第十五章 大岡裁き①
名奉行大岡越前の出した結論は次の通りであった。
将棋家元伊藤宗看の提案した囲碁家将棋家席次争いに乗じ、その対立を煽ったのはおそらく老中松平伊豆守信祝である。
信祝の巧妙なる口車に乗せられた結果、囲碁家は将棋家に対して争い将棋を挑むことになった。
この点で、囲碁家は浅慮だったと言える。
対局が組まれて、囲碁家が敗れた時にはその浅慮を責められ、将棋家が敗れればその看板に傷がつく。
どの結果に転んでも、家元たちは不名誉を被らなければならない。
いずれの場合においても、取り潰しとまではいかずとも家元たちの地位は下げられる。
それを意図しての、信祝の策略であった。
だがここで、信祝の想定していない事態が生じた。
信祝は、囲碁家からは適当な囲碁家の門人が指し手として選ばれると当然考えていた。
それが実は、対局者三人のうち、二人はどうやら外部から移籍してきた者だということが分かったのである。
囲碁家の門人と将棋家の門人の対局であれば、夫々《それぞれ》の家は、家の誇りを懸けて戦うことになるものの、あくまでも幕府職制内における内輪の話として済ますことができる。
併し、そこに他の大名が割って入ってくるとなると話は別である。
公儀御流儀の将棋家が、他大名の棋士に敗れたとあれば、公儀の名に傷がつく。
それが薩摩島津・長州毛利・仙台伊達・加賀前田といった強大な外様大名であれば、幕府に与える影響は軽微ではない。
だから忠相は、囲碁家の指し手二人が何者なのか、ずっと気にかけていたのである。
そして忠相の心配は現実のものとなった。
即ち、囲碁家の指し手二人は、前田家家中の者だということが、今日この日分かった。
どういう経緯でその二名が囲碁家へと合力しているのかは分からないが、これは前田家にとっても由々しき事態であった。
出奔したとはいえ、元は前田家の二人。
形式的に出奔した体を取り、公儀の名を貶めようと指し手を差し向けたと、あらぬ疑いをかけられかねない。
それを危惧したからこそ、主計と市之進は忠相の元へと参じ弁明をしたのである。
ここで知恵者忠相は一計を講じた。
それは、同じ前田家から、将棋家側にも棋士が出されれば、それは幕府と前田家を共にした内々での余興の一つと看做すことができる。
幕府の名に傷がつくこともなく、前田家にあらぬ疑いが掛けられることもない。
それで、兵助に白羽の矢が立ったのである。
市之進が名指しした有浦印理や宮本印佐は旗本である。
元々が幕府側の人間だから、将棋家側で指したとしても意味はない。
幸いなことに兵助は、若党とは言え前田家の家臣であり、尚且つ将棋の腕も確かである。
問題はまだ正式な武士ではないということであるが、手っ取り早いのは、やはり養子縁組で士分に取り立てる方法であった。
だが男子のいる家に養子縁組するのは、後々に後継問題が生じかねないため時間を要する。
一女しかいない市之進であれば、そういった問題はない。
主家が承認すれば、鶴の一声で決まりとなる。
幕府も無暗な養子縁組は推奨するところではなかったが、今回ならば黙認は確実である。
兵助を市之進の婿養子とした上で、前田家代表として将棋家と共に参加させれば、どのようにでも申し開きは立つ。
以上が、名奉行大岡越前の下した裁きであった。
丁度この時、越中富山藩主前田利隆は火急の用有りて国許にいた。
だから、囲碁家将棋家問題に関しては、江戸家老近藤主計が全権を委譲されている。
自分の嫡男にさよを娶らせようとしていた主計であったが、主家の一大事とあれば従わざるを得ない。
主計は歯軋りをしつつも忠相の提言を受け入れる他なかったのである。
二人の了承を得ると、忠相は次の間に控えていた兵助を、己が面前に呼びつけた。
大岡忠相、この時既に齢六十を超え、その顔にはこれまで積み重ねてきた年輪が、深い皺となって刻まれている。
併しながら眼の輝きは少しも衰えることなく、兵助の面貌をじろりと見定めたかと思うと、重々しい口調で語りかけた。
「兵助よ、その方将棋家と共に添田宗太夫並びに名村立摩と戦う覚悟はあるな?」
「———御意にござりまする」
兵助は胸を張って即答した。
その堂々たる様は、天下の大岡越前を前にしても少しも怯むところがない。
「お、お主自分の立場が分かっているのか?負けは許されんのだぞ」
あまりに自信に満ちているので、主計が驚いて聞いた。
「勿論分かっております。大舞台で宗太夫様立摩様と戦えるなんて、こんな嬉しいことはございません。必ずや勝ってみせますよ」
まだ町方の気分が抜けない兵助にとっては、御家の一大事などは頭にはなく、宗看や看寿と一緒に在野最強棋士たちと戦えることが単純に嬉しかったのである。
主計と市之進は青ざめたが、忠相は厳めしい顔を僅かに緩ませて、
「対局はわしの屋敷でしてもらう。立会人はこのわしだ。無論、公にではなくお好み対局の体だ。さすれば兵助も案ずることはあるまい」
と念を押した。
一同安堵の表情を見せたが、この時、忠相さえも知らないことが一つだけあった。
それが兵助を巻き込んで、いずれ大きな災禍になるとは、誰も知る由もなかったのである。




