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攻防

 深夜、暗闇の中での猫屋敷との問答の後のこと。

 マットレスへと横になった木嶋は何度も寝返りを打ちながら考えを巡らせていた。

 今までは猫殺しによる報酬の百万に合わせて日給も稼げるだけ稼いでやろうと思っていた――。だが、閉じられた実験室内で何もやることのない生活は思っていた以上に息苦しいものがある。

 猫に傷を付けられたのはもちろん、蚊まで出るし、風呂にも入れない。何より、猫屋敷の鼻持ちならない態度や言動は腹立たしく、癪に障る。公平性がどうのと屁理屈をこねくり回したと思えば、日本刀がどうだのと、つまらない冗談を言って白けさせる。


 結局のところ、奴は俺に勝たせたくないのだ。

 だから挑発的な言動でこっちを煽って、少しでも冷静さを失わせようとしているのだろう。それでも日給の六万は既に確定したようなものだが、割に合っているとは言えない。

 しかし、あの狸親父が幾ら猫の方を勝たせたいと思っていても、冷静に考えてみれば自分の有利は揺るぎないはずだ。

 確かに猫は素早く、逃げ足が速い。それはもう十分、この目で見た。

 それでも、人と猫では覆しようのない歴然たる体重差がある。さらに、その体重差も数十倍となれば、猫の方からこっちに対して致命的な攻撃を加えることなど不可能だ。

 実際、引っ掻かれた脛も腫れてはいるが、痒いくらいで大した痛みもない。掠り傷も同様だ。

 爪先の傷については不注意ではあったが、こちらもぶつけたりしない限りは問題もない。

 そうなれば、この広いとは言えない実験室の中で、敷居に躓かないよう注意しつつ、しつこく追い回してやれば捕まえられないということはないだろう。

 この密室では猫が隠れる場所だって限られてくるのだ。いつまでも逃げ続けることはできない。

 今に見ていろよ、絶対に殺して百万を持っていってやるからな――。



 ※※※



 三日目・午前八時過ぎ。

 目を覚ました木嶋はマットレスから上体を起こすと慌てたように周囲を見回した。

 起き抜けなせいか、どこか現実感のない実験室の光景に思考の焦点が定まらない彼は、かぶりを振ってから床へと足を降ろす。

 全面が透明な四角い部屋。平らで透明な天井。その中央部には開閉可能な丸形のシャッター。

 目に入ってくる光景に、木嶋はふと、不穏なイメージを抱いた。


 この実験室は虫かごと全く同じ造りをしているのだ。

 こちらの意志に関わらず、定期的に餌となる食料が降りてくることや、水が用意されていることもそうだし、観察されていることにしてもそうだった。

 何となく子供の頃に飼っていたカブトムシのことを思い出すものがあった。

 子供の時分、虫かごの中でじっとしているカブトムシを動かしたくて、ちょっかいを出したり、クワガタはもちろん、色んな虫を閉じ込めては戦わせたり捕食させたりして遊んだものだった。

 もしかしたら今の自分も、あのカブトムシと同じような立ち位置となっているのかもしれない。


 そういえば、何か夢を見ていた気もする――。あれは何だったか。

 思い出すことができない。

 木嶋は頭に降って湧いてきた悪いイメージや思い出せない夢のことを払拭しようと、水場で顔を洗いだす。洗顔が終わると足の脛の状態を確認した。

 少し腫れて赤くなってはいるが、血も黒く固まり大した痛みもない。

 やはり猫の力では、この程度の傷を与えるのがやっとというところなのだろう。

 水場から離れると、敷居に置かれたままのおにぎりのパックを持ち、デスクにつく。

 片手でおにぎりを頬張りながら、もう一方の手で引き出しを開けた木嶋は、百万円の札束を掴み、その重みを楽しむようにしてからデスクの上へと置いた。


「必ず、今日で終わりにしてやる」


 目と鼻の先にある大金を眺めることで気分が高揚したのか、木嶋は一気におにぎりをかきこむと、いつものようにプラスチックの容器を持って敷居近くまで歩き出した。


「これでも喰っとけ!」


 軽く叫んで容器を放り投げる。

 投げられたプラスチックの容器は風の抵抗など受けることもなく、松の木の枝へと当たると芝生へと落ち、からりという乾いた落下音が立った。

 同時に、奥にあるヒノキに陰に隠れていた猫が、音に反応したのか身体をぴくりと動かし、敵対者の動きを見逃すまいとでもいうかのように敷居の前を注視する。

 木嶋はそんな猫の反応を気にする事もなく敷居を跨ぐと猫エリアへと侵入した。


 ぱさぱさとした芝生の感触は板張りの床とはまるで違うものだが、元々が綺麗に整備されているため、決して歩き難いことはない。それどころか、柔らかな芝生は歩いていて気持ち良ささえ感じるもので、歩行するのに支障などは一切ないと感じられる。

 この猫エリアに何か障害物があるといったら、中央にある松の木と、外周左右に一本ずつあるヒノキに、そこかしこに転がっているプラスチックの容器くらいのものだが、その容器も決して小さい物ではないので、夜でもなければ誤って踏むようなこともないだろう。


 強く、蹂躙するかのように芝生を踏み鳴らしながら考え、木嶋は猫が隠れているヒノキに近付いていく。猫はその足取りに気付いてはいるが、じっとこちらを見据えたままで動かない。丸い目を大きく見開き、瞬きもせず注視したままでいる。

 木嶋はなるべく音を立てないように、腰を落として歩いていった。

 すると、やはりと言うべきか、手を伸ばせば触れられる距離まで近付いた所で、猫は素早い動きで駆け出し、走り去っていく。

 その動きは信じられないほど早く、手を出そうとした時には既に距離を取られ、こちらの攻撃範囲のずっと外を駆けている。この警戒心の強さといったら、まるで目の前で雷でも落ちたかのような反応だ。駆け出す猫は敷居を通り抜け、人のエリアまで走っていく。

 逃げていくその後姿を確認した木嶋も素早く身を翻して駆け出すが、突如、ばきり、という音が足元に立ったかと思うと、バランスを崩してしまう。

 木嶋は反射的に横にあった松の木の枝を掴んで体を急停止させた。

 足元を見ると、ついさっき投げ捨てたプラスチックの容器を左足で踏んでいた。


「あぶねえな、畜生が」


 捨てたのは自分だが、つい腹が立ってしまう。

 しかし、ここで怒って取り乱す訳にもいかない。

 今日でこの馬鹿馬鹿しい戦闘実験とやらに決着を付け、金を持って帰ると決めている。

 相手はたかが猫一匹。捕まえるまでには、それなりの苦労があるだろうが、追い続ければいずれは捕まえられるし、少なくとも負けるということはない。

 そう考え、落ち着きを取り戻した木嶋が前を見据えると、人エリアへと逃れた猫がマットレスの上にいるのが確認できた。


 ――ばりばり。

 ――ばりばり。


 よほどマットレスが気に入ったのか、それとも威嚇でもしているつもりなのか。

 猫は険しい顔を向けながらマットレスに爪を立てていた。

 だが、そんなものはこけ脅しにもならない。経験したことがある訳じゃないが、人が野犬などに襲われそうになった場合、毅然とした態度を取らなければ、相手を図に乗らせてしまうものだと聞いたことがある。

 だったら、こっちはこのまま強気に近付いていけばいいのだ。

 どれだけ威嚇していようと、猫なんてどうせ逃げることしか考えちゃいない。


 木嶋は怯むことなく猫を睨み付けると、あえて大きな足音を立てながらマットレスへと歩いていく。そして両腕を軽く開き、マットレスめがけて勢いよく倒れ込んだ。

 衝撃音が鳴り、猫がマットレスから降りて駆け出す。木嶋はそこを捕えようと急いで腕を伸ばすが、走り去る猫の小さな身体には掠りもしない。

 猫は再び自分のエリアへと戻っていく。


「……まあ、そう簡単には捕まらないよな」


 木嶋は唇を歪めて笑うと、同じように強い態度を持って猫を追い始めた。

 どすどすと大きな音を立てて歩き、敷居を跨いで真っ直ぐに猫の元へ向かう。

 今度は投げ出されたままでいる容器を踏むようなこともせず、接近していく。

 猫は、その追跡から逃れようとするかのように再び人のエリアへと走り出す。

 逃げるのを確認した木嶋は、ただ無言で追いかける。


 しばらくの間、そんな風にしてヒトとネコの攻防が続けられた。

 その光景は傍から見れば、いたちごっこのようで、きりがないようにも思えたが、木嶋にも考えがあった。


「おら、逃げろ、逃げろ。この弱者が」


 現代では単なる愛玩動物としか見られないが、元来、猫は狩猟動物だと聞く。

 常に周囲に目を光らせ、動くものに反応し、素早い動きで自分よりも小さな獲物を狙う。

 そして自分の手に負えないような外敵からは逃げに徹して、身を隠す。

 猫のそういった行動パターンや俊敏性を考えれば、普通にやったって簡単には捕まえられないだろう。


 だが、持久力の方はどうか――。別に動物の生態や能力について詳しい訳じゃあないが、一般的に考えて、猫の持久力は同じ愛玩動物の犬よりも遥かに劣るのは間違いないだろう。

 猫が犬のように長い距離を走るという話も聞いたことがない。だからこそ猫は少し走ると高い所へ登ったり、小さな体を活かして隠れ、休む必要があるのだ。


 だったら、疲れさせてやればいい。

 こっちが足を止めずに追い続ければ、すぐに限界が見えてくる。

 どうせこの実験室には隠れる場所などない。

 せいぜいが、猫エリアにある松の木とヒノキくらいだ。

 それも、松は高さがある訳でもないし、ツリーのような形のヒノキに至っては登ることもできないだろう。陰に隠れるのが関の山だ。


 木嶋は足を止めることなく、逃げる猫を追い続けた。

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