第三章 東海道中記③
金谷宿を抜けて、三人はいよいよ日坂峠の小夜の中山へと差し掛かった。
ここは東海道三大難所に数えられるうちの一つで、急な坂道が杣道の如く続き、頭上には覆い被さるかのように大樹が繁茂して鬱蒼とした様相を呈している。
昼間だというのにその行路は薄暗く、旅人を狙う山賊がこの辺りに巣食っていると噂されていた。
『貞應海道記』には、「此の山口をしばらく登れば、左に深谷右も深谷、一峯ながきみちは、塘のうへに似たり。両谷の梢を眼下に見て、郡鳥の囀りを足の下に聞く。谷の両片は高く、また山のあいだを過ぐれば中山とはみえたり云々」とその山路の険しさが記されている。
その険しさゆえに古来より名高き名所であり、勅撰に古詠多く、幾多の歌人がその情景を詠んでいる。
かつて西行法師がこの地を訪れた際には、
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」
という歌を残している。
兵助は、ここが小夜の中山という名称と知ると、ふと浦上市之進の娘であるさよのことを思い出した。
兵助は以前、さよが借金のカタとして吉原の遊郭に身売りをされた時、争い将棋に勝利して、見事さよのことを取り戻したことがあった。
その時からずっと、兵助はさよに対して秘かに恋心を抱き続けている。
だが町人の兵助と、武家の娘のさよでは、所詮叶わぬ恋である。
手習いのために何度も市之進宅へ足を運び、その度に屋敷内で顔を合わせることはあったのだが、兵助は遠慮して親しく言葉を交わすことはしなかった。
それでも心の中では、さよのことが忘れられないでいた。
だから兵助は、この小夜の中山を通りがかった時、
「さよお嬢様は今頃何しているかな…」
などとぼんやり考えながら歩みを進めていた。
人ひとりがやっと通れるような細い道を、三人は一列になって歩いた。
道は狭いが、東海道を往く者は必ずこの場所を通らざるを得ないため、人通りは意外に激しく、すれ違うのにも難儀をする有様である。
旅慣れている新兵衛は先頭に立って先を急ぐが、兵助と清三郎は、慣れぬ峠道で足は疲れ切っていた。
考え事をしながら歩いていたのも災いしたか、遂に兵助は、土中から顔を出していた木の根に躓いて、前のめりになって数歩たたらを踏んだ。
すると、よろめいたその先に、街道を江戸方面へすれ違いに歩いてきた浪人者がいて、兵助はその者の腰の辺りにしたたかにぶつかったかと思うと、二人とももつれ合うかのようにして均衡を失って、もんどりうって倒れ込んでしまった。
自らの不注意であったと感じた兵助は、すぐさま、
「も、申し訳ございません」
と詫びたのだが、浪人の怒りはこれでは収まらなかったらしい。
おもむろに立ち上がると、顎紐を解いて編笠を外すと兵助に向かって、
「武士の装束に土を付けておきながら斯様な侘び様では容赦できん。両手をついて謝られい」
兵助は言われた通り黙ってその場に手をついて頭を下げた。
だが浪人は薄ら笑いを浮かべたままで、
「いややはり頭を下げられたところで勘弁ならん。お前ら三人有り金を全部ここに置いていってもらおうか。さすればこの場は見逃してやってもよいわ」
と意地悪く言い放った。
浪人は身の丈六尺に迫ろうかという大男で、色の褪せた野袴に擦り切れた打裂羽織を身に着け、顔は黒々とした髭に覆われている。
その膂力を礎に、武芸には相当な自信がありそうであったが、みすぼらしい風貌から推察するに、仕官を求めて長いこと全国を流浪しているのだろう。
なかなか思うに任せず、鬱屈した感情が意地の悪い薄ら笑いから見て取れる。
その捌け口として、まだ子供の兵助に、武士の立場を笠に着て言いがかりを付けてきている。
この態度に我慢ならなかったのが清三郎である。勇んで兵助と浪人の間に入ると、
「やいてめえみてえな木偶の坊がぼんやりと歩ってるのがいけねえんじゃねえか!侍だかへちまだか知らねえが、てめえみたいな唐変木にゃ下げる頭もやる銭もこちとら持ち合わせちゃいねえんでえ!」
後先考えずに啖呵を切った。
兵助は心の中で拍手喝采したが、浪人は、鬼かと見紛うような形相をしながら、刀の柄にゆっくりと手をかけるのが横目に見えた。
二人はそこで漸く、「とんでもないことになった…」と青ざめた。
———すると遠巻きに見ていたはずの新兵衛が、悠然と兵助たちと浪人の間に割って入り、落ち着いた口調で、
「童にぶつけられたくらいで装束に土が付くほど倒れ込むのは、お手前の武芸が未熟だからでは?斯様な者が侍を名乗るとは片腹痛いわ」
これまでの新兵衛からは想像できないような、不思議なくらい高飛車な言い方だった。
「町人風情が武士に対して無礼な!お前から手討ちにしてやるからそこに直れ!」
怒髪天を衝いた浪人は、太刀を抜いて大上段に振りかぶり、拝み打ちにまずは新兵衛へと斬りかかった。
兵助は新兵衛のことを助けようと思っても、身体は岩のように硬直して動かない。
瞑目し、新兵衛が斬られるのをもう観念していた。
その刹那、「うっ」と低い呻き声がどこからか漏れたかと思うと、何かが硬いものにぶつかるような大きな音が聞こえてきた。
それきり辺りには静寂が流れている。
兵助は恐る恐る眼を開けてみると、眼の前にいたはずの浪人の姿が消えていて、新兵衛は無傷で呼吸ひとつ乱さずその場に立ったままでいる。
そして周囲を見回すと、二間ほど離れて、松の根元にある石の傍らに、浪人がだらしなくのびているのが見えた。
兵助には何が起きたのかさっぱり分からなかったが、清三郎は一部始終をはっきりと見ていた。
浪人が刃を振り下ろすまでの一瞬の間に、新兵衛が眼にも止まらぬ速さで蹴りを繰り出し、その足が浪人の脾腹を衝いた。
浪人は二間ほど軽々と吹き飛んで路傍の松の木にぶつかって、そのまま昏倒したのである。
「さあ逃げましょう」
新兵衛がそう号令をかけると、身を翻して真っ先に駆け出した。
兵助も清三郎も、これまでの疲れなどは忘れて無我夢中で峠道を走り抜けた。
どれほどの距離を走ったか分からない。
やっと峠を抜けて、人家がチラホラと見える里に出てきたようだった。
そこで息を整えようと、三人は道端で束の間の休息をとることにした。
「あの人死んだのかな?」
兵助が汗をかきながら神妙な面持ちで尋ねると、
「ははは。あれくらいで死ぬような玉には思えませんがね」
新兵衛は息を乱しながらも莞爾として笑っている。
「併し新兵衛さん、あの蹴りは見事だったね。あれがなけりゃ俺たちみんな死んでいたところだぜ…」
清三郎はしみじみと語った。
新兵衛は「唐手の心得が少々ありまして…」などと頭を掻いて謙遜している。
唐手の手際も俄かには信じられぬものであったが、清三郎が一つ気になったのは、新兵衛の浪人に対する口のきき方である。
いくら浪人相手とは雖も、町人が武士に対してあのような口ぶりで話すことは普通は憚られる。
新兵衛は本当に武士が嫌いで、この前屋敷から出てきた男も、やはり新兵衛ではないのかも知れないと、清三郎は改めて考え直していた。
「清三郎さんの啖呵もお見事でしたよ。私にはあのような台詞は咄嗟には出てきませんからね」
新兵衛は笑顔で言った。
二人の間のしこりも今やすっかり解消されたようである。




