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第十章 二番勝負②

 時間無制限であるから、序盤は双方時間を使ってゆっくりした進行になるだろうと、兵助は予想していた。

 だがその予想に反して、立摩のほうはあまり考える様子のないまま指し手を進めている。

 名人も、立摩に合わせるように大きく時間を使うことはない。

 その手付きは、「やって来い」と言っているような、堂々とした王者の風格を感じさせる。


 戦前の緊張感が嘘のような、軽快な立ち上がりとなった。

 指し手が進むのが早いので、兵助は棋譜を書くのに苦労している。

 盤面を注視して、対局者が指すのを見届けて、筆に墨を付けて紙に記す。

 その間に次の手が指されるとどうしても慌てることになる。

 後で清書をするとは言え、忙しいことには変わりない。


 兵助はこれまで棋譜を書くことばかりに気を取られていたが、二十手辺りで双方の指し手がゆっくりになったので、これまでの指し手を改めて振り返ってみた。

 今までは将棋の内容までは意識が廻っていなかったのである。

 初手から頭の中で駒を動かして現在の局面までやってきて、そこで思わず、

「えっ!」

 と声が出そうになった。


 慌てて口を手で押さえたが、そうしなければ本当に叫び声を上げてしまっただろう。

 隣に座った看寿が怪訝そうに兵助の顔を覗き込んだが、兵助は、平静を装うのに、酷く苦労しなければならないほど動揺していた。


 なぜなら、宗看と立摩が辿たどっている手順は、昨日兵助と立摩が指した手順と全く同じだったからだ。


 昨日は兵助が今の宗看と同じ上手うわてを持って指して、立摩の奇襲を受けて敗北を喫している。

 その時は実力で劣る兵助が駒を落としたのであれば負けるのは当然として、対局後深く検討をしないままに終わっていた。

 だがもし立摩の奇襲が有力な作戦であり、宗看がそれにはまったとしたら、兵助と同じ結果になったとしてもおかしくはない。


 無論名人ともあれば、どこかで変化をして起死回生の一手を放つことも大いにあり得るが、このままの状況が続くとすると、ひょっとすると名人が不覚を取るかも知れない、と思わずにいられなかった。


 即ち立摩は、この奇襲戦法を、この日のために苦心して生み出していたのである。

 そして、兵助に試みて、実戦に使えるという手ごたえを得た。


 この居玉で下手したてから急襲を仕掛ける戦法は、所謂後世で知られた「立摩流」とされるものである。

 大胆な攻め将棋である宗看の棋風から言って、急戦を仕掛ければ宗看はそれに乗って来るだろうと見越して、立摩はこの特攻とも思える奇襲を仕掛けたのである。


 そして、実際に想定通りになった。

 じわり…と名人の考える時間が長くなってきた。

 表情は先ほどから少しも変わることはないが、実は自分の劣勢を悟っているのかも知れない。

 正之も看寿も、名人が不利な状況に陥ってるのではないかと、漸く気づき始めた。


 誰も言葉には発しないが、このままでは名人が負けることになると内心でざわついていたのである。

 在野ではあるが、立摩は並の棋士ではない。

 獲得した優位を簡単に手放すほどもろくはない。


 将棋は一手でも緩手かんしゅを指せば一気に逆転をする競技だが、この日の立摩の集中力は見事であった。

 中盤以降も本来の持ち味である緻密な読みを入れた将棋で、宗看の反撃を躱している。

 終盤、宗看が長考に沈んだ。

 きっと自らの劣勢を受け入れた上で、逆転の一手を盤上から見つけ出そうとしていた。


 以前看寿が、兵助に名人宗看の強さというものを解説してくれたことがある。

 将棋の技術は勿論のこと、宗看は、どんな時でも精神的に乱れることがない。


 宗看の将棋を評して、天衣無縫にして大海の如しという人がいる。

 けだし、明察であろう。

 若い修業時代には、勝利に固執する将棋を指していたというが、名人となって月日の流れた今は、勝利よりも棋理を追及する姿勢に変わっていたとされている。

 それができるのも、一手に一喜一憂しない、揺るぎない精神を持ち合わせているからである。


 一方で、理外の理を追及した立摩の手に、思わぬ不覚を取ったのもまた然りであろう。

 立摩はこの一戦のために、玉砕覚悟の奇襲を用いてきた。

 宗看の棋風を悟った上で、立摩が作戦を練ったのだとしたら、その点では立摩が一枚上手だったと言える。


 宗看は何やら一人で頷いて、長考後の手を指した。

 反撃を目指す急所の攻めであるが、立摩はそれに対して攻め合いの秘手を用意していた。

 宗看はその手を見て、また再び頷いた。


 もう既に二人の中では終局が見えていたのであろう。

 長考した時点で、宗看は己の負けを悟っていたのかも知れない。

 手が暫く進んで宗看が、

「負けました」

 潔く頭を下げた。


「いやあ天晴れじゃ名村立摩よ!見事な将棋であったの」

 立会人井上河内守正之が、上機嫌で喝采した。

 正之の言う通り、見事新手が実を結び、名人に勝ち切った。

 本局は立摩にとって会心譜だったはずである。


 併し、勝負を終えた立摩の顔面は蒼白で、額には脂汗が浮いている。

 それ程までに、精神力を削った勝負だったというのが分かる。そんな立摩の様子を見て、

「あまり体調が優れないようですな。ならば次の対局は日を開けてからのほうがよろしいかと思われますが、河内守様いかがでございますか」

 敗者である宗看が、将棋家元として正之に提案した。


「ふむ…。七段の免状を懸けた将棋とあればお互い万全の状態で勝負をするのが筋であろうな。名人の言う通り、角落ち番は後日に致す。双方異論はないな?」

 正之の評定により、次の対局は延期をすることになった。正之の役目の都合上、日取りは翌六月の二日に決定した。

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