涙の数だけ強くなんてなれない ~トイレと一緒で我慢しすぎもよくないよ~
最近、年のせいなのか、何かの作品を見て涙を流すことが多くなった。
幼いころは何かを見て泣くのはごく稀なことだったが、成長するにつれ涙を流す機会が増え、今では簡単に泣いてしまっている自分がいる。
学生時代に東野圭吾原作の「手紙」の映画を友達と一緒に見に行って大号泣してしまい、あとから一緒にいるのが恥ずかしかったと言われたことがある。20代のころにはすでに、作品に感動して涙を流す体質になっていた。
人は感動して涙を流すと、ストレス物質を体外に放出するようにできているらしい。なので何かに感銘を受けて泣けば泣くほど、気持ちが軽くなるというわけだ。
感動した作品を楽しんだうえにストレスまで軽減されるなんて、メリットしかないじゃないか。
私は自分の書いた小説を読んで泣くことがある。それどころか、脳内で話を作っているときにも泣いたりする。自分で作った話に感動して涙するのもどうかと思うが、やはり感情が込められているので思いのほか心を動かされてしまうのだ。
そんな時にお気に入りの音楽を聴いたりすると、より一層泣ける。
空想の世界で泣いてばかりの私ではあるが、実生活では涙する機会はあまりない。辛くて泣くとか、苦しくて泣くとか、年を取るにつれその機会は減りつつある。
若いころの私は失敗を犯してよく泣いた。主に人間関係のことである。
友人と喧嘩したくらいでは泣いたりしないのだが、すれ違いから生じる誤解や、失敗の連続によって失われた信頼など、心を揺さぶるような出来事が続くとよく泣いていた。
友人たちはそんな私を突き放したりせず、最後まで付き合ってくれた。
彼らに助けられ何とか大人になれた私だが、失敗はなくならない。真面目に働いているつもりでもミスを犯してしまう。
単に私が無能なだけなのだが、周りの人々は優しく見守ってくれた。まだ君は若いから、これから努力し続ければ挽回できる。目上の人たちは暖かい言葉を投げかけてくれた。
そんな風に慰められると思わず泣いてしまう。一度や二度ではなく、何度もそんなことがあった。
私が涙した姿を見た人たちは、これ以上責めまいと厳しい言葉を飲み込んでくれたのだと思う。自分自身がある程度大人になることで、なんとなくそのことを理解した。
しかし、そんな今でも強くなれたとは思えない。泣いて反省したからと言って人の本質が変わるとは限らないのだ。
人が流す涙には、他者の心を動かす力がある。
一人で泣き叫ぶ子供を見たら周りの大人たちは心配する。大切な人が涙をこぼしていたら話を聞こうとすると思う。犬には泣いている人を見つけると傍に寄り添う習性があると聞く。
誰かが涙を流すとき、その涙にひかれて人々の注意が集まる。それは生物としての本能なのかもしれない。
しかし、いい大人が衆目をはばからず人前で泣き叫ぶのはちょっと無理がある。泣き落としなんて社会ではそう簡単に通用しないのだ。
だからこそ強く思う。涙を我慢してはいけないと。
クソみたいな副題ではあるが、私は実際にタイトル通りに思っている。涙を我慢するのはよくない。泣くことで得られるのは、何も他人からの同情だけではない。上にも書いてある通りストレス解消の効果があるのだ。
どうしようもなく辛い気分になったら、大好きな作品を見て泣くといい。好きな作品なら何度でも泣けるはずだ。泣いて、泣いて、泣きはらせばきっとスッキリする。
泣いたところで強くはなれないが、気持ちが晴れればそれでいいと思う。
明日もきっと弱く生きられる。