僕は可哀想な人間
世界は青というよりは黄色だ。それもナゲットにつけるマスタードみたいな、濃ゆくて、少しだけ黒みがかった、黄色。
夜更け過ぎ、新宿から少し離れた国道沿いを歩きながら僕はそう考える。空にはあばた面の満月が浮かんでいて、深い藍色の夜空との境目は、水で薄めたレモネードのような色でぼやけていた。車の数はまばらで、時折法定速度違反のスピードで僕の横を駆け抜けていく。もちろん深夜だから人も少ない。だけど、気を抜いた瞬間にひょっこりと姿を現すので、僕はそういう人たちと目を合わせないよう、帽子を目深に被り、うつむきながら歩いてく。交差点の赤信号が灯る。うつむいた体勢のまま僕は立ち止まる。ふと、履きつぶしたスニーカーの靴先に、どこでついたのかわからない土がこびりついているのに気がつく。僕は少しだけ嫌な気持ちになりながら、もう片方の靴の踵部分で、それを器用に剥ぎ落とし始める。
眠れない時、僕はこんな風に人の少ない夜中に散歩をする。昼間は人が多すぎる。深呼吸をすると、雑踏で舞い上がったホコリを胸いっぱいに吸い込んでしまうし、どこからともなく聞こえてくる話し声は、ひょっとして僕のことを喋ってるんじゃないかと気がそぞろになってしまう。だから僕は夜に散歩をするのが好きだ。愛してると言っていい。赤信号が青に変わる。僕は歩き出す。スニーカーの先についた汚れは、結局全部は取り切れなかった。
僕は孤独だ。湿った夜風を感じながら僕はそんなことを考える。例えるなら、僕以外の七十億人の人間が入っているLINEのグループラインがあって、それに僕だけが入っていないという感じ。だけど、僕は世界に七十億人もの人間がいるだなんて思っていない。東京に一千万人以上住んでいるというのも、よくあるマスコミの捏造だと僕はにらんでる。もし仮に、そんなにたくさん人がいるのなら、一人くらい僕のことを心から気にかけてくれる人がいてもいいはずだ。だけど、そんな人は一人もいない。だから、みんなが考えているより、この世界に住む人はもっと少ないんじゃないかと思う。
高速道路の高架下、ハエがたかった浮浪者がダンボールの上に横になっていた。すれ違う時、僕は固く握られた彼の右手に視線を向ける。彼の右手には、くしゃくしゃになったポルノ雑誌が握られていた。安い印刷紙できた表紙に、女性の裸の写真が載っている。浮浪者は寝息を立てながら眠り、強く強くそれを握りしめていた。僕は歩き続ける。汚れたままの靴先を見つめたまま。
今日みたいな寂しい夜には、十年前の初恋のことを思い出す。僕はまだ小学生で、同じクラスの女の子に恋をしていた。その子は肩までかかったおさげをしていて、下唇は乾燥した冬の間もずっと薄く濡れていた。僕は今と同じように自分の気持ちを言葉にすることが苦手で、もごもごと油粘土を口に入れたままのような感じでしか喋ることができなかった。だから、僕は胸に淡い恋心を打ち明けることもできず、何も言わず、ただただ彼女の後ろをついていくということしかできなかった。でも、僕はそれだけで幸せだった。彼女とお喋りができたらもっと楽しいのかもしれないけど、ただ黙って彼女の後ろを歩き、時折風に運ばれてくる彼女の髪の匂いをかぐだけで、僕は指先がしびれるほどの多幸感に満たされた。休み時間、下校時間、僕は何も言わず、ただただ彼女の後ろをついていった。後ろを歩いているとき、僕はずっと、彼女のおさげの分かれ目部分の生え際をじっと見て、そこから生えている細い髪の毛を一本一本数えるのが好きだった。きっと人を好きになるということは、その人の髪の生え際まで好きになることなんだって僕は信じていた。その考えは今だって変わっていない。
だけど、僕の初恋はあっけなく終わった。ある日、彼女の三つ上の双子の兄から体育館裏に呼び出され、狭くて土が年中湿っている雑木林で、身体中があざだらけになるほど殴られ続けた。気持ち悪いんだよ。二人は笑いながら、僕を殴ったり蹴ったり髪を掴んで振り回したりした。帰り際、双子の兄は僕から脱がしたズボンとパンツを奪って去っていった。二人が立ち去った後、僕は下半身を露出したまま家に帰った。あの日に取られてしまったパンツとズボンは、まだ返してもらっていない。
僕は可哀想な人間だ。つくづくそう思う。僕は誰かに暴言を吐いたり、手でひっぱたいたりなんてことは絶対にしない。それに、頭だって良い。この前買った知能クイズを解いてみたら、僕のIQが130もあるこがわかった。IQが130ということはつまり、五十人の人間を集めたら、僕はその中で一番頭がいいということ。僕は優しくて、頭がいい。それなのに、みんな僕のことを気持ち悪いと言うし、僕のことを表立って罵倒を浴びせかけてくる人もいる。何一つ悪いことはしていないのに、こんなひどい目に合っているなんて、僕はなんて可哀想な人間なんだろう。何度だって言う。僕は可哀想な人間だ。本当に、本当に。
下着姿で徘徊する老人とすれ違う。老人の剥き出しになった右肩には世界地図のような模様の茶色い染みができていた。くたびれたシャツのボタンがほつれていることに気がつく。僕はそれが気になって駄目だとわかりながらも指先で触ってしまう。線路沿いに投げ捨てられたゴミ。割れた瓶に、人の手の形に凹んだ空き缶。くぼみにすっぽりと収まっているペットボトルの底には、茶色く濁った液体が沈んでいる。照明がチカチカと明滅している薄暗いトンネルへ入る。壁には色とりどりのスプレーで落書きがされてあった。その中の一つ。女性のような丸みを帯びた文字で、デカデカとこう書かれていた。
『Whip Me!』
工場で派遣の仕事をしていたとき、社員の一人がプレス機に全身を巻き込まれて死んでしまうという事故が起きた。工場はストップし、僕たち派遣は解雇を言い渡された。工場の責任者の首が飛び、会社が傾き、沢山の人間がひどい目に合った。だけど、一番重要なことはそこじゃない。大事なことは、誰一人として巻き込まれて死んでしまった人の死を心から悲しんだ人がいなかったということ。もし彼が、仕事がバリバリできて、人懐っこくて、誰とでも友達になるような人間だったら別だったのだろう。だけど、実際の彼は仕事ができなくて、休憩時間はいつも喫煙室の隅っこで誰とも喋らずにスマートフォンを弄っているような人間だった。僕はこう思う。命の重さに違いはないけど、命の上に乗っかったその人の人となりによって、その人が死んだときにどれだけの人間がその死を悲しんでくれるのかが残酷なほどに変わってくる。僕は自分の爪のささくれを見る。死ぬのは怖い。痛いからとか、苦しいのが嫌だというわけではない。怖いのは、誰からも愛されない人生だったと思いながら、少しづつまぶたが重くなっていく、その瞬間だ。
交差点の信号が赤に変わり、僕は再び立ち止まる。信号の赤いランプに照らされて、僕の靴先の汚れが目立って見える。時刻は夜の二時。世界中の人たちが愛し合っているというのに、どうしても僕は誰とも愛し合えず、こうして自分の汚れた靴先を見て、惨めな気持ちにならなきゃいけないんだろう。
派遣の仕事で思い出したけど、その時同じ職場の人から、Wifiは人間の細胞を量子レベルで無茶苦茶にするとんでもない電波であることを聞いた。でも、それが国民に知れ渡るとお金儲けができなくなるから、企業からお金をもらってるマスコミが国民を騙すため、情報操作をして真実を隠しているらしい。無精髭が伸びたその人は、真剣な表情でそう僕に説明してくれた。彼が指の股を広げて自分の髪を梳くと、彼の髪の毛からは掃除していないエアコンの匂いがした。
僕は賢い人間だからわかる。きっと彼の言う通り、Wifiは人体に有害なんだと思う。きっと、僕の奥歯がチョコみたいに真っ黒になった状態で抜け落ちたのも、きっとWifiのせいなんだと思う。賢い人間がそうであるように、僕はマスコミを信じない。高い給料をもらって、ふんぞり返ってるホワイトカラーの言うことに、耳を傾けるだけの価値があるとは到底思えないからだ。
僕は夜の街を歩き続ける。僕は可哀想な人間だし、そこらへんで騒いでいる連中と比べればずっとずっと優しくて、常識のある人間だと思う。僕に恋人ができたら、うんと愛してあげるのに、とよく思う。だけど、僕に恋人ができたことはないし、綺麗な女の人達は、僕よりもずっと低俗で下品な男の人と付き合っている。僕は悲しい。こんなに優しくて、相手のことをずっと大事にするような人間が、誰からも愛されずにいるというその事実が。
スナックの看板に灯るネオンの光が、アトピーでぼろぼろになった僕の肌を照らし、淡い紫色の影を落とす。疲れて、眠くなってきたから、そろそろ家に帰ろう。僕は交差点を引き返し、自宅がある方角へと進路を変える。あたりには誰もいなくて、静かだ。そして、僕は孤独で、どうしようもなく可哀想だった。
僕は行きと同じ姿勢のまま歩き、そして願う。いつか、それもできる限り早いうちに、僕のことを可哀想に思った誰かが僕の存在に気が付き、ギュッと強く抱きしめてくれることを。その日が来てくれたらきっと、この世界の色も、少しはまともな色になるんだと思う。きっと。