フェア
その夜のこと、寝苦しさを覚えた木嶋は何度もマットレスの上で身を捩らせた。
夜になり気温は下がったため、昼間よりは過ごしやすくなっていたが、どうにも猫に引っ掻かれた足の脛が痒くてよく眠れない。
うとうととして意識が落ちていく感覚を覚えても、足の痒みのせいでいまいち眠りは浅く、その度に足を搔きむしってしまうため、いつまで経っても深い眠りへと入れないのだ。
木嶋は何度も寝返りを打っては足を掻き毟り、今は何時頃だろうと思った。実験室は真っ暗闇だったが、時刻を確認するにはタブレットを起ち上げるしかない。
億劫そうにマットレスから体を起こすと、タブレットの置かれたデスクへ向かって歩き出す。
手狭な部屋とはいえ、慣れない環境に暗闇も手伝い、非常に歩き辛い。
だが、幾ら室内が暗くともデスクはマットレスの近くにある上、一度タブレットに触れさえすれば、起動音と同時にディスプレイから灯りが点灯するので何も問題はないと思っていた。
しかし、短い距離ではあっても、実際にはそう上手くはいかず、僅かな歩行の間にも木嶋は右の足の指を椅子の足へとぶつけてしまう。
そう強くぶつけた訳でもなかったが、一日目に敷居に躓いたおかげで痛みに敏感になっていた木嶋は「あっ」と小さな呻き声を漏らしてしまった。
引き金にしたように、ぶつけた足先から全身へ強い痛みが登り伝わってくると、木嶋は悶絶し、足の指を抑えながら椅子の下へ蹲った。
しばらくの間、木嶋は体を震わせ、激しい痛みに耐えるかのように動かずにいたが、激痛も収まってくると、ストレスが最高潮に達したのか、声を荒げながら椅子を叩く。ばんっという打撃音が二度、三度と、実験室に響くが、椅子は少しも動かない。
怒りを露わにした彼は、そのまま叩くようにしてタブレットに触れた。即座に画面は表示され、デスク周りが薄っすら明るくなるとタブレットは自動的に現在時刻を映す。
時刻は午前二時半だった。夜明けまではまだ遠い。
うんざりとした木嶋は小さなディスプレイから発せられる頼りない光の下、左足の脛を確認した。
膝の少し下辺りから足先へ向かい、袈裟斬りにするような形で爪の跡が付いている――。
さらに歪な線を巡らせたように脛を走る猫の爪痕の周囲には、寝ている間に自分で掻いたのであろう爪痕。その周辺には薄っすらと血が滲み、ふくらはぎは腫れぼったくなっている。
続けて右足の爪先を見れば、親指と人差し指の爪の周りが腫れて膨らみ、人差し指の爪に至っては一部分が中途半端に割れて、ぐらぐらと不安定になっているようだった。
木嶋はふっと爪切りを思い浮かべたが、現在の状況が頭に浮かぶと項垂れた。
爪切りさえ使えば、半端に割れて不安定になった部分も簡単に切ってしまえるのだが、この実験室にそんなものがあるはずがなかった。
そうして傷の確認をしている間にも、左足の脛がむずむずと疼き出す。
脛の傷もヒリヒリとした鈍い痛みを感じる程度で大きな怪我ではないものの、痒みの方はどうにもならなかった。
木嶋は深く息を吐いた。
それから、左足を蛇口の水で洗い流せば少しはマシになるかもしれないと思い立ち、席を立って足を一歩踏み出したその時だった。敷居の向こう側に小さな丸い光が二つ、ライトのように光っているのを見て表情を強張らせた。
敷居の向こう、隣接するエリアの奥には、暗闇の中にも妖しく光る二つの瞳。
柔らかそうな体毛に覆われた小さな身体のシルエット。
目を凝らして見てみれば、猫が、今にも獲物を狩らんとするかのように――。
丸く、黄色い瞳を、不気味に輝かせている。
その異様な姿に木嶋は思わず構えるが、たかが猫だと思い直すと構えを解いた。
程なくして気を取り直すと、改めて水場へ向かう。
蛇口を捻り、冷水で左足を洗い流していると、今度は耳障りな音が耳に聞こえてくる。
ばりばり――。
ばりばり――。
何かを掻き毟っているような不快感のある音だった。
酷く耳障りなその音は、ばりばりと――。蛇口から落ちて流れる水の音に混じり、人側エリアから聞こえてくるようだった。木嶋は一旦、水を止めると立ち上がり、音の鳴る方向へと首を回す。
すると、視線の先、マットレスには闇に溶け込むように蠢く小さな影が見られた。
マットレスの上で忙しなく動く小さな影は、まるで暴れるように、あるいは楽しんでいるかのようにして、ばりばりと――。一心不乱にマットレスを引っ搔いている。
ばりばり――。
ばりばり――。
瞬間、木嶋は弾けたように動き出した。
どすどすと大きな音を立て駆け出すと、猫を踏み潰す勢いでマットレスへと足から飛び込んだ。
だが、足に感じた手応えはというと、固めのマットレスを踏みつけた感触のみで、木嶋が急いで首を動かした時には、標的の猫は既に敷居の上を通り過ぎる所で、真っ直ぐに自分のエリアへと駆けていく。
その俊足は見事なまでの遁走ぶりであった。
木嶋からすれば、暗闇の中で動く影を捉えるのがやっとな上、猫は足音すらも立てることがない。
気配を殺し、無音で動き、素早く移動し、そして闇へと消えていく。
後に残るのは暗闇と、そこに光る眼だけだ。
爪を立てられたマットレスは、そこかしこに歪な傷を付けられている。その傷痕を見ていると、まるで遊ばれているようにさえ感じられた。
木嶋の怒りは、いよいよ最高潮に達しようとしていた。
時刻が午前三時を回ったその後、木嶋は再び連絡用のスイッチを連打した。
この戦闘実験を監視しているであろう猫屋敷も、まさかこんな時間に起きているとは思えなかったので嫌がらせ混じりではあったが、意外にも返事は間を空けずに返ってきた。
『こんな夜更けにどうした、木嶋くん。もしかしてギブアップの連絡かね。だとしたら残念だよ』
「何がギブアップだよ、そんなことする訳ねえだろうが」
木嶋は口を尖らせて言うと、スピーカーから声が返ってくる。
『では、大山倍達の教えに倣って、日本刀でも所望するつもりかな? まだ実験三日目を前にした所だというのに、君は随分と苦戦しているようだしね。武器が欲しくなる気持ちもわかる。どうだ、使ってみるかい、日本刀。もちろんその場合、百万円は返してもらうが』
「何が日本刀だよ。ふざけるんじゃねえ、この狸親父が!」
『――冗談だよ。第一、フェアではないだろう』
猫屋敷は些か口調を和らげ言うと続けた。
『しかし私の見た所、随分と足の傷が疼いているようだ。それに、ストレスも溜まっているのではないかい。私の軽い冗談に対しても怒るばかりで、心に余裕が感じられないな。まあ、見知らぬ場所で裸一貫な上に、こうして私に監視されていることを思えば無理もない反応だが、実験開始前の強気な姿勢とは大違いだ。『退屈』や『孤独』といった感情の類も、君の精神に悪い影響を及ぼしているのかもしれないが――。少し落ち着きたまえよ』
木嶋は顔を歪めながらも口を結んだ。
猫屋敷は口調こそ穏やかなままでいるが、よく聞いてみれば言葉の端々に棘があるのを感じられた。皮肉めいた言動からは、歪んだ性格が見え隠れしているようだった。
隠れてこそこそと、こんな悪趣味な実験をするくらいだから、それも当然と言えば当然なのだが、黙っていればいつまでも向こうのペースだ。
木嶋は考え、何か文句を言ってやろうと声を上げる。
「お前はフェアだのアンフェアだのと、やたらこだわっているようだがよ。こっちは、あのクソ猫のせいでマットレスがぼろぼろに――」
――ばんっ。
口を開いた瞬間、木嶋は壁を強く叩いた。打撃音が室内に響く。
「おいっ! 蚊がいるぞ! なんでこんな所に出てくるんだよ!」
手の平を開き、蚊を取り逃がしたことを確認しながら木嶋は叫んだ。
「全然、密室になってないじゃねえか! こいつはどういうことだよ。フェアだとか言う以前に、この実験室には欠陥があるんじゃないのか!?」
『そう驚かずとも、蚊くらいはいるよ。実験室の整備に関しては入念にしているつもりだが、蚊の侵入など完璧に防ぐのは難しいし、室内には蚊の好む水場だってあるんだ。君の汗や血だってある。中庭には虫よけの対策をしてあるがね、幾らかは入り込むのが自然というものだろう』
「関係ねえよ! さっきから適当なことばかり言いやがって、お前の用意した実験室には欠陥があって、密室だというのも嘘だったっていうのが事実だろうが。のらりくらりと言い訳ばかりして、逃げるつもりかよ」
耳元で蚊の飛ぶ羽音でも聞こえるのか木嶋は自分の顔面を叩くと言葉が返ってくる。
『私は密室だとは言ったが、虫が一切出ないとは言っていないよ。これは前にも言ったと思うが、実験開始前に私はこの実験室を見せたはずだ。壁は全面が透明なのだから、猫エリアが自然に溢れた作りになっているのも確認できたはず。君は、その時点で小さな虫などいるものだと予想できなかったのかね』
さらに猫屋敷は付け加えるように言う。
『それに、蚊がいるとしたって、別に君だけを狙う訳ではない。猫だって同じように蚊に狙われる。条件は同じだ。この戦闘実験における公平性は覆らない。蚊に刺されることによって、大きな怪我を負うこともない。万が一、蚊が媒介する感染症を患うようなことがあったとしても、ヒトである君には相応の治療費を払うし、猫の方にはフィラリアのワクチンを接種済みだ。それでも不満があるのならば、直ちにギブアップすることを勧めるよ』
「口を開けばフェアだの公平性だのギブアップだの、お前はそればかりだな。こっちには風呂も日用品も用意しないで、寝る場所といったら床に放り出されたマットレスだけだ。人間側からしたら、ちっともフェアじゃないぜ」
木嶋は頭を掻いて言った。
弾みで頭髪からはフケが落ちたがそれに気付くことはなかった。
『こちらは手洗いやタブレット端末を用意し、最大限、ヒトの側に寄り添ったつもりでいたのだがね』
「……わかったぜ。お前、最初から人が苦しむ様子を見たかっただけなんだろう。そして、できれば猫に勝たせたいと思っている。百万を払うのが惜しいんだ」
『私の腹の中を探るのは結構だが、それでルールや環境が変わることはない』
「この狸親父が」
『狸だとしたらどうする? 続けるのかね、それともギブアップするかね』
「ギブアップなんてする訳がねえって、さっき言っただろうが」
木嶋は吐き捨てるように言うと、声に力を込めて続けた。
「明日だ。と言っても、もう深夜だし今日なのか。朝の六時になって日給が確定次第、あの猫を殺して、とっとと帰らせてもらうぜ。お前みたいな狂人にこれ以上付き合っていられないからな。明日、勝負をつけて百万と――。二日分の日給で六万貰ったら、それで終わりだ」
言い捨てると、憎しみを込めるかのように猫エリアの奥を睨みつける。
木嶋のその視線の先、暗闇の奥には光る眼だけがあった。




