黒塗りの車と、冷徹な論理①
眠れなかった。
当たり前だ。あんなメールを受け取って、熟睡できるほど俺の神経は図太くない。
翌朝、俺は重たい頭を抱えながら起き出した。
隣の部屋からは、サクラコとほなみさんの楽しげな話し声が聞こえてくる。
どうやら二人はよく眠れたらしい。何も知らないのだから当然だが、その無邪気な声が、今の俺には酷く遠い世界の音のように聞こえた。
「孝文、おはよー! 今日は何するー?」
「おはようございます、孝文さん。顔色が優れないみたいですけど……大丈夫ですか?」
食卓に着くと、二人が心配そうに覗き込んでくる。
俺は無理やり口角を持ち上げ、いつもの調子を装った。
「あぁ、ちょっと夜更かししちまってな。動画のネタとか考えてたら、つい」
つい、身勝手にも嘘を吐いてしまう。口に出して分かったことだが、ちっとも気持ちは晴れない。……当然か。
「もう、無理しちゃダメですよ。今日はゆっくりしましょうか」
「そうだね。今日は……家で映画でも観るか」
外に出るのが怖かった。
いつ、誰が来るかわからない。あのメールの主が、本当に来るのかどうかもわからない。
ただの悪戯であってくれと願う気持ちと、文面に漂う冷徹な知性から感じる「これは本物だ」という確信が、俺の中でせめぎ合っていた。
午前中は、嵐の前の静けさのように穏やかに過ぎていった。
ほなみさんが入れてくれたハーブティーを飲み、サクラコが選んだコメディ映画を観る。
画面の中では俳優たちが大げさに転げ回っているが、俺の内容は全く頭に入ってこなかった。
視線は無意識のうちに、窓の外――家の前の道路へと向いてしまう。
そして、その時は突然やって来た。
午後二時過ぎ。
昼食を終え、サクラコがアリスと庭で遊び始めた頃だった。
静かな田舎の農道に、不釣り合いな低く重いエンジン音が響いてきた。
「……何の音だろう?」
ほなみさんが不思議そうに首をかしげる。
俺は弾かれたように立ち上がり、玄関へと走った。
嫌な予感がする。心臓が早鐘を打つ。
玄関の戸を開けると、そこには異様な光景があった。
泥と土にまみれた軽トラや軽自動車しか通らないこの道に、ピカピカに磨き上げられた漆黒の高級セダンが停まっていたのだ。
車種は詳しくないが、俺が乗っている中古車が何台買えるだろうかという威圧感を放っている。
「……来たのか」
運転席から降りてきたのは、黒いスーツを着た運転手らしき男。
彼が無言で後部座席のドアを開ける。
そこから現れたのは、一組の男女だった。
男は背が高く、銀縁の眼鏡をかけた知的な顔立ち。仕立ての良いジャケットをラフに着崩しているが、その身のこなしには隙がない。
女はショートカットで、目元のキリッとした美人だ。サクラコによく似ているが、その瞳にはサクラコのような温かみはなく、どこまでも冷たく澄んでいた。
間違いない。この二人が、サクラコの両親だ。
「……ここか。久々だがまた、随分と辺鄙な場所だ」
男が周囲を見渡して、短く呟いた。
軽蔑の色はない。ただ事実を述べただけ、というようなフラットな口調が、かえって俺を畏縮させた。
「パパ……? ママ……?」
庭で遊んでいたサクラコが、ボールを落として呆然と立ち尽くしている。
その声を聞いて、二人はようやくサクラコの方を向いた。
感動の再会、涙の抱擁――そんなものは微塵もなかった。
「あぁ、そこにいたか。サクラコ、その薄汚れた服はどうしたんだ?」
「髪も伸び放題じゃないか。合理的じゃないな」
二人はサクラコに近づくことさえせず、遠くから品定めするようにそう言った。
俺は慌ててサンダルを履き、庭へと飛び出した。サクラコを庇うように、二人の前に立ちはだかる。
「……初めまして。あなたがたが、サクラコのご両親ですか」
俺の声は、情けないほど震えていた。庇うようにサクラコの前に出した手も、指先が細かく震えてしまう。
男は眼鏡の位置を直しながら、俺を上から下まで値踏みするように見下ろした。
「君が喜多孝文くんか。動画の男だね」
「……はい」
「私は神宮寺。こちらは妻だ。君に送ったメールの通り、娘を引き取りに来た」
神宮寺。やはり、あの著名な考古学者だ。
テレビや雑誌で見たことがある。数々の歴史的発見をし、世界中の大学で講義をしているという天才。
「引き取りに来たって……いきなり過ぎませんか。サクラコは、あなた達が帰ってこないから……!」
「立ち話もなんだ。中に入らせてもらおうか。君も、冷静に話がしたいだろう?」
神宮寺氏は俺の抗議をさらりと受け流し、まるで自分の家かのように玄関へと歩き出した。
妻の方も、サクラコに一瞥もくれず、夫の後に続く。
俺は拳を握りしめ、サクラコの肩を抱いた。
サクラコは小刻みに震えていた。
「大丈夫だ。俺がついている」
そう言い聞かせることしかできなかった。
ほなみさんも青ざめた顔でアリスを抱きかかえ、俺達に寄り添ってくれた。
◇
居間のテーブルを挟んで、俺達は対峙した。
神宮寺夫妻は出されたお茶に口をつけることもなく、淡々と切り出した。
「単刀直入に言おう。サクラコを連れて帰る。そして来週にはスイスの全寮制学校へ入学させる手続きが済んでいる」
「スイス……!?」
俺は思わず声を上げた。
隣でサクラコが息を飲むのが分かった。
「待ってください! サクラコはまだ小学生ですよ!? いきなり海外なんて……それに本人の気持ちは!?」
「本人の気持ち?」
神宮寺氏は、まるで面白い冗談を聞いたかのように薄く笑った。
「喜多くん。君はサクラコのIQを知っているかね?」
「え……い、いえ……」
「測定不能だよ。既存のテストでは測れないほど高い。彼女の脳は、人類の宝と言ってもいい。そんな稀有な才能を、こんな田舎の公立小学校で腐らせるなんて、損失以外の何物でもない」
彼はテーブルの上に一枚のパンフレットを置いた。
英語で書かれたそれは、見るからにハイレベルな教育機関のものだとわかった。
「この学校なら、彼女の知的好奇心を満たせるカリキュラムがある。世界中から集まったギフテッドたちと切磋琢磨できる。彼女にとって、これ以上の環境はない」
「それは……あなたがたの考えですよね。サクラコは、ここで友達と遊んだり、動物と触れ合ったりすることを望んでいるんです!」
俺の反論に、今度は妻の方が口を開いた。
彼女の声は、夫以上に冷ややかだった。
「動物? あの不衛生なヤギや鶏のこと? あんなもの、病原菌の温床じゃない。サクラコの健康を考えたら、即刻処分すべき対象よ」
「処分って……!」
「それに、友達って誰のこと? この限界集落に、彼女と対等に会話できる人間がいるとでも?」
彼女の視線が、俺とほなみさんを射抜く。
「君たちのような凡人が、娘の友達になれるとでも思っているの?」と言外に告げられているようで、俺は言葉に詰まった。
「サクラコはね、私たちとは違うの。彼女の頭脳は、次の世代の研究を担うためにあるのよ。それを、あなた達のような人間が『ごっこ遊び』で汚さないでちょうだい」
●あとがき
作者「おっと、これは……」
クロエ「……あいつ、頭突きどころじゃ済まさないわ……」
烏骨隊長「処分、だと……? 黙って聞いていれば……」
作者「わぁ、完全に地雷踏んじゃったねぇ」
烏骨隊長「ギッタンギッタンの、ケッチョンケチョンにしてやるのである!」
作者「……キミ、怒ると語彙がアホになるのね……さて、あとがきは鷺ノ宮先生に落ち着かせていただきましょうか」
鷺ノ宮「えっ⁉︎ ここで私に振るのはダメだってぇ! ねぇー!」
クロエ、烏骨隊長「「こいつを見てると、短絡的な自分が遅化に見えてくるわね」であるな……」
鷺ノ宮「酷すぎないっ⁉︎ ねぇっ!」




