黒塗りの車と、冷徹な論理②
悔しかった。
反論したいことは山ほどある。
サクラコがどれだけ寂しい思いをしていたか。どれだけ俺達との生活を楽しんでいたか。
だが、彼らの圧倒的な「論理」と「社会的地位」、そして何より「親権」という壁の前に、俺の言葉はあまりにも無力だった。
「で、でも……サクラコちゃんはずっと一人で……寂しがってましたよ!」
沈黙を破ったのは、ほなみさんだった。
彼女は涙目で、それでも必死に訴えかけた。
「ご両親が帰ってこなくて、広い家で一人で……そんなの、子供にとって幸せなはずありません!」
「幸せ?」
神宮寺氏は鼻で笑った。
「衣食住は完璧に保証している。世界中のあらゆる知識にアクセスできる書庫も与えている。金銭的な不自由は何一つさせていない。これのどこが不幸なんだね?」
「そ、それは……」
「寂しさ? そんなものは一時の感情だ。非合理的な感傷に浸る時間があるなら、本の一冊でも読んで知識を蓄えるべきだ。私たちはそうやって生きてきたし、サクラコもそうあるべきだ」
話が通じない。
彼らは人間としての「感情」のパラメーターが欠落しているのか、あるいは意図的に切り捨てているのか。
「寂しいから一緒にいてほしい」という子供の当たり前の願いすら、「非合理的」の一言で片付けてしまう。
「……サクラコ」
俺は隣で俯いているサクラコに声をかけた。
彼女はずっと膝の上で拳を握りしめ、一度も顔を上げていない。
「お前は、どうしたい? 行きたくないなら、そう言っていいんだぞ」
俺の言葉に、神宮寺氏は呆れたようにため息をついた。
「喜多くん。君は誘拐犯として告発される一歩手前なんだよ? 本来なら警察を連れてきてもよかった。それを、我々の慈悲で話し合いにしているんだ。これ以上、娘を洗脳するのはやめたまえ」
「洗脳なんて……!」
「事実だろう。親の許可なく未成年者を連れ回し、自宅に住まわせ、あまつさえ世界中に動画を配信して見世物にした。……肖像権の侵害、未成年者略取。君の人生、ここで終わらせてもいいんだぞ?」
脅しではない。彼らなら、本当にそれを実行できるだけの力がある。
俺一人が社会的に抹殺されるだけならまだいい。だが、もしそうなればサクラコはどうなる? ほなみさんは?
俺は唇を噛み締めた。
高卒の元サラリーマン。貯金を切り崩して田舎暮らしをしている無職の男。
そんな俺が、世界的な学者相手に勝てる要素なんて、最初から何一つなかったのだ。
「……さぁ、サクラコ。行くよ」
母親が立ち上がり、サクラコの手を掴んだ。
その手は、愛情を持って引く手ではなく、荷物を掴むような無造作なものだった。
「……っ」
サクラコが小さく抵抗する。
だが、その抵抗はあまりにも弱々しかった。
彼女はずっと、この両親の背中を見て育ってきたのだ。その圧倒的な知識と権威に、憧れと同時に恐怖にも似た畏敬の念を抱いていたはずだ。
その両親に真正面から否定され、連れ戻されそうになっている今、彼女に拒絶する力は残っていないのかもしれない。
「待って……待ってください!」
俺は立ち上がり、二人の前に立ちはだかった。
土下座でもなんでもしてやる。ここでサクラコを渡したら、この子は一生、色のない世界で生きることになる。
「サクラコは、まだ準備が……心の準備ができてません! せめて、今日一晩だけでも……!」
「無駄だ。時間は有限なんだよ」
「お願いします! この通りです!」
俺は床に額を擦り付けた。
プライドなんてどうでもいい。
ただ、サクラコのあの笑顔を、こんな冷たい人達に奪われたくなかった。
「……しつこいな」
神宮寺氏が冷ややかな目で見下ろす。
その時だった。
「……やだ」
蚊の鳴くような、小さな声。
しかし、その場にいた全員の動きを止めるには十分な声だった。
「……サクラコ?」
「やだ……帰りたくない……っ!」
サクラコが、母親の手を振りほどいた。
その目には涙が溢れ、今まで見たこともないような強い意志が宿っていた。
「私は……スイスなんか行きたくない! もっとここで、孝文と、ほなみちゃんと、クロエたちと遊びたいの! 実験したいの! 美味しいご飯食べたいの!」
それは、天才少女としての論理的な反論ではなかった。
ただの子供の、我儘で、感情的で、けれど何よりも切実な「叫び」だった。
「……サクラコ、お前……」
神宮寺夫妻は、初めて表情を動かした。
それは怒りではなく、理解不能なものを見るような困惑の表情だった。
「……感情的だな。失望したよ」
父親のその一言が、決定打だった。
サクラコの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……パパとママは、本がいっぱいあれば幸せなんでしょ? でも私は違う! 本で読んだ世界より……孝文たちと見る世界の方が、ずっと綺麗で、色鮮やかだったんだもん!!」
その叫びは、静まり返った古民家に木霊した。
かつて「本だけが友達」だった少女が、自分の足で世界を歩き、自分の目で色を見つけた瞬間だった。
俺は立ち上がり、震えるサクラコを背に庇った。
もう、迷いはない。
社会的地位? 法律? 知ったことか。
目の前のこの小さな女の子が、初めて自分の意志で「ここにいたい」と言ったんだ。
それを守るのが、大人の……いや、「家族」の役目だろう。
「……聞きましたね、神宮寺さん。サクラコは、帰りたくないと言っています」
俺は真っ直ぐに、冷徹な瞳を持つ学者を見据えた。
「あなたの言う『効率』や『才能』がどれほど立派なものか知りませんが……今のサクラコに必要なのは、そんなものじゃない。帰ってこれる『家』と、笑い合える『家族』です!」
さぁ、全面戦争だ。
高卒の無職が、天才学者に喧嘩を売ってやる。
勝算なんてない。あるのは、この数ヶ月で築き上げた、泥臭くて温かい絆だけだ。
「……愚かな。感情論で未来が育つものか」
神宮寺氏は冷たく吐き捨て、懐からスマートフォンを取り出した。
おそらく、警察か弁護士への連絡だろう。
万事休す。
そう思った時、家の外から新たなエンジン音が聞こえてきた。
一台ではない。二台、三台……。
軽トラの乾いた排気音と、聞き覚えのあるバイクの重低音。
「……加勢に来たぞ、喜多ァ!!」
玄関の戸が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、作業着姿の猫村さんと、金ネックレスを光らせた松田さん。そして、その後ろには飯田さんや青央さん、さらにはてんちょーの姿まであった。
田舎のネットワークを舐めるなよ。
俺達の「スローライフ」は、一人きりの戦いじゃないんだ。
●あとがき
烏骨隊長「うぉぉ! 松田の兄貴、カッケェのである!」
クロエ「もどかしいわね……私も頭突くくらいなら出来るのに……」
作者「まぁまぁ、加勢も来たことだし……」
鷺ノ宮「なんで私いないのぉっ⁉︎」
作者「……」
鷺ノ宮「せめて何か言ってよぉ!」




