第三章 唐人笠と銀煙管②
殿様と思しき人物は、白練りの装束に前帯をゆるく結び、羽織袴も身に付けず、頭には鼈甲でできた唐人笠、手には二間もある銀煙管を持っている。
その爪は黒く塗られていて、顔には薄く化粧が施されている。
美男子ではあるが、一見すると女性のようにも見えるほどの妖しさである。
そして駕籠ではなく、十牛図の童子の如く、巨大な白牛に跨っているのである。
供には緋縮緬をくくり染にした装束に、紅色頭巾を被せ、ある者は日傘を持ち、ある者は提灯を手に掲げていて、さながら吉原の道中行列のようでもある。
市民はその煌びやかな姿を羨望の眼差しで眺めているのである。
行列はゆっくりゆっくりと近づいてきて、殿様が兵助たちの前を通り過ぎようとした。
兵助も呆気にとられて、ぼんやりと佇立していた。
とその時、不意に何かが、ポロリと、兵助の身から零れ落ちた。
「あっ──!」
兵助は反射的にそれを拾おうとして身を乗り出した。
意図せずに行列の前を横切る形となった。
すると大名行列の一行は、一斉に急停止して、
「貴様!お殿様の前を横切るとは何事だ!」
先導する侍の一人が大喝した。
「も、申し訳ございません!」
さすがに拙いことをしたと、兵助は低頭して詫びたが、侍は収まらず、怒りの色を面貌に溢れさせている。
見物の民衆も何事かと騒ぎ始めた。
やがて脇から重臣と思われる人物が現れると、先導の侍を制して言った。
「その方が不敬なる行い、手討ちにされても文句は言えん。覚悟はよいな?」
重臣の手はゆっくりと刀の柄に懸かった。
それから憎たらしい顔を歪めて嗤う。
兵助はもう一度詫びたが、その眼の色は冷酷なままで、兵助を斬ることに少しも迷いはなさそうに見える。
その表情に、兵助は無性に腹が立った。
「こんな野郎に斬られてたまるか!」と思って、行列の足元を潜り抜けて逃げようとしたその瞬間、牛の上の殿様が、
「織部、その辺で許してやれ。予はこれくらいで立腹するほど小さき器ではないぞ。それよりも、その方が今落としたものは何じゃ?」
女性のような見た目とは裏腹に、意外にも落ち着き払った低い声だった。
その牛上の殿様は、兵助に向かって手を差し出した。
どうやら落としたものを寄越せという意味らしい。
兵助は恐る恐る掌中にあるものを手渡した。
それは、将棋の王将駒であった。
兵助は瓢箪を水筒としてこの旅に携行していた。
その瓢箪に、根付として王将駒を括り付けていたのである。
それが何かの拍子に外れてしまい、大名行列の前に落っこちたのだった。
殿様は手渡された駒をしげしげと眺めて、
「ふふふ。予の前に王将が落ちて来たか…。これはなかなか縁起がいいの。吉兆じゃ」
誰に向かって言うでもなく呟いた後、その駒を己が懐へしまって、代わりに銀貨を取り出すと、兵助の前へ無造作に放った。
そして、呆気に取られている兵助たちを残して、行列はそのまま何事もなかったかのようにどこかへ去ってしまったのである。
「いってえ何もんでえ、あの派手な殿様は?」
行列が過ぎ去ってから、清三郎が思わず呟いた。
兵助も内心で同じことを思っていた。
この時代、果たしてあのような殿様が存在していいものなのか。
新兵衛は、僅かに顔を引き攣らせて、
「————あれが尾張中将様でございます…」
消え入りそうなほど低い声で呻いた。