敗北
閉じられた密室。
夜の闇に染まった部屋の中。
傷を負ったのか足から血を流し、床に蹲って呻く裸体の男と、一匹の猫が、そう遠くない距離で睨みあっていた。
猫は、闇の中にも玉のような瞳を妖しく光らせている。
男は、その鋭い眼光に戦慄しながらも闇の中に目を凝らす。
二つの瞳を鋭く光らせる猫は、小さな身体をその場に留めて口だけを緩慢に動かしている様子がわかったが、相手の出方を窺っているようにも見え、些かの隙も見当たらない。
「こいつっ!」
堪りかねた男が怒りに任せて拳を振り下ろす。
だが、猫の方は繰り出された攻撃の軌道を完全に把握しているのか、振り下ろされた拳を難なく躱すと、拳が床を叩く音が響き、男は痛みに顔を顰めた。猫の方はというと、その時にはもう、闇の中に溶けて消えるように姿を眩ませている。
「痛えっ! 畜生――!」
男は叫び、手を突いて屈み込んだ。
そうして自らの踵付近を手で押さえると生ぬるい液体の感触を感じ、青ざめた。
足をやられた――。出血している――。血が、血が、止まらない。
畜生。たかが猫の噛み付きを受けただけで、どうしてこんなに酷い傷ができるんだ。
あんな猫は捕まえさえすれば――。いや、一度でも攻撃を当てられさえすれば、一撃で仕留められるというのに、どうしてこうも上手くいかないのだろう。
捕まえさえすれば、一回でも殴ってやれば、それで終わるのに。それだけで決着が付くのに。
手の平を濡らしていく血の感触にすっかり混乱した男は思考も纏まらない中、怒りだけを糧に立ち上がろうと上体を浮かす。続けて足を動かそうとするが、その瞬間、電撃でも走るかのような激痛が走る。痛みに耐えかねた男は呻くと、両手を突いて前傾姿勢になった。
刹那、音も立てずに素早く男の後ろへ回った猫の前足が、追撃とばかりに振り抜かれる。
その攻撃は、床に手を突き、前傾姿勢を取っていた男の局部を掠めた。
人体の急所への攻撃を受けた男は、「あっ」と小さく呻き、体を震わせると、足の痛みも忘れたように体を後ろへと回し、局部全体を手の平で包み込むようにして守りを固めながら前方を見据えた。
しかし、猫は、もうそこにはいない。
攻撃を受け、それに気付き、振り向いた時には、行方を眩ませている。
後には、暗く、閉ざされた空間の中で、男の吐く苦しげな息遣いが残るだけだった。
痛む足を抑えつつ、ようやく状況を掴めてきた男の顔に諦観の表情が浮かんだ。
『もう終わった、勝てない』と男は思った。
ついさっき、無理に立ち上がろうとしたせいもあってか、噛み付かれた足の傷口は広がり、仄かな温かみを持った血が手の平から溢れ出していた。
たかが猫一匹、いつもやっていたように――。
捕まえて、虐め殺してやるのは簡単だと思っていたのに。
裸一貫で対峙してみれば、この有様かよ……。
この足じゃ、もうあの猫を追う事なんてできやしない。終わった。
男は額から滝のように流れる脂汗を手の甲で拭うと、痛みに喘ぎながら立ち上がる。
猫は相変わらず闇に紛れたままで、その姿を見せることもない。
今の内だと思った男は暗い室内の中、痛めた右足を引きずりながら、目印となる光源へとゆっくり歩を進め、赤く点灯するスイッチを押した。
すると、スイッチに反応したかのように、どこからか声が聞こえてくる。
『こんばんは。真一くん。いや、この場合はお疲れ様、と言うべきなのかな。それで、首尾の方はどうだい』
くぐもった低い声だった。
スピーカーを通しているせいだろうが、声の質は初老の男性のようにも聞こえる。
その上、こんな状況だというのに、その声は、どこか楽しげでさえあった。
しかし、足を怪我し、痛みに顔を歪ませている男にとっては、そんなことに構ってはいられず、助けを求めるような声で言う。
「ギブアップだ。足をやられたんだ。血がすごく出てる。すぐに手術をしないと駄目になる。早く救急車を呼んでくれ」
『足……ねぇ』
落ち着き払った声が、スピーカーを通して返ってくる。
『私の見た所、その足は大した怪我ではないようだよ。アキレス腱をやられたようだが、相手は非力な猫なのだ。命に障るような大きな傷口とは見えないし、感じられない。それに、ギブアップするにしたって、あと数時間、せめて夜明けまで耐え忍んだ方が、君に対する報酬も大きくなるのだし、今すぐにギブアップするような事でもないと思うのだがね。その辺の事はしっかり考えて言っているのかい、真一くん』
若干、煽るような物言いだった。
真一と呼ばれた男は苛立ちを募らせ、叫ぶように声を返した。
「そんな事、お前には関係ないだろう! とにかくこっちは足が痛いんだよ。痛くて動けないし、血もたくさん出てる。それに、あいつ、あの糞猫だって、この暗闇の中じゃあ、どこに隠れているのかさっぱりだ。こそこそと動き回られて、また噛まれたらたまらない。猫のことだから、きっと、ばい菌だって持ってるだろ。感染症になったらどうするつもりだ。どう責任を取るつもりなんだよ、なあ!?」
そう早口に捲し立てた後、更に続ける。
「訴えてやる! 訴えてやるからな……。今すぐにここから出さないと、お前の下らない実験のことを訴えてやるからな!」
スピーカーからはすぐに答えが返ってきた。
『少し興奮しているようだね、真一くん。まあ、今は痛みや恐怖のおかげで気が動転しているのだろうし、それも仕方ないこととは思うがね。それにしたって、その言い分はないだろう。君は、あくまで私の提示したルールに同意した上、その実験室に居るはずだよ』
真一はぎょっとした。言葉もなく沈黙する。
『君が私を訴えるというのも、それはそれで構わんがね。それは契約不履行というものだ。それでも君が一時の感情に任せた行動を取るようならば、私の方も警察や君の家族を相手に、今まで君がやってきたことを公にしたっていいんだよ。そう。例えば、小動物虐待の件とかね』
真一の額から脂汗に混じって冷や汗が一筋流れた。
彼の動揺する姿がまるで見えているかのように、スピーカーからは声が続く。
『そうは言っても、互いに損をするようなことはあるまい。第一、これは互いにとって益となる話だったはずだ。この実験において何か怪我でもすれば、治療費だってこちらが持つ予定だった。だからこそ、君は承諾したはずだ。それを忘れてもらっては困る。それで、どうだい。少しばかりは頭が冷えたかい』
『――それで、どうだい。少しは頭が冷えたかい』と、確認するように声は続けられる。
意気を削がれた男は呆然とした表情もそのままに、震える声を絞り出した。
「ギブアップ……。ギブアップさせて下さい。足が痛いんです。すごく痛いし、自力で歩けない。戦うどころの話じゃない」
『つまり、負けを認めると?』
「はい、認めます……。だから、早く中止してください」
男の声は徐々に涙を含んだものになっていく。
だが、それとは裏腹にスピーカーから聞こえてくる声は侮蔑を含むものになっていった。
『では、君は猫に勝てないと? ヒトともあろうものが、たった一匹の猫を前にして敗北を認めると、白旗を上げると、そう取っていいのかね』
男は黙って首を縦に振るが、責めるような声は続く。
『それは残念だよ。今までたくさんの小動物を捕まえては虐待してきた君の経験も、ここでの戦いには活きなかった訳だ。まあいい。君のようなタイプの人間の実力は、たかが知れているとわかった。それだけでも収穫はあったと、そう考えるとしよう』
痛みと、屈辱に耐える事しか出来ない男は、今になって自分の選択を後悔していた。
自分はこの男の口車に乗ってしまったのだ。あれは罠だったのだ。
あいつは、ただの猫なんかじゃない。生粋の人殺しだ。
そうでなければ考えられない。
人が猫に敵わないなんて、とても考えられない。
『ギブアップを受け入れよう』
詰るにも飽きたのか声の主は呟くように言う。
静寂を取り戻した室内には、血を流す男の嗚咽の声だけが響いていた。