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第七章 秘密と陰謀②

 眼の前にいた男は、さっき別れたはずの新兵衛であった。

「新兵衛さん…?」

 兵助が困惑した様子で、声にならない声を発した。


「あんたやっぱり俺たちを騙していたんだな…。なんだかずっとおかしいとは思ってたんだ。やい一体何が目当てだってんだ!俺たちを捕まえてどうするつもりでえ!」

 清三郎は悔しそうに新兵衛を睨みつけた。

「兵助に清三郎、これには深いわけがあるのだ。お主らをたばかったということではない。話せば長くなるが…」

 新兵衛はさっきまでの商人の言葉遣いから、武士のような話し方に変わっている。

 装束は着流しに羽織だが、腰には脇差が一つ差さっていた。


       *


 時は遡り、三人が江戸を発つ一ヶ月ほど前、江戸城ではある出来事が起きていた。

 或る日の午前、八代将軍徳川吉宗は、江戸城黒書院北側御座之間(ござのま)にていつも通り政務を執っていた。


 すると、御側御用取次おそばごようとりつぎ加納角兵衛より、老中松平伊豆守信祝(のぶとき)が参上したとの報せがあった。


 政務に於いて、重要な案件があれば老中が直に将軍へ相談に上がることはさして珍しいことではない。

 ひと段落したところで角兵衛より声が掛り、信祝は御座之間へと膝行しっこうした。


「そちが老中に就いてからもう一年にもなるか。そちの忠勤振り、予の耳にも届いておるぞ。流石は智慧ちえ伊豆の血を引くだけあるな」

 吉宗は自ら進んで政務を執るだけあって、臣下への留意も欠かさない。


「勿体なき御沙汰にございます」

 信祝はうやうやしく頭を垂れた。が、喜びは少しもそのおもてには現れない。

 能面のような無表情さが、却ってその透徹した知性を浮き立たせている。

 信祝はこの時五十手前。

 老中として正に天下の趨勢すうせいを定める人物である。


「今日は何用だ?さしたる急用もなきように見えたが」

「お畏れながら、この度は上様へ折り入って相談したき儀があり参った次第にございます」

 いつも通りの丁寧さで信祝は応えたが、伏せた顔には険しさが垣間見える。


「この伊豆が過日大坂城代を勤めました折、上様の治政を揺るがしかねない大事を数多あまた目の当たりにしました。いつかはそれを正さねばならぬと思い続けておりましたが、此度こたびようやく善き方策を見出した次第にござりまする」

「予の治政を揺るがす事態?なんだそれは。有体に申せ」


 信祝の口調が思いの外重いので、吉宗の眼も次第に厳しい光を帯びるようになっている。

「それは…民の間に蔓延はびこる博奕の数々でございます。公儀より質素倹約を厳しく言いつけて居るにもかかわらず、市中にては多くの民が博奕にうつつを抜かし、享楽に傾き、生業を疎かにし、金銭を浪費しております。特に悪しき因習は将棋でございます。これは町方だけでなく武士の間でも広く浸透しており、果ては大名旗本に至るまでが将棋に熱を上げ、役目奉公を疎かにする始末。事の落着には、将棋家のお取り潰しを見るに手立てはございますまい」


 松平伊豆守信祝の父祖は、智慧伊豆として世に知られた松平伊豆守信綱である。

 信綱は三代将軍家光の知恵袋として、春日局・将軍家剣術指南役柳生但馬守宗矩と共に「かなえの脚」の一人に数えられた傑物だった。


 その発明抜群にして公儀への忠勤を第一とし、幕藩体制の確立に於いて功甚だしかったが、理屈を優先し融通の利かない政治姿勢は、同僚から「才あれど徳なし」として評されてしまうことがあった。


 忠勤の邪魔になるとして特に遊芸を軽んじ、『事語継志録じごけいしろく』には「信綱公常に茶の湯にても、謡舞にても、碁・将棋類一色も、数寄好み給ふ事なし。毎度隙の時分は、出入りの心安き衆を集め、色々理屈咄をなされ、或いは公事沙汰の事を問答批判して、慰みとして日を暮らし給ふ」とある。


 信綱は特に将棋を好まなかったらしく、次のような挿話が残っている。


 或る日、御守殿にて蚊の大量発生があり、三代将軍家光より蚊よけのためにかやの木を早く焚くよう上意があった。

 併し、急に言われても直ぐに榧の木の用意ができない。

 近習の者が慌てふためくところ信綱が現れ、その上意を聞いて、

「早く御納戸より将棋盤を取り出し割りて焼かれよ」

 との助言があった。

 上質な将棋盤は榧材でできているのを信綱は知っていたのである。


 これによって表向きは無事蚊を退治することができ、その裏で役目の妨げとなる厄介な将棋盤も粗方処分できたとあって、信綱は秘かにほくそ笑んだという。


 その信祝は、父祖信綱に極めてよく似た性質で、同じく知恵者であり、公儀に対する忠心も見事であると専らの評判であった。

 それ故信祝は先祖の衣鉢いはつを継いで、役目の邪魔となる将棋に対して厳しい取り締まりを実行しようとしていたのである。


「それはならぬぞ。将棋家には権現様以来徳川より禄が下されておる。予も将棋から治世を学ぶべきと家臣に説いているほどだ。咎もない将棋家を取り潰しに致すなど筋が通らぬではないか」

「お畏れながら申し上げますが、大名旗本が将棋にかまけ、役目を疎かにいたすは将棋家の発行する免状を取得したいがためと聞いております。それに現今の将棋流行は、当世名人伊藤宗看並びにその舎弟七郎の両二名が武家や民衆の心を掴んで離さぬ故に起きたこと。さすればまずは将棋家の取り潰しが世の泰平には肝要かと心得ます」

「もうよい。その方が言うことは予も肝に銘じておく。また何か沙汰があればその時は予も相応の処置を致す。今日はもう下がってよいぞ」

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