第九章 名村立摩④
翌日、兵助は麻布の伊藤家屋敷へと向かった。
いつもの稽古に向かう心地とは違って、自然と緊張が増してくる。
将棋家家元の宗看は日々何かと忙しいらしく、一門人に過ぎない兵助とは余程暇でないと目通りも許されないが、この日は名村立摩の名を告げると直ぐに宗看の書斎へと招き入れてくれた。
「立摩どのが江戸へ参っているとな?いや懐かしいの」
宗看は顔を綻ばせて言った。
実は宗看がまだ十一歳の少年だった頃、十八歳で若手の有望株であった立摩と江戸前田利興屋敷にて対戦したことがあった。
その時は十一歳の宗看が香車を落としたのだという。最終的に勝利したのは立摩であったが、僅か十一歳の少年が年長者に対して駒落ちで堂々と渡り合ったのだから、いかに宗看が天才かということである。
兵助は機嫌がよさそうな宗看にひと安心し、本題を告げた。
「ほう立摩どのが七段とな。よろしいこの勝負お受けしよう。あとはこちらで手配いたすから日取りが決まれば後日兵助に使いをやるとしよう」
宗看は眉一つ動かさずあっさりと受け入れた。
かつて敗北を喫した経験があり、今では在野最高峰の立摩の挑戦とあっても、宗看にとっては少しも動じることはない。
それだけ今の己の将棋に自信があるに違いない。
「日取りが決まるまでの間、お主が立摩どのの稽古相手をしてやってくれよ」
立摩の勝負勘が鈍らぬようにと気遣いを見せるほどで、兵助は随分と余裕があるなと感心したが、実はこれにはもっと深い思慮が宗看にはあった。
それは、在野における、森田宗立から宗太夫・立摩へと続く将棋家以外の独自の系譜を、兵助にも繋いでいってほしいという願いがあったのである。
在野棋士の活性が、将棋の活性に繋がるのであり、常に将棋界の向上を願う宗看らしい発想であった。
宗看の言いつけ通り、兵助と立摩は連日練習対局をして過ごした。
偶に将棋家の門人である旗本(一説には有浦印理と言われている)が立摩との対局を求めてやって来たが、立摩は手の内を知られることを怖れてかあまりいい顔はしなかった。
その点同じ前田家である兵助とはやり易かったのだろう。
手合いは立摩の香落ちでいい勝負になるといった風であった。
立摩は口数が少ないほうで、盤を挟んでいても余計な会話はなかったが、対局を重ねていくにつれてどことなく立摩の人柄が兵助には分かってきたような気がした。
立摩は七段を望む理由を一切明言せず、そこには何か深い事情があるのではないかと兵助は感じ取っていたが、結局聞けずにいた。
数日後、将棋家からの便りが兵助のところへもたらされた。
対局日は五月十二日で、場所は寺社奉行井上河内守正之の中屋敷となっている。
寺社奉行は、幕府職制に於いて将棋家を所管する奉行所であり、井上河内守は言わずと知れた将棋大名である。
日頃から、将棋家は直属の上司のような存在である寺社奉行とは、良好な関係を保つ必要があった。
宗看は将棋家元として、在野最強棋士名村立摩の七段を懸けた争い将棋を敢えて正之の屋敷をやることで、将棋家の印象を良くしようという策略があったに違いない。
政治的な面でも、宗看はこれまでの名人とは一線を画していた。
政治力も将棋家家格の維持向上のためには必要なことだったのである。
一方で、対局が河内守邸で行われることを知って、立摩の顔は曇った。
人生を左右する己の対局が、寺社奉行に対する接待の道具に使われることが不満だったのである。
立摩は兵助から手渡された将棋家からの書状を手にして、静かな怒りに震えているようだった。
恐ろしいまでの気合と覚悟が、全身から沸き立つように見えた。
兵助は将棋家の門人であり、立摩とは同家中である。
双方に負けてほしくないという複雑な感情を抱えながら、対局までの日々の過ごしていた。
対局の前日の五月十一日、兵助は立摩の座敷へと呼び出された。
前日くらいは稽古を休むのかと思っていたが、立摩はこの日も変わらずに練習将棋を指したいのだという。
だが今日の対局は、これまでのものとは少し様子が違った。
「今日はお主が香を落としてくれ」
立摩は真面目な顔をして言った。
翌日の実戦を想定してのことであろうが、実力に劣る兵助が駒を落としたのでは勝ち目はない。
「私の香落ちでは稽古にならないのでは…?」
兵助は訝しんだが立摩の態度は変わらない。
言われるがままに兵助は香車を落としたが、序盤から必死で考えた見たものの、結局立摩の急襲を受けてあえなく敗北してしまった。
立摩居玉での急戦で、これまでは緻密な将棋を指していた立摩の棋風からすると、意外なほどの荒っぽさだった。
兵助はいいところなく負けてしまい申し訳ない気持ちでいたが、立摩のほうは満足そうに一人何やら頷いている。
この日はこの一局だけ指して、立摩は散歩に出かけてくると言って座敷を後にしてしまった。
兵助が一人盤の前で、立摩の指した手順を何気なく並べ直していると、そこに市之進の娘であるさよが、湯呑を下げにやって来た。
膝をついて湯呑を盆に乗せながら、
「名村様大丈夫でしょうか…」
と心配そうに呟いた。
兵助には、さよの言わんとすることが直ぐに分かった。
立摩は将棋を指している時、或いはそうでない時も、いつもどことなく寂しそうな空気を纏っている。
七段の免状を求めて意気盛んなようにはとても見えない。
さよは、立摩の身の回りの世話を通して、その陰を感じ取っていたようである。
「あとはもう見守るしか、我らにはできません…」
兵助は険しい顔をして、残された将棋盤を見つめていた。




