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第二章 東海道中記①

 五日後、兵助・清三郎・新兵衛の三人は、揃って日本橋を出立した。

 民謡『お江戸日本橋』で「お江戸日本橋 七つ立ち」と謡われるように、兵助たちも早朝まだ暗い内に大坂へ向かって歩き出した。


 兵助と清三郎は初めての旅であったから、内心ではひどく興奮していたのだが、新兵衛の言いつけを守って、長屋を出る時にはひっそりと政五郎とおさきの二人が見送ることとなった。


 長屋の木戸脇まで来て、

「おとっつあん、おっかさんじゃあ行ってくるよ」

「気を付けるんだよ。水に当たるといけないから、ちゃんといつも水筒に入れとくんだよ。それと清さん、道中何かあったらこの子を頼むよ」

「おう何も心配することはねえよ。まあ大船に乗った気持ちで待っててくれよ」

 清三郎は胸を叩いてみせたものの、内心ではいざとなったら自分も新兵衛に頼ればいいという気持ちでいる。

 いずれにせよ兵助と清三郎は、心配するおさきをよそに笑顔の旅立ちとなった。


 旅の道を往く三人は揃いの格好で、菅笠すげがさ合羽かっぱを羽織り、手には手甲てっこうをはめている。

 股引ももひき履きのすねには脚絆きゃはんを付けて、足には紺足袋に草鞋履き。どこで調達したのか知らないが、どれも上等なものであった。


 兵助と清三郎は、おさきに言われた通り腰に瓢箪ひょうたんでできた水筒をぶら下げている。

 新兵衛だけは、護身用に許されたという長脇差ながわきざしを腰に手挟たばさんでいた。

 清三郎は「あんな重いものを身に着けて道中を歩くなんて気が知れねえ」と呆れかえっているが、新兵衛は余程旅慣れているのか、足取りは至って軽い。

 その新兵衛は、商店の若旦那だというのに、供も連れないでやって来た。

 だが傍から見れば、兵助と清三郎が従者に見えただろうから、一行に不自然なところはなかった。


 まだ薄暗い江戸市中を、三人は他愛のない話をしながら歩いていく。

 新兵衛は商売のことが頭にあってか、なるべく用のないところは素通りしたいのに、兵助と清三郎は、懐の心配がないから、なるべくゆっくり色々なものを見物して、土地の美味い名物でも食べてやろうというつもりでいる。

 清三郎などはまだ午前だというのに、品川で夜まで粘ろうとしたくらいである。

 それを咎める時の新兵衛の眼つきは、底光りした酷く厳しいもので、とても普段は人当たりの良い商人とは思えなかった。


 初日は何とか保土谷の宿場までたどり着いた。

 ここまではおおむね予定通りの行程である。

 二日目に平塚へと投宿した際のこと、ちょっとした事が兵助たちの身に起きた。


 平塚宿は、伝馬継立負担軽減のため、慶安四年に加宿として成立した宿場で、当初は八幡新宿と呼ばれていたのが、明暦元年に平塚新宿という名に改称された。

 東海道沿いに左右帯状に家並みを成し、その長さは十九町五間ほどある。


 街道を挟んだ南側は、幕府直轄の御林が海辺まで連なって美しい景観を創り出していて、北側の御林の奥には田畑が広がって、如何にも田舎らしい長閑のどかな景色だったという。

 次の宿場である大磯までは、僅か二十七丁しか離れていなかったから、規模は小さく侘びた風情のある宿場であった。


 兵助たちは平塚宿の、ほこりの被った流行らなそうな旅籠はたご、小松屋に宿を取った。

 そこで旅装を解いて、暫し将棋談義などをしてくつろいでいると、突然宿の主人が、平塚宿の問屋といやを務める米屋与兵衛という男を連れてきた。


 問屋とは、宿場を取り仕切る最高責任者のことで、平塚では三名が選任されていたとされる。

 そのうちの一人が与兵衛らしいが、田舎だからこそ、その権力は無視できないものがある。


 三人は問屋の急な訪問に驚いていると、与兵衛は自ら説明を始めた。

「へえ実は江戸からえれえ将棋の先生が来さってると小松屋の主人に聞きめえした。おらは三度の飯より将棋が好きでたまらねえのでごぜえますだ。是非とも一局教わりてえと思って、こうして飛んでめえりました。どうかご指導をおねげえいたしますだ」

 与兵衛は小松屋の主と共に新兵衛に対して頭を下げた。


 どうやら、部屋での将棋談義を小松屋の主に聞かれていたようである。

 主は話の内容から、兵助一味を将棋の師匠と勘違いし、土地一番の将棋愛好家である与兵衛にわざわざ報せに行ったらしい。


「残念ですが、我らは将棋の先生ではありませんよ」

 新兵衛が諭すように言うと、与兵衛は酷く落胆したようで、手を膝についてガックリと項垂うなだれている。

 そのあまりの落ち込みっぷりを見かねたか、清三郎が脇から新兵衛に耳打ちをした。


「確かに俺たちはえらい先生じゃねえが、そこいらの将棋指しにゃ引けは取らねえ。一局だけでも相手してやりましょうや。新兵衛さんにも俺たちの腕を見て貰いてえしね」

 この提案に、新兵衛は何か深く考え込んでいるようで、直ぐには返答しない。


「おめえも将棋家の直弟子だって言って相手してやれよ」

「おれはまだ弟子じゃないんだからそんな嘘をついちゃまずいよ」

 清三郎の声は必要以上に大きかったらしく、与兵衛たちにも筒抜けだった。

 子供のように眼を輝かせて、新兵衛と清三郎を見つめているが、三人の中で兵助が一番強いということには、まだ気づいていない。


「そうですね…」

 新兵衛はそう頷いただけで、まだ良いとも悪いとも言っていないはずなのに、与兵衛は盤を持ってこさせて既に対局する気満々である。

 それから、

「じゃあひとつこいつでおねげえしますだ」

 与兵衛は唐突に、人差し指を一本立てて新兵衛の顔の前に突き出した。


「なんですか、これは?」

 新兵衛は当惑した様子で、その指をしげしげと眺めるばかりでいると、押しのけるように、清三郎が横から口を出して、

「いやそいつはちょいと大きすぎるんじゃねえのかい?」

「そったなことありめえすか。おらたちはいっつもこいつで指しておるべえ」

 二人の会話を聞いて、新兵衛にも何かピンと来るものがあった。


「これはつまり印将棋を指そうということですか?」

「へえその通りでごぜえますだ。賭けなきゃおらはやる気になんねえ」

 与兵衛は悪びれることなく堂々と言った。

 それに呼応するように、清三郎も言葉を続けた。

「だが一両ってのは随分と高いぜ。俺は別に構わねえが、本当に払ってくれるんだろうな?」

「い、一両なんてとんでもねえ!一朱に決まっとるべえ。おらたちにとっちゃ一朱でも大金にごぜえますだ。先生は飛車落ちでお願げえしますだよ」

 印将棋と分かってガッカリしたのは兵助である。

 土地の将棋指しと指せると思ってことに喜んでいたのに、賭け将棋とあってはお役御免となる。

 兵助は茶色く毛羽立った畳に、つまらなそうに腕枕で横になってしまった。


 一方新兵衛は、

「なるほどこんな田舎でもか…」

 と、ブツブツ独り言を言いながら顎に手を当てて何やら考え込んでいる。

 そして急に、与兵衛に対し、印はよくやるのか、かける金額はどれくらいで、この辺りに印をやる者はどれくらいいるかなどを矢継ぎ早に質問し始めた。

 質問が一通り終わると、こちらも急に興味を失ったかのごとく、与兵衛と清三郎にそっぽを向いて、帳面に何かを記している。


「なんだか知らねえがさっさと一局やりましょうや」

 清三郎が痺れを切らして与兵衛との対局を始めた。

 結果からすると、二人は全く勝負にならなかった。

 清三郎の飛車落ちで一局、飛車香落ちで一局指したが、いずれも清三郎の勝ちとなった。

 だが与兵衛は、江戸の将棋指しに教わることができたと喜んでおり、清三郎も一朱銀を手にして喜んでいる。


 兵助は途中から、在郷の者がどのような将棋を指すのか脇から観察してみたが、与兵衛の駒組は粗く、江戸で指されている将棋とは明らかに洗練度が違うように見えた。

 情報の伝達が遅いこの時代、将棋家のお膝元である江戸と、遠く離れた田舎では、やはり将棋の質が違う。

 言い換えれば、その土地土地で指されている将棋に特徴があるとも言えるかもしれない。

 それだけに兵助は、京や大坂ではどのような将棋が指されているのか、楽しみでならなかった。


 この平塚宿で起きた出来事と同じようなことが、どの宿場でも度々あった。

 こちらが将棋を指すと分かると、土地の腕自慢が勇んで勝負を挑んでくる。

 中には助郷である近隣の村からわざわざ来る者もあった。

 誰もが土地では天才と呼ばれるほどの実力という触れ込みであったものの、その多くが清三郎にさえ歯が立たない。


 大半が賭け将棋だったので、兵助は指さずに脇から見ていることが多かったのだが、いかにヘボ将棋であっても、兵助はそれを馬鹿にするようなことは決してない。

 将棋を通じて、全国の見知らぬ者たちとも交流できることが何より嬉しかった。


 そして新兵衛といえば、清三郎の賭け将棋に是とも非とも言うことはなく、いつも遠巻きに在郷棋士との勝負を眺めているだけであった。

 珍しいものを見るかのように、ある種の興味を持って将棋を観察していたようである。

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