怪72
「ふわ~あ。もう寝ようかなぁ」
男爵家の自室で、メルティはベッドの上でごろごろしていた。
「お父様ってば、こんな夜中に急に仕事で出て行くなんて……本当に仕事かしら? まさか、愛人とか?」
父親に無用な濡れ衣を着せつつ、メルティは身を起こしてベッドサイドの窓から夜空を見た。
「お父様は仕事人間だもんねぇ、昔っから。最近は特に忙しそうだし」
幼い頃から多忙で家族を顧みない父を見ていたせいだろうか、メルティは有能な男が苦手だ。結婚するなら、多少は抜けている方がい。
「アメリアみたいな才女と一緒にいてもクラウスは幸せになれないわよ。クラウスにお似合いなのは私。アメリアはユリアンと一緒にいればいいじゃない」
『ドッペルゲンガー』は本物とまったく同じ存在が別の場所に現れる怪現象だ。本物が知らないことは『ドッペルゲンガー』も知らない。
つまり、茶会で『ドッペルゲンガー』が口にしたことは、本物のメルティも考えていることだ。本物のメルティが口に出さずにいることを、『ドッペルゲンガー』は口に出してしまうだけ。本物のメルティもユリアンとアメリアの間の複雑な感情に気づいていた。恐るべし恋愛脳。
「はー。公爵家のドロドロとか興味ないし」
メルティはベッドの上にごろんと仰向けになった。
目を閉じると、学園に入学したばかりのある日の光景が蘇った。
中庭で強い風に吹かれて、髪を結んでいたリボンがほどけて飛ばされ、木にひっかかってしまった。
『どうしよう。お父様に買ってもらったのに』
学園の入学祝いに買ってもらったばかりのリボンだった。諦めるつもりは欠片もなくて、メルティは木に登ろうと決意した。
その時、
『おい、そこの女生徒。俺が取ってやろうか』
軽く声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのはこの国の王太子殿下だった。
『えっ? いや、そんな、王太子殿下にそんな』
『任せろ! 俺がすぐに取ってやるからな!』
慌てるメルティに構わず、王太子クラウスは意気揚々と木に手をかけた。
木に手をかけ、足に力を込め、そしてーーずるずるーっと落ちてきた。
『くっ、このっ……』
再度、木に手をかけ登ろうとするが、足を地面から離した途端にずるずると落ちてきてしまう。明らかに、木に登れない人間の姿だった。
『殿下、もう結構です。お召し物がぐちゃぐちゃになっちゃいます』
『ふっ、なあに、もうちょっとで登れるさ』
何故か自信満々なまま何度もずり落ちるクラウスを見て、メルティはハラハラした。
結局、クラウスは木に登れず、通りかかったショーンがリボンを取ってくれたのだ。
でも、メルティにとっては、軽々と木に登ってあっさりリボンを取ってくれたショーンよりも、木に取り縋ってはずり落ちて、制服をぐちゃぐちゃにしただけのクラウスの方が鮮やかに記憶に残った。
非力で情けなくて、少しも格好良くもなければ立派でもない。
貴族の間では、王太子は無能だと馬鹿にされていた。
『陛下は無気力で、殿下は無能だ』
『若い頃の陛下は利発な方だったのに、ある時から急に無気力になられて』
『アーバンフォークロア公爵の思いのままだ。娘を嫁がせて、殿下を傀儡にするつもりだろう』
『アメリア嬢は才女だが父親のいいなりだ。無能な殿下と公爵の人形。この国の未来は暗いな』
メルティはむかっ腹が立った。未来が暗いと思うなら、自分が暗雲の一つでも晴らそうとしてみればいいのに。
だからメルティは行動した。クラウスの未来を少しでも明るく出来るように。
ベッドに寝転がったまま、メルティはふっと微笑んだ。
このまま寝てしまおうかと思ったが、廊下でパタパタと軽い音がするのに気づいて身を起こした。
パタ パタ と、何か小さく軽いものが動く音がする。
メルティは眉をひそめつつ、ベッドから降りて部屋の扉をそっと開けて廊下を見た。
パタ パタ パタ……と、足音を立てて廊下を歩いてくる小さな動物が見えた。
小さな動物ーー犬が顔を上げた。
目が合った。
メルティが動けずにいると、犬は「けっ」とでも言いたげに顔を歪めて言った。
「何、見てんだよ」




