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第十七章 偉大なるもの②

 その時、何者かが廊下を音立てて渡ってきた。

 襖の前で、

「お、御殿様ただ今…」

 声の主は大岡家の小姓頭のようである。

 余程慌てているのか、息も絶え絶えで言葉が続かない。


「たわけ!何事じゃ。今大事なところだと分からんのか!」

 忠相が声を押し殺して叱責しつつも、座敷へと招き入れた。

 小姓頭は大粒の汗を垂らし、青白い顔をして今にも気を失いそうに見える。

 何か言おうとしているが、声にならない。


 その様子が尋常でないことに気づいた忠相は、

「何じゃ?何か言いたいことがあるのならば申してみよ。もはや何が起きても驚かんぞ」

 皮肉な笑いをして諭したが、やはり小姓頭は金魚のようにパクパクと口を動かすだけで言葉にすることは叶わなかった。


 すると、また何者かが廊下を渡って来る音が聞こえた。

 今度は静かな足取りで、衣擦れの音が僅かにする程度である。

「また余計な邪魔者が入りおったか…」

 忠相は苦々しい表情をして吐き捨てると、

「邪魔者とはご挨拶であるの、越前」

 太くよく通る声。

 威厳のある口調だった。


 その場の空気が一変して、あの忠相が絶句している。

 名人宗看は黙って低頭した。

 中間姿の新兵衛が、

「聞いておらぬぞ。やられたわ…」

 低く呻いたのが、兵助の耳に入った。


 闖入ちんにゅう者は、小袖に羽織を着けただけの軽装であるが、明らかに卑しからぬ身分であるのが、その纏う空気で分かる。

 手には白扇を携え、寛いだ様子で己がてのひらを叩いて拍子をとっている。


「ど、どうしてこちらへ⁉」

 叫んだのは信祝だった。いつもの無表情は崩れ、顔面蒼白になっている。


「堅物の越前が楽し気な余興を催しておると聞きつけての。ひとつ見物させてもらうぞ」

 闖入者は、観覧席となっている次の間へ向かって歩きながら、チラリと新兵衛のことを見遣ると、敢えてそこを避けて兵助の隣に胡坐をかいた。


「おい誰なんだいこのお方は?随分とえらいお人なんだろうが」

 清三郎が身を伸ばして新兵衛に耳打ちした。

 その声は、どうやら信祝にも聞こえていたらしい。


「たわけ!上様の御前で何たる態度!大体お主が如き下郎がなぜここにおる!早々に立ち去れい!」

「ええっ!」

 兵助と清三郎の絶叫が座敷に響き渡った。


 八代将軍徳川吉宗が、お忍びで対局の見物に現れたのである。

 その事実を知って、清三郎の顔からはサッと血の気が引いた。

 今や紙のように白くなっている。


 三代将軍家光は、度々江戸城を抜け出してお忍びで江戸市中を見物して、家臣を困らせたという。

 だが吉宗の場合、臣下の邸宅に御成りになる時には、事前に通告するのが普通であった。

 今日のように、完全に抜き打ちで現れるというのは、忠相にとっても全く予想外の出来事である。

 勿論、対局があることを知っていてもおかしくはないが、わざわざお忍びで見物に来るというのは、いかにも不自然に思えた。


「伊豆、まあよいではないか。越前も何か思うところがあってこの者らをここへ上げているのであろう。予のことは気にせずに続けてくれよ」

 吉宗の言葉を受けて、新兵衛が兵助に何やら耳打ちして言った。

 兵助は軽く頷くと、吉宗に向かって緊張した様子で話しかけた。


「お畏れながら公方様、なぜ此度の対局をご覧じろうとお思いになられたのでしょうか」

 吉宗はふっと少し笑い、そして新兵衛に聞こえるような声の大きさで、

「お主にとてまだ伝えておらぬことがある。これからまだまだおもしろくなるから見ておれよ」

 何やら含みのある言い方であった。


 その吉宗の言葉通り、看寿と宗太夫の対局は重要な局面を迎えていた。

 さっきまでは互角だったのが、いつの間にか宗太夫のほうが良くなっている。

 吉宗の登場以来、看寿に疑問手が出ていたのだ。


 実は、看寿が吉宗の目見得になったのは、この時が最初であった。

 兄宗看の抜擢により、前年に十八歳にて既に御城将棋には登っていたものの、その時は吉宗に火急の政務が入り上覧がなかった。


 言うまでもなく、将棋家の一員として将軍の御前にて将棋を指すことは、この上ない名誉である。

 看寿は思いがけずに、この場でその名誉にあずかった。

 併し、吉宗の大きすぎる存在は、皮肉にも看寿の心を乱すものとなっていたのである。


 一方で、宗太夫の集中力はこれまでとは少しも変わることはなかった。

 無我の境地で指している宗太夫は、将軍吉宗を前にしても動じることがない。

 その証拠に、吉宗が登場した時、宗太夫は礼の一つも返さなかった。

 これははっきりと不敬である。

 いつ首をねられてもおかしくはないが、命を捨てる覚悟で将棋を指しているのだから、その態度も当然であった。


 将棋の技が同じであれば、あとは心の勝負である。

 若干十九の看寿には、将軍を前にして平常心で指すのは酷だったかもしれない。

 宗太夫の手つきはずっと静かなままだったが、着実に看寿の玉を追い詰めていった。


 冷酷なまでに辛い手を、次々に繰り出して看寿を苦しめていく。

 もうこれ以上、看寿には宗太夫の攻めを耐えることは出来なくなっていた。


 看寿は眼に涙を溜めながら、頭を下げて投了した。

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