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お釈迦さまの教えにあった「鳩」のお話と今の世の中。

作者: 天海波平

たまに子供時代の出来事をふと思い出すことがありますが、世の中便利になった反面、不便に思うこともありますよね。


そんな事を何となく考えてのエッセイです。

ちょっと説教くさく感じるかもね。

 もう、四十年以上前の話になります。


 私の母方の実家の本棚には、小学生低学年が読めるような本というものがほとんどありませんでした。

 だけどわずかに、お釈迦さまの教えを漫画にしたものがあって、それしかないものだからそれをよく読んでいました。

 それは漫画というよりは絵本で、すぐに読み終えてしまうものでした。

 子供心に特に面白いと感じていたわけではなく、雨が降って外で遊べないからその暇つぶしとして「仕方なく」といったニュアンスで読んでいた記憶があります。

 

 それから時が過ぎ、祖母も祖父も亡くなり、その家へ行くことが無くなったことで長い間、その読んだ本の事など思い起こす事はありませんでした。

 ですが最近、何故かその絵本の内容が思い出されます。


 それは「鳩」の話。

 ざっと紹介します。


 檻に入れられた数羽の鳩の中に一羽だけ白い鳩が居ました。

 その鳩は、人間から与えられた餌を全く食べません。

 人間が餌を持って来ます。


「ほら鳩ども、餌を好きなように自由に食っていいぞ」


 多くの鳩はその餌を美味しそうに頬張ります。

 ですが白鳩は口にしません。

 仲間の鳩が白鳩に言います。


「キミも食べなよ」


 だけど、やはり白鳩は餌を食べようとしませんでした。

 そんな白鳩を周りは馬鹿にしだします。


「何だアイツは、痩せてガリガリになっているじゃないか」

「変だよな。あれでご飯食べないなんて何考えてんだか」


 それから幾日か経つと、その白鳩はさらに痩せ細り、それ以外の鳩は丸々と太っていました。

 お腹が空いてフラフラになった白鳩は柵にもたれかけます。

 すると、痩せ細った白鳩はその格子の間からスルリと身体が抜け出る事が出来ました。


 白鳩は羽を広げ喜びます。


「嗚呼、これで僕は自由だ」


 檻の中の鳩たちは白鳩を羨ましがります。


「俺たちも餌を食べなきゃ良かった……」


 ですが、どうしようもありません。

 そこにいつも餌を持ってくる人間が現れます。

 ですが、その手には餌ではなく包丁が握られています。

 

「おう、丸々と太って美味そうになったな」


                ー終ー


 セリフとかだいぶ変えてますがこんなお話でした。

 当時はフーンというだけで、特に感想も何も感じませんでした。

 ですが、今思えば昔から自由という言葉の響きに騙されてはいけないと、上手い話には裏があるという事を絵本のうちから教えられていたんですね。


 今もこの絵本はあるのでしょうか?

 ちょっと前に古本屋で探したのですが、見つけられませんでした。

 まぁ、あっても買ったかどうかは微妙ですが……


 ともかく……

 この歳になるまで、檻の中に入れられていたことすら気付けずにいたと思えた事がね…… 笑うに笑えないというか、情けないですねよね。

 思い込みであるなら良かったんですけど、結構ね、人間ってやっぱり周りに流されるもんなんですよね。

 それで周りが見えなくなる。


 政治への無関心が、さらにその檻を見えにくくしていたとしてもしても、その檻に入れられている事に、全く気付いていなかった自己に対する無自覚さに羞恥します。

 いっそのこと見なっかった事にしようとする気持ちとか、諦めからくる居直りに似た態度もまた情けないというか何というか…… 今の世の中で良いのかなぁとか思うのですよ。

 そう思う中で、発言をしようとすると、色々と問題があったりするわけです。


 最近はある物事を憶測で発言したらすぐに「陰謀論」と言われて「自由」に発言する事が難しくなっている様に感じます。

 確かに発言において「憶測」だけのものは信憑性に欠きます。

 事実とは異なった時、その責任をどのように取るのかという話になるでしょう。

 憶測だけの間違った判断によってとてつもない問題が起こったというケースは確かによく聞きます。

 ですが逆に「センメルヴェイス反射」に見られるように、正しい事実がもみ消され、それによって真実を知る機会が遅れるケースもあり得ます。


 ※センメルヴェイス反射 19世紀初頭のオーストリアの産婦人科医、センメルヴェイスは当時、新生児の病気による死亡率が高かったが、その病気の原因は赤ん坊を取り上げる医師の手からの感染によって引き起こると言う仮説を立てる。「手洗い」を自身の病院で行い、高い効果が見られたので論文にしたが、多くの医師に反発され最後は精神病院で悲痛な最後を迎える。彼の論文が実証されたのは彼が死亡してから五十年後になる。このことから通説では無い事柄や意見に対して反射的に感情で反発、否定することを「センメルヴェイス反射」と言います。


 ここに「「自由」に発言する」と言う事に対するジレンマがあるんですけれども、どうあるべきなんでしょうね?


 これを先の「鳩」の話で例えてみましょう。

 白鳩が最初に檻の中でこのように言ったとします。


「餌を食べて太ると食べられちゃうよ」


 すると、この発言が周りの鳩たちにどのような影響を与えるかが問題になり、その発言自体が正しいか正しく無いかになると思われます。

 物語としてはそれは事実になるのですが、檻に入れられた当初の段階では鳩たちは判断は出来ません。

 白鳩が憶測だけの誤りであったならば、それを信じた鳩は飢えて餓死していたかも知れません。

 そうなれば白鳩の発言はとても許されるものでは無いでしょう。

 鳩を檻に入れた人間が、単なるペットとしていたならば白鳩の発言が誤りであったことも十分にあり得ます。


 結局は、それぞれの自分の立場、状況、関わりのある事柄、その全てに目を見張り、自分の判断において覚悟を決め、行動するしか無いのでしょうね。

 

 おそらく、その覚悟を持つ事において私たちは「自由」であるべきなのでしょう。

 「自由」とは「無条件に自分勝手な行為が許される事」ではなくて「自分が取れる社会的責任の範囲において許される行為」であるべきなのです。

 ですが、今の社会はそれを知ったか知らないでかの身勝手な「自由」を振り回しているかのように感じられます。


 今の世の中、私たちは与えられた「餌としての情報」を鵜呑みに食べる事で、偽りの自由の中を渡り歩いているように思えるのですが、どうなのでしょうかね?

 これは私の「憶測」でしかありません。

 それどころか「妄想」かもしれません。

 その立証も難しいですから「責任」など取れませんし取りようもありません。


 ですが将来、何かしらの「結果」が私たちに降りかかると仮定して、その結果に対する責任を全て自分では無い他者に移す事は出来ないとだけ言っておきます。

 もしかしたらある程度の責任を取ってもらう事ができるかもしれませんが、可能性はかなり低く、良くて交通事故に似たものになるのでは無いでしょうか?

 賠償金などは多少もらえたとしても健康な身体、あるいは生命は戻らない状態かもしれません。

 それどころかあなた自身ではなく、子供とか親族の場合も考えられます。


 ええ、もちろんこれも「憶測」ですよ。

 ですが、「知らなかった」事に対する責任は「知ろうとしなかった」その人個人にあるとだけは覚えてて下さい。


 物語にある白鳩のように、空に飛び立てるまでの「真の自由」を得るには「覚悟」と「責任」という苦しみの上に成り立つものなのでしょう。

今どきは、こんな話は流行らないんでしょうけど、本質を捉えていないと本当に焼き鳥になっちゃうと思うのですよ。


いや…… モルモットかな……

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― 新着の感想 ―
[一言] 昔の絵本って、たまに、「これ、絵本???」的なのがありましたよね。興味深く読ませていただきました。
[良い点] 分かりやすい主張でした。 [一言] その絵本のタイトルを教えてください。
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