第九章 名村立摩③
「名村立摩様でございますね。主市之進はただ今不在にしておりますが、上がってお待ちください」
ぎこちない話し方で、町方から若党として雇われたばかりの奉公人であることは、立摩には直ぐ察しがついた。
それにしてもこの若党の話ぶりからして、やはり市之進は立摩の来訪を予期していたことが分かる。
立摩はそのことには触れず、兵助の案内するがままに屋敷内を歩いた。
市之進宅は江戸留守居役であるから、詰人長屋ではなく一軒の御貸小屋が与えられている。
間口六間の二階家で、部屋数は八畳二間、六畳二間、四畳半二間というなかなか立派な造りであった。
その内の一部屋に立摩は通され、そこで市之進を待つよう兵助に促された。
肩にかけた行李を下ろし、少し寛いだ気持ちで胡坐をかいて座っていると、兵助は少し離れた辺りに正座して、座敷を離れようとしない。
「そこで何をしておる?拙者に気遣いは無用。退って構わぬぞ」
立摩は兵助のことを思いやって言ったが、兵助はその場を動こうとはしない。そして、
「実は主市之進より名村様の将棋のお相手を務めるように仰せつかっております」
まだ幼さの残る笑顔を見せた。
他意はないのは明らかだが、立摩は兵助の発言に更に不審感を強めた。
「市之進どのは拙者が江戸へ参るということ、いつ知り申した?」
「さあ…。わたくしはただ命じられただけで生憎細かいことまで分かりかねます…」
兵助の話ぶりからは嘘をついているようには見えない。
この時の立摩には、師の宗太夫が弟子を案じて手紙を寄越したことなど思ってもみないことであった。
何はともあれ、市之進は立摩の来訪を知っており、気を遣って将棋を指せる若党を派遣したのであろうが、今は将棋家との勝負の前に気持ちが昂っているから、立摩は兵助と将棋を指す気持ちにはなれなかった。
だが兵助のほうは、立摩の心中など知る由もない。
将棋盤をせっせと運んできて立摩の前に据えた。
キラキラと眼を輝かせ、立摩との対局を待ちきれない様子でいる。
そんな兵助の姿を見ると、立摩は修業時代の自分を思い出した。
市之進と鎬を削っていたあの頃は、将棋を指すのが楽しくてたまらなかったはずだ。
城下に強い棋士が来訪したと聞けば、直ぐに飛んで行って対局を所望したものであった。
でも今は……。
「手合いはいかがいたしましょうか」
兵助の問いかけに立摩はハッと我に返った。
「む、ではそれがしの飛車落ちで参ろうか」
咄嗟に立摩は応えた。
さっきまでは将棋を指す気にはなれなかったのに、つい兵助の勢いに乗せられてしまった形である。
立摩には兵助の棋力は分からないから、年格好から言ってこれくらいならば無難であろうと適当に手合いを付けて、頃合いのいいところで負けてやろうと思っていた。
だが対局が始まってみれば、手心を加えるまでもなく、立摩のほうが成す術なく負けてしまった。
「飛車落ちとはチト見くびりすぎたかの」
立摩は誤魔化したが、内心では兵助がこれほどまでに指すのかと驚いていた。
「市之進どのが目をかけておる若党なれば、もっと慎重になるべきであったか。その方、段位はいくつであるか?」
立摩は何の気なしに問いかけた。
段位が分かれば、手合いも大体のところは分かるからである。
併し、兵助の返答は立摩には意外なものであった。
「わたくしは段位を持っていないんです。将棋家に教わっていますが、免状にはあまり興味はなくて…」
兵助は恥ずかしそうに頭を掻いた。
立摩は兵助の応えに胸を衝かれる思いだった。
立摩は故あって七段の免状を望んでいる。
だがこの眼の前に座る若者は、実力から言えば既に高段を取得してもおかしくはないはずなのに、免状などに目もくれず純粋に将棋を楽しんでいる。
その姿は立摩には眩しく見えた。
併しこの兵助の姿は、今の立摩にとっては心を惑わす幻影のようなものだったかも知れない。
今は何としても七段を取得しなければならない理由がある。
立摩は兵助に向かって、問わず語りに強い口調で言った。
「拙者はいずれ近い内に、七段の免状を懸けて将棋家へと挑む。市之進どのとお主に是非立会人を務めてもらいたい」
この時初めて、兵助は立摩が江戸へとやって来た理由を知った。
突然の宣言に何と返答すべきか迷っていると、丁度市之進が所用を終えて帰宅したようだった。
廊下を渡る足音が聞こえてきて、兵助は少しほっとしたが、立摩の顔は厳しいままである。
旧交を温めるつもりでいた市之進だったが、二人がいる座敷に入るなり、部屋の空気が重苦しいのを感じて何が起きたかと狼狽した。
その様子を察した立摩のほうが、取り繕うように市之進に向かって、
「市之進どの、たった今この若者に伝えた通り、わしは七段の免状を懸けて将棋家へと挑むつもりだ。そなたには手筈を整え立会いをしてもらいたい」
口調は相変わらず厳しかった。
「免状?その為だけに…?」
市之進は立摩の棋力をよく知っている。
立摩であれば、七段の免状を所望することは何ら不思議ではない。
併し、宗太夫の推薦状もなく、江戸方への連絡も一切なしに、一人でやって来るのは些か不審だった。
「市之進どの、我らは古い付き合いなれば、それに免じて何も聞かずにおいてくれ」
立摩が市之進の心中を察して先回りして言った。
立摩の顔は何故か苦悩に満ちている。
その様子に市之進も返す言葉がなく、黙って受け入れるほかなかった。
立摩には市之進宅の一室があてがわれ、そこで暫くの間過ごすことになった。
藩には公にしていない、私的な滞在という形である。
七段の免状とあれば、将棋家側の先例に従い、正規の手続きを経なければならない。
よって兵助を使者に立て、正式に対局の申し入れをすることになった。




