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第七章 秘密と陰謀③

 信祝を下がらせた後で、

「やれまた伊豆の石頭が出おったか」

 と吉宗は独り溜息をついた。


 確かにこの治世に於いては、質素倹約を旨とし享楽は慎むべきと触れており、吉宗自身も博奕の取り締まりには苦心しているところではある。

 だから、将棋家の取り潰しは極端にしても、一度市中の現状を知らなくてはならないだろうという気持ちはあった。


「河内はおるか?河内をこれへ」

 河内とは井上河内守正之のことで、この時将棋家を所管する寺社奉行に在任している。

 この日は丁度月番に当たり、登城して芙蓉之間ふようのまに詰めていた。


 御用取次より報せがあって、正之は何事かと御座之間へと向かおうとすると、途中大廊下にて対面から、老中信祝が歩いて来るのが見えた。


 正之は自分のほうが身分が下であるから、端に控えて信祝を通したが、その時、

「余計な手出しをするではないぞ」

 と聞こえた。

 横目で鋭く正之を睨みながら、信祝は歩みを止めずに進んで行く。

 近習から見れば二人の間には何の会話もなかったように見えただろう。

 だが正之ははっきりと、信祝の毒気を含んだ言葉を聞いたのである。

 嫌な汗をかきながら、正之は御座之間へと膝行した。


 落ち着く間もなく吉宗は人払いをし、部屋には吉宗と正之の二人しかいない。

 吉宗は思いのほか厳しい表情で、正之のほうは緊張で胃が痛くなる思いであった。


「河内、その方昨今の将棋流行の風潮について何と心得る?」

 政務に関する呼び出しと思っていたのに、出し抜けに将棋の話をされて、正之は拍子抜けした。

 趣味の談義とあれば緊張は無用である。

 正之は汗を拭いながら、日頃から思っていることを素直に述べた。


「将棋の流行、大変結構なことでございますな。あれほど人を夢中にさせる遊芸もござりますまい。この河内めも毎日のように指しております。加州一門には相当な猛者がいるとも聞きますから上様も負けてはいられませぬぞははは」


 実はこの井上河内守正之、将棋家を所管する寺社奉行でありながら大の将棋愛好家であり、個人的に将棋家の門人として宗看・七郎より指南を受けているほどなのである。

 しかもなんと、宗看より五段の免状を許されており、全国的にも強豪の扱いであった。


「そちに将棋のことを問えば斯様な答えになるか…」

 吉宗は苦笑した後、再び厳しい顔つきに戻って、

「先ほどさる者より、将棋流行により市中の治安が乱れ、諸家の役目も疎かになっているとの注進があった。それはまことであるか?」


「伊豆守だな…」と心の中で呟いて、正之は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 正之も、信祝が将棋に対して快く思っていないことは風の噂で耳にしていた。

 かと言って、これまで直接何かを言われたということはない。

 だが廊下での信祝の態度を見るに、いよいよ何らかの行動に出るつもりなのは想像ができた。


「印将棋の取り締まりについては町奉行の管轄にございます故、何ともはっきりと申し上げることは適いませぬが、それがしの周りにおきましては、役目が疎かになるなどという醜聞は流れてきておりませぬ」

 将棋に対する風当たりが強くならぬよう正之は必死に取り繕って答えたが、これで吉宗の眼を誤魔化せたとは到底思えなかった。


「さようか…」

 そう言ったきり、吉宗は何かを考え込んでしまった。

 居心地の悪い沈黙が続いた後、

「もう下がってよいぞ」

 と正之に向かって下知した。

 決して機嫌が悪そうな様子ではない。


 誰もいなくなった御座之間で、吉宗は独りまだ何かを思案している。

 どれくらい時間が流れただろうか。

 小姓を呼んで文箱を持ってこさせると、吉宗はさらさらと何やら手紙のようなものをしたため、それ畳んでを手に持ったままで座を立った。


 御座之間を出て、大奥との境にある御駕籠台まで来ると、吉宗はそこでぼんやりと立って庭を見るともなく眺めている。

 手には手紙が握られたままだ。

 すると庭に、左手ゆんでに竹箒を持ち、羽織袴に紺足袋を履いた一人の男がどこからともなくやって来て、吉宗の前に控えた。

 その男は紛れもなく、新兵衛その人であった。


 吉宗は手紙を新兵衛に渡すと、新兵衛はその場でそれを開き、読み終えると再び吉宗へと返上した。

「よろしく頼むぞ」

 吉宗は無表情のまま新兵衛に告げた。新兵衛も、

「御意」

 とだけ応えて、あっという間に庭からその姿を消していた。


 新兵衛の真実の名は倉地新兵衛といい、八代将軍吉宗直轄の御庭番として、この時遠国御用(おんごくごよう)に命じられていたのである。


 御庭番とは、吉宗が設置した幕府役職の一つであり、普段は大奥の御広敷に詰め、奥に植木職人などの人足が入った時にこれを取り締まるのを表向きの職務としていた。

 だがこれはあくまでも表向きの職務であり、実は裏では将軍の命を受けて諸大名や幕臣の動静を探り、江戸市中や世間の様子を伺う諜報活動を主な活動としていたのである。

 身分に関係なく将軍に直接目通りし、将軍自身の意思を受けて行動するという特殊な立場であった。


 新兵衛はこの時吉宗より、東海道及び大坂等大都市における博奕・印将棋の現状を調査報告するよう命じられていたのである。

 新兵衛が駿府にて武家屋敷より出てきたのは、駿府在住の幕府代官より路銀を調達したためであった。


 浜松城下を素通りしようとしたのは、松平伊豆守信祝が三年前に浜松へと移封になり、国許には不在であるもののどのような邪魔をして来るか分からないために警戒したためであった。


 名古屋では星野織部が新兵衛のことを公儀隠密ではないかと疑っていたが、通常御庭番は二人組で行動するとされていたから、兵助のような少年を連れた三人組が隠密だという発想には至らなかったようである。


 大坂へ棋書の版権を購入しに行くというのは、もちろん兵助たちを引き入れるための嘘であった。

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