第六章 神様の悪戯④
このあと数日の間、新兵衛は一人大坂で馴染みの呉服屋に投宿すると言って単独行動をし、兵助と清三郎は堀江を拠点にして大坂の町を堪能した。
兵助たちは大助や喜右衛門、或いはその紹介を受けて様々な民間棋士との対戦をして過ごしたが、新兵衛は独り大坂の町中をいろいろと巡っていたようである。
当初の目的である棋書版権の獲得ができたのかは不明だが、兵助たちも特に気に留めることはなかった。
さていよいよ大坂を去ることになった時、喜右衛門と大助が大坂は高麗橋のところまで見送りに来てくれた。
「兵助よ、一棋斎も言うとった通りお前は将棋の神さんに好かれておるのかも知れへん。わしを驚かすような立派な棋士になるんやで」
多くの棋士を見てきた喜右衛門の慧眼から見ても、兵助の将棋には光るものがあったのだろう。
そして大坂での経験は、また一つ兵助を成長させたに違いなかった。
兵助は喜右衛門に向かって力強く頷いて、名残惜しい気持ちを胸に大坂を発った。
帰り道、往路とは異なり、船便を利用せずに陸路で京街道から東海道へ出ようと新兵衛は考えていたようだが、突然清三郎から遠慮がちに提案があった。
「新兵衛さん、悪いが京にもちょいと寄っちゃくれねえかい?一晩だけでもいいんだ。そいつが無理だってんならちょいと通りすがるだけでも構わねえ」
「それは別に構いませんが…。清三郎さんが京へと行きたがるとは思ってもいませんでした。どこか好い遊び場でもご存知なんですか?」
「そ、そんなんじゃねえよ。ちょいと寄りてえところがあるってだけよ」
清三郎は直ぐに話題を逸らしてしまったが、兵助も一度は京に行ってみたいと思っていたので反対する理由はなかった。
三人は京街道を進んで淀まで至り、そこから淀堤を経て伏見まで出た後、鴨川に添って北上して京は五条大橋までやって来た。
橋の袂にある茶屋でひと休みをしていると、清三郎は、
「ちょいと買いてえものがあるから失礼するよ」
と、独りでそそくさと買い物に出かけてしまった。
その姿があまりにも怪しかったので、兵助は新兵衛をそそのかして一緒に後をつけることにした。
清三郎が真先に向かったのは祇園の辺りで、道中に印将棋で得た路銀も懐にはあるだろうが、昼間からお座敷に上がるとも思えず、兵助と新兵衛は訝しんだ。
二人がこっそりと路地に隠れて見ていると、清三郎は祇園の並びにある一軒の店に入った。
店の屋号は高島屋喜兵衛と書かれている。
軒先には赤い幟がぶら下がっていて、どうやらそれが店の看板らしい。
だがそのような看板は江戸では見かけたことがなかったので、兵助には何の店かさっぱり分からない。
「ははあなるほどね。清三郎さんも隅に置けませんな」
新兵衛は何かに気づいて納得した様子である。
兵助は新兵衛に言いつけられて、店の前で清三郎を待ち伏せることにした。
待つこと暫し。
清三郎が満足そうに暖簾をくぐって出てきたところに兵助が立ちはだかって行く手を遮った。
「な、なんでえてめえら。待ち伏せみたいな野暮なことしやがって」
焦った様子の清三郎の小脇には、小さな包みが抱えられている。
「清さん何買ったんだい?」
兵助は単純な疑問として聞いてみただけだったが、
「あ、いや大したもんじゃねえよ。ちょいとした土産物よ」
「ならいいじゃないか見せてくれよ。何買ったのさ」
「ば、馬鹿あまり引っ張るんじゃねえや。高けえんだぞ落っことしたらどうすんだ。分かった言えばいいんだろ。紅だよ。おりんの奴に土産を頼まれたから買ったまでのことよ」
この時清三郎が買ったのは、小町紅と呼ばれる京で作られる良質な紅であった。
当時の口紅は、紅花に含まれるほんの僅かな赤色色素を抽出し、精製を何度も繰り返すことによりその美しい色が作られていた。
その手間故に良質な紅は非常に高価であり、とても庶民の買える値段ではなく、主な購入者は公家や、武家の中でも良家の娘、豪商の婦女子、名の売れた遊女など限られた者ばかりであったとされている。
最上の紅は、図柄の描かれた磁器製の猪口や、蛤の貝殻などの内側に塗られて販売されていて、その状態で自然乾燥させると、赤色ではなく玉虫色の輝きを放ち、微量な水分を含む筆に取るとたちどころに鮮やかな紅色に変化するのだという。
いくら高級な紅と雖も、兵助にとってはわざわざ隠し立てする程でもない話で、これ以上の詮索もなく、京で一晩を過ごしてから三人は江戸への帰路についたのだった。




