いてくる敵対者から視線を逸らさずにいる。
やがて、猫の座る椅子付近へと辿り着いた木嶋は、両手を広げた態勢で、至近距離まで近付き――。右の手を叩き付けると同時に、左手で挟み込もうと手を動かした。
だが、右手を振ったその直後のこと、木嶋の視界は突如として灰色に染まる。
続けざまに顔面に灼けるような痛みを感じた彼は、叫び声を上げると両掌で自分の顔を覆いこむ。
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、痛みに呻きながらも木嶋は、飛び跳ねた猫が顔を引っ掻いたのだと気付くが、もう遅かった。椅子から跳び、顔面を引っ掻き、その勢いのまま木嶋の肩口まで移動した猫は獲物の顔面に爪を立てながら首筋に喰らいつくと、人体の中でも特に柔らかな部位である首元からは即座に鮮血が噴き出した。
木嶋は痛みに喘ぎながらも、肩口から首筋を両手で覆うが、既に猫は肩口にはいない。
首筋に噛み付いた後は、深追いすることもなく床へと飛び降りると、音もなく走り去っている。
後に残っているのは血溜まりと、激痛に顔を歪めるヒトが一人だけだった。
取り残されたような形になった木嶋は痛みに顔を歪ませながらも、半ば、放心したように首筋を抑えた。
首元の肉を食いちぎられ、手の平の隙間からは血が垂れてきている。
とめどなく溢れる血は、ぼたぼたと垂れては床を汚し、独特の鉄の匂いが鼻を突き上げる。
この時になって、初めて木嶋の心に恐怖心が湧き起こった。
予期せず負った深手と痛み、そして恐怖心は、流れ出していく血の代わりでもするかのように体を巡っては全身へと広がり、寒気にも似た感覚を引き起こす。
同時に、札束を狙われた時に木嶋の頭を過ぎった疑念が確固たるものとなっていく。
金の価値なんてわからないくせに、札束を狙って引き裂く。
人体の急所でもある首元、頸動脈を狙う。
間違いない。こいつは人殺しのための躾を受けていやがる殺人猫だ。
この勝負は全く、フェアなんかじゃない。
恐怖と不満。猜疑と激痛。
続く出血とともに、残り粕となっていく怒り。
それらを飲み下すことのできない木嶋は、よたよたと力なく壁際のスイッチまで歩き出す。
そして、壁際のスイッチに手をかけるが、油とカレーと血に汚れたままの手が滑り、バランスを崩した木嶋はさらに頭を壁に強打してしまう。しかし、もう怒る気力も失くしてしまったのか、呻く彼は壁を背にして、その場にしゃがみ込んでしまった。
すると、室内にくぐもった声が響く。猫屋敷の声だ。
『どうした、木嶋くん。もうギブアップかね』
痛みと苦しみに喘ぐ様子に見かねたような口調で問いかけてくる。
木嶋は痛みに耐えながら必死に悪態をついた。
「遅ぇよ! 散々、無視しやがって、この卑怯者のジジイが!」
『無視だって? 君はおかしなことを言うね。連絡のことを言っているのであれば、私にも生活というものがあるのだから、どんな時でも即時の応答ができる訳ではないということは初めに伝えたと思うが』
木嶋は歯噛みする。猫屋敷は構わず繰り返した。
『それで、首尾はどうだい。どうやら怪我をしたようだが、ギブアップしたくなったのかな?』
「何がギブアップだよ、こっちは頸動脈をやられたんだぞ。人体の急所だ。畜生、血が止まらねえ。それに何だ、あの猫は。お前、あれは単なる猫じゃないだろう。人殺しのために躾てあるんじゃないのか!」
『そう興奮せずとも経緯は監視カメラで把握している。その上で言うが、木嶋くん。頸動脈ならば大丈夫だ。今は出血があって驚いているようだが、その怪我は軽傷だよ。薄皮が持っていかれただけだ。直に血も止まるだろう』
「これのどこが軽傷だよ!」
怒りの声にも猫屋敷はマイペースを崩さずに返す。
『これはこれは、随分と傷口が痛むらしい。でもね、木嶋くん。その痛みは君がカレーで汚れた手で傷口を抑えるような真似をするから余計に痛むのだと、私は思うよ』
カレーだと……?
木嶋は唖然とした様子で右の手の平を見ると、赤黒い血に混じって鼻を突くスパイスの匂いを感じた。
『しかも、そのカレーは激辛らしいじゃないか。さっきは軽傷だと言ったが、考えてみればカレーというのは様々なスパイスを使っている。これは早めに治療しないと人体にとっては劇毒となるかもしれないね』
「ふざけるな、大問題だぞ! 後遺症なんか残ったらお前、責任問題にしてやるからな!」
息を切らしながらも必死に叫ぶが、返ってきた答えは冷淡なものだった。
『君が私を訴えたいならば、それも別に構わない。好きにしてくれていい。ただし、その際には私も君の恐喝の件、然るべき場所へと連絡をし、大事にさせてもらうよ。それに、契約も不履行ということになるから、日給もお渡しできないことになるね』
この、野郎……! 嵌めやがって――。騙しやがって――!
続く痛みに木嶋の意識は朦朧としてきた。
必死で意識を繋ぎとめようとするが、体中が灼けるように痛む上、妙に気だるい感じがする。
手足が動くことを拒否し、脳が痺れているようで思考が定まらない。
大体、あの猫は何だったのだろうか。
動きといい、獰猛さといい、明らかに普通の猫ではない。
こんな実験の何がフェアだというのか。
そういえば、破られた札束はどうなるのだろう――。
頭の中で様々な思いが過ぎっては消えていく。
やがて木嶋は崩れ落ちるようにして板張りの床へと横たわった。
そうして静かになった実験室内に、冷たい一言が飛んだ。
『言い忘れたがね、木嶋くん。君が相手にしたのは単なる猫だよ。ただの、野生の猫だ。そうであれば、敵対するものが何であれ、観察し、弱点を探し出すのに決まっているじゃないか。それは野生動物に元々備わっている才に過ぎない。人殺しのための躾だなんて、心外だよ』




