怪43
クラウスが食堂から出て行ったことに気付かずに、アメリアは花子から聞かされた『紫鏡』の恐ろしさに奥歯を噛みしめた。
「ハンナ様。このことは他の方には知らせないようにしましょう。いたずらに恐怖をまき散らすことになります」
「え、ええ……」
ハンナはこくこくと頷いた。
「そろそろ食堂から出なければいけない時間ですわね。明日、またお話しましょう……何しているの? ユリアン」
帰るために席を立ったアメリアは、やたらと低い位置にある夕日色に気付いて声を掛けた。
「姉上、奇遇ですね」
「そうね」
アメリアに発見されたユリアンはすくっと立ち上がって「ふっ」と格好付けたが、長時間屈み込んでいたために腰がぐきっとなって直立は出来なかった。
「ところで姉上。いったい何を話し込んでいたのです?」
先ほど、クラウスが真っ青な顔でふらふらと食堂を出て行った。ユリアンは声が聞こえるほど近くまでは寄っていなかったので、クラウスが何を耳にしてあんなに青ざめていたのか気になった。
ユリアンの質問に、アメリアは顔を強ばらせた。
「……あなたが知ってはいけないことよ」
ユリアンはぴくりと眉を動かした。
「へえ? 姉上は知っているのに、ですか?」
(なにー? 知ってはいけないことってーっ? なんで教えてくれないんですかー!)
平静を装っているが、内心はだだっ子ユリアンである。
「何か企んでるんじゃないでしょうね?」
(心配だー。何か危ないことしようとしてるんじゃないか? 僕のアメリア!)
「わたくしだけならともかく、ハンナ様と花子さんに失礼よ。黙りなさい。……行きましょう、お二人とも」
アメリアはユリアンの横を通り過ぎて、振り向くことなく食堂から出て行った。
ユリアンは、追わなかった。追えなかった。
(腰痛ぇーっ!!)
箱入りの貴族の坊ちゃんは普段低い姿勢で移動したりしないので、腰へのダメージが思いの外に大きかったのだ。
メルティ・ペレディルは悩んでいた。
公爵令嬢を陥れて婚約破棄させるまでは上手くいったし、クラウスとは仲良くできている。だけど、仲間のはずだったユリアンとショーンがいきなり冷たくなってしまった。
「アメリアの奴も平然と学園に通ってきているし、変な事件に巻き込まれるし、何故か時々トイレットペーパーが飛んでくるし。なんか上手くいっていない気がする……」
予定では、皆からもっと祝福されてクラウスときゃっきゃうふふの学園生活を送り、ユリアンとクラウスはキラッと笑って「ちきしょう!見せつけんな!」「幸せんなれよ!」と温かい言葉をくれて、敗北を受け入れた悪役令嬢が「悔しいけどお似合いの二人だわ! クラウスをよろしくね!」と叫んで夕焼けの河原で仲直りする、みたいなのを想像していたのだが。
「あたしの青春のバイブル『夕焼けメランコリー』ではそういう展開だったんだけどなぁ」
メルティは幼い頃から何度も読み返した恋愛小説を思い浮かべた。『夕焼けメランコリー』では最終的にヒロインと悪役令嬢が魔王にさらわれた王太子を救うために七色の光の剣を探しに共に旅立ち、苦難の末に王太子を助け出すのだが、いまのところ王太子がさらわれる気配も魔王が復活する気配もない。あってたまるか。
「ふう……」
メルティが溜め息を吐いた時、教室の扉が開いて、壁にとりすがるようにしてクラウスが入ってきた。
「クラウス!?」
「メ……メルティ……」
真っ青な顔でふらふらと力なく歩いたクラウスは、力尽きたようにガクリと膝を突いた。
「どうしたの!?」
「メルティ……俺は、俺は……っ」
クラウスは力なく床に沈んだまま、震える声で言った。
「俺は……っ、もう駄目だっ」
「クラウスっ!?」
メルティはクラウスの隣に屈み込んで顔を覗き込んだ。
「何があったの!?」
「俺は……呪われてしまった……呪いの言葉が俺の心を殺し、じわじわとこの身を滅ぼしていくんだ……ああ、恐ろしい……俺に残された時間はもうあと僅かだ……」
「クラウス!!」
何かを恐れ憔悴しているクラウスに、メルティははっと気付いた。
(これはまさか……『夕焼けメランコリー』第八巻の漆黒の呪術師との戦いが始まったということ!?)
漆黒の呪術師は王太子に呪いを掛け、それをヒロインが愛の力で解くのである。
「大丈夫よクラウス! 私があなたを助けるから!」
「メルティ……っ!」
「えーっと確か、漆黒の呪術師の呪いを解くためには、かつて呪術師を封じた紫紺の魔導士から教わった呪文を唱えるのよ! ムーラーシャックィークェガゥムゥイー ムーラーシャックィークェガゥムゥイー ムーラーサックィークェガムゥイー ムーラーサックィークェガムイー ムーラーサッキーカァガミイー」
「ぐああああっ!」
クラウスが頭と耳を押さえてのたうつ。
呪いによって苦しむクラウスのために、メルティは懸命に呪文を唱え続けた。




