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第十八章 黒幕②

 事の発端は遥か以前にさかのぼる。


 六代将軍徳川家宣は、その死を前にして、将軍職を尾張徳川家当主徳川吉通に譲ろうと考えていた。

 自身の嗣子ししである鍋松が、将軍職に就くには未だ幼なすぎたためである。


 その時吉通は二十四歳。

 国許では英君と称えられ、末弟である幼き日の宗春のこともよく目に懸けていたという。

 家宣は、吉通に将軍職を譲り、鍋松の後見も吉通に任せると決めていたほど、その評価は高かった。


 併し、家宣の側近である新井白石と間部詮房の諫止かんしによって、吉通が将軍職を継ぐ芽は摘まれてしまう。

 その理由は、尾張から新たに将軍を迎え入れることになると、尾張から随行して来た家臣と旧来の幕臣との間に軋轢あつれきが生じ、諸大名を巻き込んでの天下擾乱(じょうらん)になりかねないからというものであった。


 結局鍋松が徳川家継として将軍職を継いだものの、僅か八歳でその家継も卒してしまった。

 その在位は僅かに三年ほどであった。


 今度こそ次期将軍として吉通に白羽の矢が立つと思いきや、実は家継薨去(こうきょ)に先立って、吉通も僅か二十五歳でこの世を去っていたのである。

 その死に様は、食後急に吐血をして悶死したとされている。

 当時から、将軍職を争う紀州からの暗殺にあったのではないかともまことしやかに言われていたが、その真実は明らかになっていない。

 だが吉通の不審死は、弟の宗春には強く心に刻まれ、紀州に対する不信感を根強くする原因となっていた。


 家継が幼くして没して、徳川宗家の血筋が絶えたのであれば、御三家の中から次期将軍を選ばざるを得ない。

 期待されていた吉通がいないとしても、まだ尾張には候補となるべき人物がいた。

 実は尾張家中では、吉通の弟で宗春の兄である徳川継友が将軍職を継ぐものと目されていた。

 徳川宗家への血筋が一番近かったのが、尾張徳川家だったからである。


 だが幕府は、尾張徳川家に何の相談もなく、紀州出身の吉宗を八代将軍として立ててしまった。

 それには一応の理由があって、尾張家は藩祖義直の遺志を継いで、代々尊王思想が強く、将軍職には相応しくないと幕臣たちから見られていたからであった。

 だから尾張からは、徳川時代を通して一人も将軍は出ていない。


 併し、尾張家中ではその様な裏の事情など知る由もない。

 紀州家と大奥が結託をして、尾張家をおとしめ、吉宗を将軍職へと担ぎ上げたと思っている。

 それ以来、尾張と紀伊には深刻な溝ができてしまった。

 そして今は、尾張と将軍家との対立構造へと変化しているのである。


 宗春は、吉宗主導の緊縮政策に反して、独自の規制緩和路線を取っている。

 人々は、尾張家の吉宗に対する反発の意思から、そのような政策が行われていると信じて疑わなかった。

 政治経済に限らずあらゆる面で、尾張は将軍家の鼻を明かしてやろうと目論んでいたのである。


 囲碁家に尾張徳川家がついていると分かった以上、この将棋は、将軍家と尾張徳川家との権力争いに利用されている。

 もし将棋家が負け越すようなことがあれば、将軍家に人なしとしてのそしりは免れない。

 恐らく吉宗は、囲碁家将棋家の席次争いに乗じて、宗春が何か怪しげな動きをしていることに気づいていたのだろう。

 だがこのことは、老中信祝も、寺社奉行忠相も、御庭番新兵衛も知らなかった。

 ただ一人吉宗だけが掴んでいた情報だった。


 ではなぜ宗春が将棋を使って将軍家に挑もうと思ったか。

 それは立摩の行動が鍵となる———


 立摩は富山藩を逐電ちくでんしてから、一人飛騨の山中を彷徨っていた。

 山の暗闇に身を委ねてみても、脳裏に浮かぶのは生前の志津の笑顔だけである。

 現実に絶望し、夢も希望もなく、立摩はもはや死に場所を探している様な状況であった。


 そんな時、立摩はふと尾張へ行こうと思い立った。

 尾張は亡き妻志津の生まれ故郷であった。

 妻の故郷を一目見て、それから死のうと考えた。


 尾張藩主徳川宗春には、三つ下に松姫という妹がいた。腹違いではあったが、年が近いこともあって、宗春はいたく松姫のことを可愛がっていたという。


 宝永五年のこと、その松姫が急遽加賀藩主前田綱紀の嫡男吉治に嫁ぐことが決まった。

 この時吉治十八歳、松姫十歳。

 言うまでもなく、加賀前田家と徳川家の関係を堅固なものにするための政略結婚である。


 この時、松姫に女小姓として尾張から加賀へ付き従ったのが、志津であった。

 松姫は形式上、五代将軍綱吉の養女となった上での輿入れであった。

 そうなると、元は将軍家での姫であるから、人質として江戸で暮らす必要はなく、国許の加賀で生活することが許される。

 松姫と志津は同い年で、幼くして見知らぬ土地へと赴く松姫の寂しさを紛らわすために、志津は奥勤めの近習の一人として選ばれたのである。


 松姫は縁薄く若くして世を去ったが、志津は女小姓として暇を出された後も、そのまま前田家へと奉公を続けた。

 亡き松姫と共に、加賀へと骨を埋めるつもりだったのである。


 だが志津にとって、加賀は身寄りのない土地であり、日々さみしい思いをして過ごしていたことだろう。

 その心の隙間を埋めたのが、名村立摩であった。

 孤児であった立摩は、身寄りのない寂しさを誰よりもよく理解していた。

 二人が知り合ったきっかけは、宗太夫が引き合わせたお陰だったというが、身寄りの者同士、お互い無意識に惹かれ合ったのかも知れない。

 二人は直ぐに恋仲になったという。


 志津は生前、故郷尾張のことをよく立摩に話してくれた。

 患ってからは外出も思うようにならずにいたから、余計に幼い頃を過ごした故郷への想いが強まっていたのだろう。

 病が癒えたら、きっと二人で尾張へ旅に行こうとよく話していたものだった。


 その言葉を思い出して、立摩は尾張を目指したのである。

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