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シーラにとって物心ついた時には父と母、兄と姉が存在していた。
シーラの中にある最初の記憶は馬車の中で。
父はシーラを撫でながら対面に向かう母と兄に話しかけていた。
「ーーはお嫁さんになる子だよ」
父は兄にそう言うと、兄は驚きながら、それでいて照れながらそっぽむいた。
姉のサーシャは小さな頃から可愛かった。
シーラと同じ瞳の色なのにこうも違うのか。
青みがかった銀髪と同じ長いまつ毛を伏せるたびに息を呑む。美しいと。
冬の時期は雪と溶け込む姉に毎年感嘆の息を漏らすほどに。
伏せ目がちに息を吐けばそれだけで絵になる。アーモンドのように丸い瞳を細ませ笑えば可憐と言葉が浮かんでくる。
美人であり可愛い姉。
そんな姉は天才だった。
姉は自分で始めた事業を次々と成功させた。
市井に出て様々な人物達と交流をする。
姉が笑えば周りに笑顔が溢れ、男達はそんな姉を下心ある目で見ていた。
聖女と呼ばれる様になったのは実績よりも見た目が大きいだろう。
姉は綺麗で、聡明だった。
姉はけして靡くことはなかった。
どれだけの人が姉を求めていたとしても。
優しい姉。笑顔を絶やさず努力する姉。
そんな姉の笑顔が消えたのは、王城からの知らせの後だった。
帰ってきた姉は意識を失い頭に包帯を巻いていた。
数日眠り続け目を覚ました姉は人が変わった様に泣き続けた。
人が怖い、男が怖い。
医者を呼んだ際にも彼にすら怯える姉を母とシーラで支えながら。
姉にとって兄は特別だったと気付いたのはその頃だった。
家族として当たり前に過ごしてきた同じ時間を共有した仲の良い兄妹。自分達は変わる事のない三人兄弟だと信じていた。
世話好きな兄、時々お小言が多いけど姉とシーラを大切にしてくれる兄。
姉はシーラと違って優秀で、可憐で美しく。貴族令嬢のお手本となる様な人。
シーラだって可愛さなら同じくらいだと自負出来た。加えて愛嬌。しかし姉はそれに加えて青みがかった銀髪が一層儚さを醸し出し、目を閉じる仕草が消えてしまいそうなほどか弱く見える人だった。
姉ははっきりと言った。
第二王子が怖いと。同じ様に兄だけは大丈夫だと。
父は姉の気持ちを汲み取るかの様にシーラと兄に姉を任せた。
三人で過ごしている時間。
実兄の姉を見る目が、街の異性が姉を見る目と同じだと気付いたのはいつだろうか?
シーラに向ける視線と違う距離感で、兄は姉に近づき微笑み合う。男が怖いと話している姉の言葉が嘘の様に彼女は笑みを浮かべ、兄もまたシーラに向けない、むしろ母にも父にも向けた事のない様なふやけた顔で姉だけを見ていた。
ある日突然母が寝込んだ。父の遠征の時期だったと思う。それから兄はシーラを連れて街へ降りて行き、ある人と会った。
シーラの想い人であった少年に。
まさかの第一王子…王太子だとは思わなかった。
そんな彼に求婚されるなんて思いもよらなかった。
嬉しい反面不安であった。しかし兄はシーラと王太子に圧をかけてきた。
珍しい兄の焦り様に王太子も苦笑いを浮かべながらシーラに告げた。
姉と第二王子の婚約話を。
噂が流れていて信憑性は高いと言う。
直に発表、国王ではなく側妃から発表されるであろうと。
国王は無言を貫くだろうと。
姉は側妃に弱みでも握られたのだろう。従うしかなかったのかもしれない。最近より一層表情が消え、このまま存在自体が消えてしまいそうで不安になる。
弱みでも、の点に王太子が教えてくれたのはシーラ達の家族の関係だった。
父と母は再婚で、兄とシーラが連れ子だと言う事。世間一般的に見たら珍しいがなくはない。しかし、父は魔導団を率いる頭であるからその話をつけ込まれたのだろうと推測していたらしい。
下手に動くことができない今、対立勢力として王太子にシーラをと、兄は言いながら。
「結局お前らは両思いなんだから問題ないじゃないか」
そう呟いた声がひどく悲しそうだった。
兄が姉の事を一人の女性として見てきたこと。
姉を救いたい兄に応える様にシーラは王太子…恋人と手を取り合った。
*
兄と姉が先に学園に入学し、シーラも無事に学園に入学を果たした。
久々に見た恋人は一段とかっこよくなっていて、見惚れながらエスコートを任せる。
姉も更に綺麗になっていて…入学式はちゃっかり兄が隣にいた。皆が恋人の話に集中している時に二人は横目で視線を送り合っていて、兄も兄でよく見たら整った顔立ちをしているので二人並ぶととても絵になっていた。
入学式を終え、王太子の婚約者ということで彼と側近…兄と騎士団長子息、子息の婚約者など恋人の信頼のおける面々と歩いていたら共通の渡り廊下で怒鳴り声が聞こえてきた。
「お前なんかより可愛い奴がいるのに俺は不幸だろ?お前はなんで生きてるんだ?早く死ねよ!死んだら俺があの妹と結婚出来るからよ!!」」
目の前の集団の中だろう。
聞いた事ない男の声がしたかと思うと、パチンと誰かを叩いた音がして。
大勢の中で誰か標的にでもされているのだろう。
悪趣味だ、とシーラは嫌悪感丸出して恋人や兄を見た。
恋人は目を見開き驚いたままシーラの手を強く握っていた。兄は…兄は唇を噛み締め集団を睨みつけてゆっくり歩き出していた。
我に返った恋人は騎士団長子息に兄を抑えるよう指示を出し、シーラに告げるのだ。
声の主は第二王子だと。
シーラ達が現れた事によって周りはざわめき出し、王太子と似ても似つかない第二王子がシーラの方を向いた。
床に倒れ込む姉の姿。人形のように感情が抜け落ち、そんな姉に対して第二王子は姉の行いを話していく。
姉を叩いたのを他人のせいにしたはずなのに第二王子の叩いた方の手は腫れ上がっており、姉を支えると何かを呟く。
一瞬の出来事だったから注意しないと見逃すだろう。シーラ達は決して見逃さなかったが。
第二王子と接触した後、姉は操り人形の様に動き始め抑揚のない声で話していく。
誰が見ても異様な光景なのに、第二王子の周りの貴族は誰も何も言わず。
挙げ句の果てに姉の失態と称しシーラを口説き始めたのだ。
いつどこでお前に好意を寄せられたのか?
気持ち悪い事この上ない憎悪を隠しながら去って行く姉を見送ることしかできなかった。
もちろんお礼も断り、シーラの周りには恋人の未来の臣下…歴代軍長家系の令嬢子息を紹介してくれた。同級生にも数名いてシーラといつも過ごす様になった。魔導団長を務めた家系の令嬢もいて、彼女は姉を崇拝していた。姉は魔法においても優秀なはずなのに、と彼女は漏らしていたが。
お茶会の誘いも全て断りを入れ、姉のいなくなった生徒会室で宰相子息の報告を聞く。
第二王子は何故かシーラにぞっこんで、騎士副団長子息がサーシャに好意を抱いていると。
「本人を目の前にすると文句を言うんですが、同級生子息達の間では有名なんです。第二王子の取り巻きの中にサーシャ様に懸想してる奴らは沢山います。その、変な話…」
チラッと気まずげにシーラを見、口を閉ざした。
「傷心したサーシャ様が婚約破棄されたらすぐに駆けつけて彼女の気を引こうと考えてる輩が多いのです…」
少し考えて宰相子息は声を絞り出した。
シーラももう素直な子供というわけではない。学園を卒業したら恋人を支える役目になるのだ。
いくら言葉を綺麗に伝えたとしても本心は違うだろう。
成長を遂げた姉の体は同世代の中でも別格だった。くびれた腰に、白魚の様に整った手足。シーラとは比べ物にならないくらい豊満な胸周り。違和感があるのは表情が消え、本当に人形が歩いてるような現実味のない存在。それくらい浮世離れしていた姉は今まで雲の上の存在だったのだ。隙あらば彼女の心に付け入りたい輩は出てくるだろう。大体が体が目的だろうが。
宰相子息が報告してきた子息達は体目的の方だろう。捨てられた姉をおもちゃの様に拾って扱う。むしろ、意志が無くなるまで傷付き思考するのをやめた姉をそのまま弄ぶ隙を狙っているのだろう。
それでも自分達は証拠を集めることしかできない。
王太子が即位すればすぐに罰することができるのに。
姉も人前では第二王子の婚約者を演じる。
その姿にほとんどの貴族は気付かないのだ、第二王子の残酷さを。
今はただ耐えて、姉を遠くから眺めることしかできないのだ。
彼女がシーラ達を突き放すから。
*
父が遠征に出発して帰ってこないことを知ったのは学園に兵力補充の連絡が届いてからだった。
騎士団長、父。国の頭が数ヶ月にも及ぶ遠征で行方不明だというのは理由があるかもしれない。恋人はそう言って臣下達にシーラを任せ戦地へ赴いていった。
兄も何度もシーラに姉の事を頼んでいた。
第二王子を罰する証拠を宰相子息や医療団長子息他数名紛れ込ませていると伝えながらも。何度も兄は姉から目を離さないでくれと伝えた。
父を連れて帰ってくるからと話し、兄は恋人と共に戦地へ向かっていった。
それから数ヶ月後。
姉が忽然と姿を消した。
第二王子が生徒会を掌握してすぐの事だった。
どこに行ったのか?宰相子息なら何か知っているだろう。だけど隙がない。彼のそばにずっと第二王子がいて、シーラの友人達も仲間内から話を聞くもわからないの一点張り。情報が足らないと焦りを感じながら姉がいなくなって四日後。
宰相子息が授業中に倒れたらしい。
シーラ達数名で医務室を訪れるとカーテン越しに二つの影が見えた。
声から判断するに宰相子息と騎士副団長子息だった。
「俺は反対したんだ!サーシャを遠征に行かせるなんて…。でも、親父がきっとサーシャを守ってくれる。帰って来たらサーシャも親父に感謝して俺の元に…俺を選んでくれるだろう。だって命の恩人の息子だからな」
その言葉が出た時シーラはどんな顔をしていただろう。
第二王子に関する怒り、騎士副団長子息に対する呆れ、姉に対する悲しみ。
反対したんだ、と言いながらきっとこの男は姉の前では罵声を浴びせていただろう。
「しかもサーシャも断ればいいのにさ、すげー可愛い笑顔向けて頷くんだよ。殿下以外のやつは見惚れてたけどよ、あの女俺のだから!」
ゲスな笑いが聞こえ、勝手に俺の女発言をした騎士副団長子息を一瞥した後シーラ達は気配を消し医務室を後にした。
姉がきっと笑って承諾して戦地へ赴いた理由はなんとなくわかった。
戦地で死ぬ怖さよりも、兄に会いたい一心だったのだろう。
昔から兄に対してよく笑う姉だった。
兄もそうであった様に、姉も兄に対して特別な感情があったのは確かだった。
シーラは姉や兄、父の無事をただ祈ることしかできなかった。
それからすぐに第二王子からのシーラに対する追いかけが始まった。
何度もシーラの元を訪れる様子を見て、上辺だけの第二王子のことしか知らない令嬢達からの嫌がらせ行為が頻繁に起こり始めた。
ある時は教科書破り、嫉妬に狂った女達が起こす行動を一通り体験した後に、友人令嬢達が不在な時に教師から呼び出しがあった。
案内された先は大きな湖でシーラは待ち構えていた令嬢達から湖に放り込まれた。
友人達が助けに来てくれなかったら死ぬかと思った。
令嬢達の言い分は、第二王子を誘惑しないで。ただその一点だった。
勝手に寄ってきて喚く男に嫌悪や憎悪すらあるのに。
好きになるなんて絶対にない。そもそもシーラは奴の腹違いの兄の婚約者だ。
どんなに言葉を伝えても彼女達には通用しなかった。
教師がやってきて令嬢達は寮で待機指示が出た。
*
ある日、授業中に教師から呼び出しがあった。
王城からの呼び出しだと馬車が迎えにきていた。
シーラはそのまま乗り込むと馬車は動き始め、見慣れた道から城への道を進む。途中で下ろされ、一つの邸の前で着替えてから登城する様にと邸の中に案内された。
案内された先で待っていたのは一人の女性が立っていた。
外側から鍵をかけられる音がし、女性はシーラに近づき制服の襟首を持ち上げる。
「この性悪女めっ!あんたがサーシャを遠征に向かわせたんでしょ?!」
何を言われてるのか分からず顔を顰めると無礼だ、不敬だと言いながら女性はシーラの頬を叩いていく。
「あんたがサーシャを遠征に行かせたから!!息子を誑かして次期国母にでもなるつもり?姉に敵うところなんかないくせに?あの王子も死んだ今、私にとってはあんたは殺すべき一人なのよ」
息子、姉、国母。王子。
困惑しながらもシーラは目の前の女が第二王子の母である側妃だと認識し、途端に湧き出る苛つきを抑えることができずに叫び出す。
「お姉ちゃんを戦地に送ったのはあんたのバカ息子でしょ?!その馬鹿息子が勝手に人の尻追いかけ回してるだけなのに?!」
「不敬な!!私の息子は王族なのよ?息子がわざわざサーシャを戦地に?そんな馬鹿なことするはずないじゃない。あんたが全て仕組んだことよね?…あんたは姉の暗殺を企て私の息子の婚約者になりたかったのよね?そうよね?…そんなことさせるわけないじゃない!あんたは姉を暗殺した罪を国民の前で裁かれるといいわ!!」
理解不能な言葉を側妃は言いながら、シーラは否定を続ける。
否定するたびに側妃はシーラを蹴り上げ、カーテンやクローゼットから隠れていた黒フード達にシーラを捕まえる様指示をする。
捕まえられたシーラを何度も痛ぶりながら。
「サーシャほど都合のいい駒はいなかったのに!!これからまた新しい婚約者を探すのは骨が折れるわ…。全く余計な事をしてくれて!まぁ、馬鹿な女ほど扱いやすいわね。王子が死んだ今王位を継げるのはヴァイオスだけになったから特段美人を当てがおうかしら。孫は可愛い方がいいものね。…そうよ、もうヴァイオスしかいないのよ!!」
意識が途切れそうになりながらシーラは歯を食いしばる。
姉を駒呼ばわりした側妃こそが姉を痛ぶった影の立役者なのだと理解した。
反論するだけの口は体の痛みに耐えた、発するのは言葉ではなく嗚咽か悲鳴だとわかっていたから。ひたすら側妃の言葉に耳を傾ける。
「あんたの姉は手に入れるまでが大変だったけど駒になればあれほど使いやすい子はいなかったわ。サーシャの名前を出せば平民達は皆嬉々として戦場に赴き、彼女に忠誠を誓うの。見た目も悪くなかったわ。むしろ良かった。誰よりも賢く…そして誰よりも愚かな女よね。大切に守ろうとしていた家族に裏切られるなんてね」
「知ってた?知るわけないわよね。婚約を決めた日、貴方のお母様の首がサーシャの目の前で斬られそうになってたこと。婚約すれば家族や事業者に手を出さない事を条件にあの子はヴァイオスの婚約者になったのに…そのままで良かったのに、あんたがヴァイオスを誘惑してサーシャに手を出さなければね!!」
家族だけでなく姉の事業者皆人質だったのかという驚き。母の首をはねることを幼い姉の前で脅したのかという事実を知り、湧き上がる感情をなんとか落ち着かせながら側妃を睨む。
心優しい姉の気持ちを踏みにじり、利用し、傷付けて。
許さない。
頭に浮かんだ文字はそれだった。
「あんたはここから出ることは出来ないから。死ぬまで、ね。私がサーシャを殺した分きちんと罪を裁くから。…可愛い息子の婚約者を失ったかわいそうな妃としてね。あんたの最後の住処を母親の実家に指名しただけ温情だと思いなさい」
そう言うとシーラの脇腹を扇で叩き。
意識を失うのを確認した後、数名の部下を残し邸を去って、生家に帰っていった。
*
怪我をしたシーラを邸の使用人達は手厚く看病してくれた。
側妃側の監視はシーラが邸を出ない様に門番や護衛などをしていた。
母の実家である子爵家。後目を継いだ母の弟は何度かシーラを姉さんと呼び関係を迫ってきた。その度に邸に長くいる使用人達はシーラを庇ってくれ、母が子爵家の養子だったこと。義理の弟が母に邪な感情を抱いている事を教えてくれた。
子爵も仕事が多い人物だったので度々邸を留守にし、使用人達がシーラを守る様に過ごす。
その時間が長ければ長いほど側妃側の人間は隙を見てシーラに囁き始める。
この優しい使用人達はシーラが逃げ出したら皆殺しなのだと。
逃げ出せるはずがなかった。
姉もきっと同じ様な状況に置かれていたのだと、彼らがシーラに接するたびに脳裏を横切る。
母の面影を追い、迫り来る雇用主にさえ抵抗してシーラを守ろうとする彼ら。
シーラはただ過ぎゆく時間を無気力に過ごす他、道はなかった。




