第十六章 知恵比べ④
「それでは、囲碁家井上因碩、将棋家伊藤宗看の両名、盤の前へ」
忠相の重々しい声が、座敷に響いた。
因碩と宗看が、着物の裾を捌いてゆっくりと盤の前に座った。
二人とも何の感情も表さず、淡々と駒を並べていく。
お互いにこのような場には慣れているのだろう。
忠相が粛々と振り駒をして、因碩の先手、宗看の後手に決まった。
忠相は児小姓に扇子で合図して、時計の準備をさせて、
「その方ら用意はいいか?」
対局者の二人にも尋ねた。
言い知れぬ緊張感が、座敷内に充満する。
忠相は右手に持った白扇を高く掲げて、囲碁家の時計が進むよう合図をする。
すると、巨大な機械式時計の内部から、カチカチと歯車の動く音が聞こえだした。
因碩が僅かに時間を使って初手を指すと、忠相は左手を上げて小姓に合図する。
今度は将棋家のほうからカチカチと音が鳴った。
一定の間隔を正確に刻むその音は、時間の進みを本能に訴えかけてきて、対局者ではない兵助もなぜだか気持ちが焦らされるようであった。
切れ負けの将棋であるから、お互いに時間を節約できるところは、どんどん指し手を進める必要がある。
併し、因碩は序盤からかなり慎重に考えているようだった。
六段と名人の手合であれば、慎重を期するのも当然ではあるが、あまり悠長に指していては終盤に時間が無くなってしまう。
何か作戦があってのことなのかも知れないが、表情からはまだ何も読み取れない。
お互いに指し手は進んで、局面は中盤に入っていた。
序盤の長考が功を奏し、まだ因碩のほうも大きな差は付けられていない。
だがここで緩手を指してしまえば一気に形勢が悪くなりそうな場面である。
重要な局面を前にして、因碩は時計のほうを見たり、庭に目をやって陽の高さを気にしたりして、なぜだか落着きがなかった。
時間は過ぎていくのに、中々次の手を指そうとしない。
丁度その時、屋敷玄関の辺りが、俄かに騒がしくなったのが分かった。
急な来客でもあったのか、用人が何者かを制止するような声が聞こえる。
何者も通さぬよう忠相よりきつく命じられているはずなので、その言いつけに従っているのだろう。
おそらく事情を知らぬ慌て者がやってきて、忠相に会わせろとごねているに違いない。
忠相はうんざりした顔をして、市之進に合図を送った。
市之進は副立会人として、進行の妨げとなる騒ぎを収めに玄関の方へ向かった。
すると、直ぐに玄関の騒ぎは止んだように思えた。
座敷内は再び静寂を取り戻した。
因碩はまだ指さない。
暫くして、廊下の床板が軋む音が聞こえてきた。
市之進がひと仕事終えて帰って来たのだろう。
「ご苦労であったの。どこのたわけが来ていたのだ?」
忠相は盤面を見つめたまま、市之進に問いかけた。
「ふん。下らない茶番をしおって。たわけはその方らのほうじゃ」
市之進ではない何者かが応えた。
将棋家側の視線が一斉に声の主のほうへ向かった。
「これはこれは伊豆守様。どのようなご用件でございますか?本日は非番ゆえ、お役目のお話はご遠慮願いたいのですがな」
忠相が睨みつけるようにして言った。
現れた男は、老中松平伊豆守信祝であった。
信祝は、忠相の言葉が終わらぬうちに、
「知れたこと。囲碁家将棋家の争い将棋を見に来たまでよ」
と、言い放った。
冷淡な眼つきで、忠相のことをじっと見据えてくる。
「これは異なことを申されますな。本日の対局、断じて争い将棋などではございませぬぞ。あくまでも余興に過ぎぬことは双方承知の上…」
「戯言を申すでない!将棋家が上様御前での席次につき、不満を申し立てておるのはわしの耳にも入っておるわ。その上でこの顔ぶれで指すのとあらば、お互い家名を懸けてのものに決まっておろう。ならば当然、負けたほうには相応の責めを負うてもらうが筋よ」
宗看の眉がピクリと動いた。
それ以外の反応はない。
兵助は、囲碁家側の表情もつぶさに観察していた。
因碩は口元を僅かに歪めて嗤ったように見えた。
信祝もチラチラと因碩のほうへと視線を送っている。
どうやら囲碁家が信祝に通じているのは間違いなく、信祝当面の目的は将棋家の取り潰しなのだろう。
場の空気がざわめいている中で、不意に因碩はそっと手を指した。
「そこのところよく承知しておろうな名人。将棋家が負け越すようなことがあれば、御家取り潰しは免れんぞ」
信祝は宗看の背中に向かって圧力をかけた。
だが宗看は無言のままで何も応えない。
「おい宗看どの、伊豆守様がこう仰られておるぞ。それを無視するとはどういうつもりだ。何か応えたらどうなんだ」
対局者の因碩が、怒気を含んで言った。
信祝と因碩の必要以上な威圧的態度には、宗看に重圧をかけて指し手を間違えさせようという意図が透けて見える。
或いは時間を浪費させようという魂胆もあるのかも知れない。
幕政にて権勢を振るう老中から睨まれれば、如何な宗看でも集中力が途切れかねない。
盤外戦術もまた、戦い方の一つとして認められていた時代だった。
「おい聞いているのか!」
因碩がさらに大音で面罵すると、宗看は一手進めて顔を上げた。
「いやはや局面に集中しすぎると、どうも周りの音が聞こえなくなってしまうのが私の悪い癖で…。今何か言われましたか?」
扇子で涼し気に顔を煽いで言った。
「た、たわけたことを抜かしおって…」
「ところで…」
宗看が何かを言いかけてやめた。
しきりに首を捻って、眉間に皺を寄せ、深刻な面持ちである。
「何じゃ。何か言いたいことがあるならば申してみよ」
信祝が高飛車に言う。
「いやしかし、これを私が申すわけには…」
「くどい!何か言いたいことがあるならばはっきりと申せ!」
信祝は珍しく怒りを露わにして言った。
信祝にはどんな反論があったとしても、それを論破する用意がある。
将棋指しの小賢しい知恵など、智慧伊豆信祝にとっては取るに足らないのであり、それを勿体つけるなど馬鹿々々しいと見ているのである。
宗看がチラリと忠相のほうを見ると、忠相は無言で首肯している。
「ならば…」
と咳ばらいを一つしてから、
「————その玉、もう詰んでおられますぞ」
「げっ」
声にならない声をあげたのは因碩と信祝のみであった。
看寿も兵助も、宗看が指した時には、因碩玉が即詰みに討ち取られていることに気づいていた。
宗看に重圧をかけることばかりに気を取られ、信祝の登場で気を良くして緩手を指したのは、因碩のほうだったのである。
名人宗看の精神力の前では、伊豆守の知恵など、浅はかなものであった。
因碩は額に汗を浮かべて必死に逃れ手順がないか読み始めたが、それも徒労である。
もはや投了は避けられなかった。
忠相は高らかに宗看の勝ちを宣言し、第一局は、見事将棋家の勝利で終わることとなったのである。




