第十三章 囲碁家将棋家席次争い③
正之は、あの会合以来ずっと体調が良くなかった。
腹の中に何か腫物があるようで、食欲もなく臥せっていることが多い。
山のように抱えていた仕事は、大方忠相へと引き継いだ。
有能な忠相であるから、万事滞りなくやり遂げてくれるだろうが、一つだけ、あの囲碁家将棋家席次問題が心に引っかかっている。
宗看の訴えは現在保留となっているため、表向きは何も変わることはない。
だが忠相の言っていた通り、裏で何か企んでいる者がいるとするならば、今こうして床に臥せっている間にも、何か不吉なことが進行しているかもしれない。
そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになる。
そんな或る日のこと、名人宗看の来訪が突然あった。
正之はこの日も出仕せず、朝から病床に臥せっていたが、宗看来訪の報せを聞くと、眼を見開いて起き上がろうとした。小姓が慌てて制すると、それに抗うように、
「ここへ直ぐに通せ。人払いをしろ。誰も通してはならんぞ」
喘ぎながら声を振り絞った。
正之は上体だけを起こし、寝間着のままで宗看を招き入れた。
宗看はそんな正之の姿を見ても顔色一つ変えることはない。
いつも通り黙礼し、寝所に落ち着いた様子で進み入って、正之の傍らに静かに座した。
まだ言葉は何も発しない。
九月十五日。
秋の涼風が、座敷内を通り過ぎた。
「囲碁家と争い将棋をすることになりましたよ」
宗看は僅かに口辺に笑みを浮かべて言った。
「あ、争い将棋だと?一体どういうことじゃ?」
囲碁家と将棋家の争い将棋など、未だかつて聞いたことがない。
正之は、宗看が何を言わんとしているか、さっぱり飲み込めずにいた。
取り乱す正之を諭すように、宗看は説明を始めた。
囲碁林家十一世林元美の記した『爛柯堂棋話』によると、享保十二年に亡くなった五世本因坊・本因坊道知は、囲碁家にありながら将棋も達者で、四世名人五代大橋宗桂と度々将棋を指す仲であったとされている。
その棋力六段と言われていた。享保四年に亡くなった名人因碩こと四世井上道節因碩も同じく将棋でも段位を取得しており、伝統的に囲碁家の者たちは、余技である将棋にも通じていた。
当代の囲碁家には優秀な人材がいないとされていたが、その余技である将棋のほうでは先人に劣らぬ才能を見せ、実は当代の井上家六世井上春碩因碩は、道知に匹敵するほどの棋力を備えていたらしい。
一方で世間からの囲碁家に人なしとの評価には、因碩を筆頭に囲碁家側は当然快く思ってはいなかった。
彼らの主張は、八十一升で行われる将棋よりも三百二十四升で行われる囲碁のほうが遊技として複雑であり、究めることは将棋よりも遥かに難しい。
それが証拠に、囲碁棋士は片手間に将棋を指しているだけにもかかわらず、将棋家に伍する程の棋力を備えることができたというのである。
その証明のために、囲碁家側より三名、将棋家側より三名選出して将棋を争い、もし将棋家が負け越すようなことがあれば、その時は将棋家お取り潰しにして欲しいとの訴えがあったようである。
「な、なんじゃその戯けた話は!そんな話を、名人、よもや受けたのではないだろうな?」
正之は顔を真っ赤にして激高した。
「そう興奮されますとお体に障ります…」
宗看はそれっきり口をつぐんで、正之の背中を優しくさすった。
その背中の掌から、正之は、宗看がこの勝負を受けたのだということを悟った。
「そうか分かった…。いずれにせよ、そなたと看寿が負けることはない。即ち、将棋家が取り潰しになることもないということじゃ」
三名の中に天才兄弟宗看・看寿がいれば、尋常に考えて負けることはない。
それ以前に、囲碁家で将棋を能く指せる者は因碩の他にはいないはずである。
因碩は確かに強豪だが、因碩以外の二名にどんな囲碁家門人が出てこようとも、将棋家が不覚を取ることはないのである。
それを分かった上で、囲碁家も余興のつもりで言ってきたのであろうが、それにしてもお取り潰しとは不謹慎だと、正之の怒りは収まらなかった。
きっと老中信祝の差し金に違いないと、正之は看破していた。
翌日も腹の虫が収まらない正之は、病身を押して江戸城へと登城した。
息も絶え絶えで、脇を用人に抱えられて、青い顔をして芙蓉之間に詰めている。
「なに、河内が来ていると?直ぐにこれへ通せ」
将軍吉宗は、丁度御座之間にて午後の公務を執っているところであった。
取次より正之登城の報せを受けると、御休息之間へと招き入れた。
四畳半ほどの将軍私的の空間で、小姓頭取が控えるのみである。
吉宗は口には出さぬが、ずっと正之の登城を待ちわびていたようだった。
「上様、人払いをお願いいたします」
正之は吉宗に謁見するなり人払いを願った。
吉宗は黙って頷いて小姓に退室を促した。
吉宗には、正之が今訴えようとしていることに、ある程度の察しがついているようだ。
「上様は囲碁家将棋家の席次を巡る争い将棋の件、御存じでいらっしゃるのですか?」
正之の眼は血走って赤くなっている。
吉宗は正之の双眸を見つめながら、黙って首肯した。
「なにゆえ斯様なお戯れを赦されます?一体誰の差し金にございますか?」
正之は必死の形相で詰め寄った。
曖昧な答えなどは要らないという、核心に迫る質問である。
ひょっとすると、己の死期を既に悟っていたのかも知れない。
寺社奉行として、又は将棋家門人としての立場もあったろうが、第一には、将軍家に対する奉公の気持ちであったろう。
吉宗がもし誤った道へと進もうとしているならば、生命を賭してでもそれを正すのが家臣の勤めと、正之は信じて疑わなかったのである。
そんな正之の決死の姿は、吉宗の胸に響くものがあった。
「河内、そちだけに俺の胸の内を明かそうぞ。決して口外いたすでないぞ」




