第三章 唐人笠と銀煙管①
兵助一行が浜松宿に付いた時のこと、些細ではあるが、ある不可解な出来事があった。
浜松宿は実距離に於いて江戸と京の丁度中間にあたり、旅も漸く半ばまで来たことを示す里程標となるべき場所である。
浜松城下にある当宿場は、その旅籠の数も百に迫るほどで、東海道有数の大きな町であった。
浜松の一つ前である見付宿からは四里七丁、次の舞坂までは二里三十丁の距離がある。
もう昼を過ぎている時間帯だったから、兵助と清三郎は当然浜松に宿を取るものと思っていた。
二人が当地の名物である鯉鮒料理を食べる想像を膨らませていると、新兵衛はそれを制するように厳しい顔をして、次の舞坂まで行くという。
「新兵衛さん浜松で休んで行こうよ。おれもうくたぶれちまったよ」
「兵助さんもう少し頑張ってください。ここに留まるのはあまりよろしくないんです」
兵助は足を引きずって疲れ切った様子にも関わらず、新兵衛は視線を遠くに向けたまま急ぎ足に歩き続ける。
「よろしくないってどういうことだい?大きくていい町じゃないか。ここならいい宿がたくさんありそうだ」
「詳しいことは申し上げられないのですが…。実は手前の商売敵がここに居りまして、余計な詮議を受ける恐れがあるのでございます。私としてはそのような面倒は避けたく、あまり高い声で話すのもお控えくださいますようお願いいたします。ささ、なるべく目立たぬようここを抜けましょう」
尋常ではない警戒のしようで、その姿はどう見ても奇異に映る。
だが何事か問いかけようにも、声を出すのを制されてそれも叶わない。
「明日新居の宿で名物の鰻をたらふくいただきましょう。今日のところは舞坂まで、どうか辛抱願います」
金主でもある新兵衛が余りに強く言うものだから、兵助たちは渋々ながら承服せざるを得ない。
新兵衛は笠を目深に被り、顔を隠すように街道を急ぎ足で抜けていった。
それを追うように兵助たちも歩いたが、確かに、誰かに見られているような、そんな気配がしてならなかった。
浜松を過ぎてからは、至って順調に旅程は進み、難なく尾張国宮宿までやって来た。
宮とは熱田宮の略訓であり、宮宿から次の桑名へ行くには、東海道唯一の海路である「七里の渡し」を利用しなければならない。
七里もの距離を船で行くには当然危険が伴い、天候の悪化による海難事故が度々発生する難所であるから、東海道を往く旅人やお伊勢参りに向かう旅人は、ここで暫く足止めされてしまうことが多かった。
それゆえ渡しの終着駅である宮宿と桑名宿には投宿する旅人が多く、どちらも大層な賑わいを見せていたという。
兵助たちもその宮宿の繁盛を目にして、自然と心躍る。
だが着いたのは昼前で、船便はまだ利用できる時間帯であった。宮宿の賑わいを素通りして行くのは多少心残りではあったものの、兵助と清三郎は、桑名の蛤と深川の蛤ではどちらが美味いだろうか、などと言い合って、既に気持ちは次の宿場へと向かっていた。
併し、新兵衛はここでも予想外のことを口にした。
「一度名古屋へ寄ってから行きませんか。あそこも大層な賑わいだと聞いております。きっと清三郎さんも満足することでしょう」
何やら含みのある言い方ではあるが、兵助たちは別に先を急ぐ旅ではないので、名古屋城下を見物できるのであればそれを拒む理由はない。
宮宿から名古屋までは一里半ほどの距離で、遠いというほどではない。
だが名古屋に寄ってしまえば当日中に桑名へ渡ることはできない。
新兵衛の口振りでは、名古屋に何日か滞在してもいいと思っているらしい。
名古屋市中は、新兵衛の言う通り大変な賑わいであった。
丁度この頃、三井越後屋が城下に支店を出したばかりで、経済は上り調子。
人口も江戸京坂に次ぐ七万人を超えていたという。
金の鯱を頂いた名古屋城の天守は、目を瞠るほどの荘厳さであり、江戸城の天守を見たことがない兵助と清三郎にとって、この天を衝くような高層建築は、徳川家の威光を改めて肌で感じさせるものであった。
市内の至る所には芝居小屋が立ち並び、贅を尽くした遊女屋も軒を連ねている。
そこかしこの町家からは、昼間だというのに、小唄が三味線の音に乗って聴こえてきた。
それらを眺めながら、三人が町中を闊歩していると、俄かに路上が騒がしくなってきた。
どうやらどこかの殿様一行が、寺社参詣の帰路で通りがかるらしい。
御三家筆頭の尾張六十二万石ともあれば、陪臣とは言え御附家老は万石の格がある。
その他三河以来の譜代家臣たちであれば千石は下らない。
さぞかし立派な武者行列が、寺社参詣の折に市中を行くことも頻繁にあったに違いない。
兵助たちもその姿を一目見ようと、道の端に立って行列を待った。
兵助は、殿様は黒塗惣網代棒の大名駕籠の中にいるものと、当然思い込んでいる。
どこの道中で見かける殿様も、そのようにしているからだ。
だからこの度も、大名駕籠が近づいて来るのをのを緊張して待ちわびていた。
だが待てど暮らせど駕籠はやってこない。
その代わり、眼を疑うような異形の集団が、行列を成してやって来たのである。