第二章 東海道中記②
旅も中盤に差し掛かって、一行は駿府城下府中宿までやって来た。
家康公の隠居地であり、幕府直轄地でもある駿府は、家康在城当時には京坂や江戸に次ぐ十万もの人口を数えていたというが、駿河大納言忠長改易以降、城代が置かれるようになってからは、町方人口は二万に届かないほどで推移していた。
それでも府中宿は、東海道五十三次の中では最大規模の都市であり、行き交う旅人と在地の幕臣と町人で、大変な賑わいを見せている。
十返舎一九の生誕の地だというから、『東海道中膝栗毛』には駿府に流れていた旅の気風が反映されているのかも知れない。
三人が府中宿に着いたのは、まだ昼を少し過ぎたあたりで一つ先の鞠子まで行けなくはなかったが、新兵衛の提案で今日はここに宿を取ることになった。
夕七つには投宿したものの、宿で出される夕食までにはまだ時間がある。
それなりの都市である府中宿には、これまでの田舎とは違って簡単に印の誘いをしてくる者もおらず、三人は久しぶりに退屈な夕暮れを過ごしていた。
部屋では皆思い思いに寛ぐ形で、兵助と清三郎は腕枕でだらしなく横になっている。
新兵衛は窓辺にもたれかかって階下を何気なく眺めていた。
すると、それまでじっと窓下を見ていた新兵衛は、急に何かを思い立ったかのように立ち上がると、外出すると言って身支度を整え始めた。
聞けば駿府には馴染みの商人がいるということで、その挨拶に出向くということである。
兵助たちには特に関係のあることではないので、さして気にも留めないで新兵衛を見送った。
だが夕食の時間を過ぎでも、新兵衛は戻ってこなかった。
「この頃合いまで帰ってこねえとなると、きっと先で酒にでもありついてるんだろうな…」
清三郎は虚空を睨みつけて独りごちた。
残された二人と言えば、宿で出されたみすぼらしい食事をぼそぼそと食べるほかない。
食後兵助は、昼間に城下で買った安倍川餅を頬張ってご満悦のようだが、清三郎はすることもなく手持ち無沙汰で、寝転んでぼんやりと天井を眺めていた。
すると、脳裏には新兵衛が楽し気に接待を受けている場面が想像されて、思わずゴクリと喉が鳴った。
本来であれば、新兵衛と一緒でなければ飯も食えない一文無しの旅なはずだが、今は幸いなことに、道中の印将棋で稼いだ金があり、懐具合にはだいぶ余裕がある。
そう考えると居ても立ってもいられなくなった清三郎は、兵助を一人宿に残して、翌朝早いのも気にせず酒を求めて夜の町へと繰り出すことにした。
駿府城の周囲には堀がぐるりと巡っており、大手門の前には重臣たちの屋敷が城を守るように配置されている。
入り組んだ形でその他の上級武士や家臣の下屋敷が続き、その南側に町人地が作られていた。
町人地は碁盤の目状に整然と区画され、多くの店や長屋が軒を連ねている。清三郎はその中から一軒、適当な酒場を見つけて入った。
チビリチビリとやりながら、旅先の見知らぬ土地で、誰に気兼ねをするわけでもなく一人酒を呑む幸せを噛み締めていた。
そこまで酒の強くない清三郎は、三、四杯やったところで充分に酔いが回り、好い心持で店を後にした。
ところが、慣れぬ土地故に宿への帰り道が分からなくなってしまった。
よろよろと千鳥足でさ迷い歩いては見たものの、同じ路地をぐるぐると廻っているような気がしてならない。
まだ木戸が閉まる前の時間帯で、どこをどう歩いたのかは分からないが、どうやら大手門付近の武家屋敷辺りまで来てしまったらしい。
「おいお前、そこでさっきからウロウロと何をしておる?」
とある屋敷の門番が、清三郎の姿を認めて詰問した。
「へいあっしは江戸から来た清三郎ってもんでございます。いい月夜でござんすね」
「名を聞いているのではない。そこで何をしているのかと聞いているのだ。怪しい奴め」
ただの酔っぱらいだとは思いつつも、二人の門番は一応の職責を全うすべく、清三郎を取り囲んで、素性や泊まっている宿屋の名を根掘り葉掘りと調べ始めた。
ここで抵抗しては余計に面倒なことになると踏んだ清三郎は、酔った頭ではあるものの、素直に取り調べに応じることにした。
するとその時、二丁ほど離れた辺りで、一人の人影が、ある大きな門構えの武家屋敷から、人目を忍んだ様子で現れたのが見えた。
幕府重臣の屋敷らしく、立派な構えの門が誂えてあるが、誰一人として見送りに出るわけでもない。
その男は、周囲に用心深く眼を配ると、そのまま足早にどこかへと立ち去ってしまった。これだけなら特に驚くに当たらない出来事のはずである。
だが清三郎には引っかかったことがあった。
男の容貌をはっきりと見定めることができたわけではないが、月の出た夜であったから、その身なりと背格好は、遠くからでも何となく確認することができた。
その男は、清三郎の眼には、新兵衛その人のように見えたのである。
新兵衛は商人の知人に会いに行くと言っていたから、武家屋敷から出てくる道理はない。
不審に思ったものの、清三郎は門番に囲まれており、声をかけるのも儘ならずその場は見過ごさざるを得なかったが、
「あそこの御屋敷はどちら様の屋敷でござんすか?」
門番の詰問を一時無視して逆に問いかけた。
「お前には関わりのないことだ。先にこちらの問いに答えよ」
屋敷側に背を向けた門番には、新兵衛らしき男の姿は見えていない。
清三郎が話を逸らそうとしているのだと思って、詰問をやめようとはしなかった。
むしろ気分を害したようで、威圧感は先ほどより増してきている。
さすがにこれ以上は詮索することは叶わず、清三郎は再び神妙に取り調べに応じることにした。
最終的に門番は、宿の住所と道順を丁寧に教えてくれたので、清三郎は無事帰路につくことができたのだったが、宿に戻ってみると、新兵衛は何事もなかったかのように部屋で寛ぎながら、清三郎の帰りを待っていた。
「明日も早いですからもうお休みになりましょう」
と、にこやかな顔で言う。
どうやら酒は入っていないようだ。
清三郎は酔いもあって、新兵衛の言葉通りにその晩は直ぐに床につくことにした。
翌朝、寝ぼけた頭で昨夜のことを思い返してみると、あの男が本当に新兵衛であったのか確信が持てなくなっていた。
月夜に乗じて狐狸が見せた夢か幻のような気がしてくる。
それでも一応は確かめようと思って、
「新兵衛さん、あんた昨夜どこぞの武家屋敷に出入りなんかしてなかったかい?」
新兵衛の眼は一瞬鋭くなったような気がしたが、
「はっはっは。私は武士が大嫌いでございます。誰が武士の屋敷になんかに出入りしましょうか。清三郎さんはきっと酔っていて幻でも見たんですよ」
と、一笑に付した。
もしあの時清三郎がしらふであったならば、この新兵衛の反応にも何らかの吟味を加えられるだろうが、今の清三郎にはそれができない。
それどころか、昨夜のことにはますます自信が持てなくなってきた。
清三郎は、首をひねって沈黙するほかなかった。
「清さん今日はなんだか口数が少ないね」
駿府城下を後にしてから、普段と様子の違う清三郎を心配して兵助が言った。
「いや別になんでもねえよ」
清三郎は平静を装ったが、新兵衛の行動にはやっぱり納得できないままでいた。
二日酔いから覚めた頭で思い返してみると、昨夜屋敷から出てきたのはどうしても新兵衛のような気がしてならない。
新兵衛が商売でどこに出入りしようとそれは新兵衛の勝手だが、武士が嫌いなどと言って誤魔化そうとするのは気に入らなかった。
だから昨晩の出来事は、小さなしこりとして、清三郎の腹の中に残ったままでいた。
三間ほど先を歩いている新兵衛は、二人の会話を聞いているのかいないのか、その歩みを緩めずに先を急いだ。