第九章 名村立摩②
立摩の役宅は、富山城下の東のはずれ、鼬川に近いところにある。
藩から将棋指南役として拝領した屋敷ではあるが、食客扱いであるから、広さは下士のものと大きな差はない。
立摩が自宅へと戻ると、老女中のよねが直ぐに出迎えに来たが、その顔は浮かない。
「志津はいかがであるか?」
立摩も疲れた顔で聞いた。
志津は立摩の妻である。
立摩はこの時齢三十七で、志津も同い年であった。
二人の間に子はなく、立摩は孤児であったから両親もなく、よねがいつも身の回りの世話をしてくれているが、微禄ゆえに他に奉公人は雇えず、家内はいつも静かであった。
「あまり具合はよろしくないようで…」
よねの応えは立摩の予想していた通りであった。
志津は出会った頃は至って健康であったが、立摩に嫁いでから少しすると、悪い病がついて病床に臥せることが多くなった。
特にこのところ体調が思わしくないらしく、床から起き上がれないままでいる。
「そうか…」
立摩は沈んだ表情で呟くと、着替えも後にして志津の休む部屋へと歩みを進めた。
病床の志津は立摩が帰ってきたのを認めると、僅かに微笑んでその身を起こそうとしたが、その顔色は優れなかった。
「具合はどうじゃ?」
立摩は優しく妻の身体を気遣った。
併し志津は、何も応えずに立摩の顔を見つめている。
「宗太夫様のところで何かございましたか?」
志津は不安げな表情を浮かべて、か細い声で言った。
立摩は普段と変わらぬ調子で話したつもりだったが、妻の眼にはいつもとは違う何かが映ったのだろう。
「いや何も…」
志津は夫が嘘をつけるような人ではないことをよく知っている。
宗太夫のところで何事かあったことを直ぐに察したが、立摩が語らぬのであるからこれ以上詮索するつもりはなかった。
だが困ったことがあれば何でも打ち明けてくれればいいのに、自分がこの様な病身であるから、夫に何でも背負わせてしまっていることが、志津には心苦しかった。
「そなたは心配無用じゃ。わしのことは気にせずゆっくり療養してくれればよい」
そう言い残して、立摩は座敷を後にしたが、志津には、立摩の後姿から、何か思いつめた苦悩が見て取れるのである。
立摩は宗太夫との面談をしてからというもの、藩主に出仕を請われても病と偽って家から出るなくなった。
自室に籠りきりで将棋の研究をしているようで、一日に数度は志津の顔を見にやって来るが、立摩の面貌は日に日にやつれていくように見えた。
そして一ヶ月が経過した或る日、立摩は志津のところへとやってきて、
「志津よ、わしはお役目にて江戸へ参らねばならん。暫くの間富山を留守にするが案ずるでないぞ。きっと大きな土産を持って帰ってくるからな」
「……」
お役目などで江戸へ行くのではなく、目的は七段の免状であることなど、志津はとうに気づいている。
女の身である志津からすれば、将棋の段位などどうでもいいことではないか、と思う。
夫をそこまで虜にする将棋というものが、志津には恨めしい。
本当はずっとそばにいてほしいのに、ここ一ヶ月の夫の姿を見ると、とても言葉に出すことはできなかった。
志津は笑顔で立摩を送り出した。
立摩は供も連れず、たった一人で富山を出た。
富山から北國街道を進み、追分宿で中山道へと分岐する。
そこから江戸へ、足掛け十日程の旅である。
立摩は江戸へと着いてみたものの、慣れぬ土地でまずはどうしたらいいか思い悩んでいた。
埃の被った打裂羽織にたっつけ袴の姿で、顔は日に焼けて赤茶けている。
過去に昇段試験を受けたことはあるから、伊藤家のある場所は知っているが、このままの旅装でいきなり行くわけにもいかない。
昇段審査の対局前には、まず身支度を整えねばならない。
藩邸に行けば済むことだが、私用の旅であるから連絡なしに顔を出すのも憚られ、思案に暮れながら江戸の町を彷徨っていた。
その時、立摩はあることを思い出した。
かつて添田宗太夫の弟子として、同じ釜の飯を食い、共に鎬を削った仲である浦上市之進が、聞番として江戸定詰になっているはずである。
彼ならば、多くを語らなくともこちら側の事情を察して穏便に済ましてくれるに違いないという確信があった。
時刻は既に申の刻(午後四時頃)を過ぎている。
藩邸の通用門前まで来てみたものの、門番が槍を構えて睨みを利かせている。
一瞬怯んだが、立摩にはどうしても七段の免状を取得しなければならない理由がある。
こんなところで音を上げるわけにはいかないと、思い切って門番に名乗ると、
「これは立摩様お待ちしておりました。市之進様より伝え聞いております」
と呆気なく門を通され、市之進宅まで案内をしてくれた。
立摩は、なぜ市之進が自分の江戸来訪を知っているのか疑問に思ったが、まずはホッと胸をなでおろした。
門番に市之進役宅の玄関先にまで案内された。
御殿ではなく、市之進個人宅であるから幾分気は楽ではあるが、市之進が出てきたら何と説明すればいいかを思うと緊張がないわけではない。
用人である甚兵衛という壮年の武士に取次を頼むと、奥から、市之進ではなく一人の若党がやって来た。
兵助である。
それまで緊張していた立摩であったが、この若党の姿を見た時には何となく気持ちが和らいだ。




