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第一章 相模屋新兵衛②

 政五郎が、胡坐あぐらで腕を組んで、つまらなそうな顔をして座っている。

 そしてその前には、正座をして小さくなっている兵助の姿がある。

 父はさっきからずっと口をつぐんだままで、一言たりとも言葉を発しようとはしない。

 そんな二人から少し離れて、母のおさきが心配そうに様子を伺っている。


 兵助が上方行きの話を恐る恐る切り出した時、意外にもおさきのほうが賛成をした。

 タダで上方へ行けるのだったら、こんな好機は滅多にあるもんじゃないから是非行ってくればいいと、一も二もなく賛成した。

 一人息子に対して、どちらかというと過保護なところのあるおさきだから、兵助はむしろ母のほうを心配していたのだが、やはり町家のおかみさんというのはどこか合理的で現実的な考え方を持っているのだろう。


 そして、兵助の事前の予想とは裏腹に、この話を聞いて不機嫌になったのは父の政五郎のほうであった。


 兵助は、越中富山藩士浦上市之進や、天才算学者久留島喜内(くるしまきない)と出会って以来、これまでの将棋一辺倒の生活を改め、手習いにも随分励むようになっている。


 喜内は詰将棋創作の名手でもあり、兵助は一時期毎日のように喜内の算術指南所に通っては、門人たちに混じって喜内お手製の詰将棋を解いていた。

 そんなことをしていれば、嫌でも喜内の算学講義が耳に入ってくる。

 知らず知らずのうちに算術にも興味を抱き始めて、最近では算盤もすっかり上級である。

 市之進は、兵助に対して書や素読の稽古をするようしつこく言いつけ、月に一度は試験を課すなど、何故だか厳しい態度を見せているので、これも真面目に取り組んでいた。


 兵助は、元々が愚鈍な性質たちではないから、物事を吸収するのは早い。

 だから両親も、そんな自分を評価してくれていると思ったし、旅に出ることも渋々ながら賛成してくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。

 それなのに政五郎は、難しい顔をしてさっきから何も話そうとしない。

 良いとも悪いとも言わないので、兵助は困惑せざるを得なかった。


 実は政五郎には、心の中でずっと抱えていた心配事があった。

 政五郎は腕のいい大工職人で、自分の仕事には誇りを持っている。

 いずれは兵助に跡を継がせたいと思っていたから、最近になって兵助が勉学に励んでいることを、複雑な気持ちで眺めていた。

 もし自分の跡を継がせるならば、勉強なんかさせずに今の内から大工の修業をさせて技を仕込んでおく必要がある。

 当時の職人たちは、子供の内から修業を積むのが当たり前で、政五郎自身もそうやって腕を磨いてきた。


 政五郎には、ここで兵助が上方へ行くことになって、将棋にますます夢中になれば、大工を継ぎたくないと言い出すのではないかという不安があった。

 だが一方で、兵助の将棋の才能を伸ばしてやりたいという気持ちも、当然持ち合わせていた。

 政五郎も将棋を指すから分かるが、兵助の棋才は常人を超えた類稀なるもので、それを伸ばしてやるのも親としての務めのような気がしている。


 そして上方へ行って見聞を広めることは、兵助の人生にとって必ずや利益になるであろうことも、頭では分かっている。

 ただ気持ちの整理をつけるのに、時間が必要だった。


 やがて、長い長い沈黙の後、政五郎は太い息を一つ吐きながら、

「———お前の好きなようにしろ」

 ぶっきらぼうだが、険のある言い方ではなかった。

 この時既に政五郎は理解していた。

 兵助の将棋の才能は、この狭い長屋や深川だけに留めておくことなど、不可能であるということを。


 現に、今まさに江戸を飛び出して、将棋の腕一本で上方まで行こうとしている。

 この先どんな困難が待ち受けているか分からないが、兵助の将棋を最後まで応援してやろうと、政五郎は覚悟を決めたのである。


「お前の進みたい道を進んで行けばいい」

 政五郎が苦悩の末にやっと捻り出したこの言葉を、親の心を知らぬ兵助は、単に上方へ行くことに対する許可と受け取った。

「おとっつあんありがとう!」

 満面の笑みで喜ぶ兵助に背を向けて、政五郎は黙って煙管に火を点けた。


 翌日清三郎と連れ立って、兵助は再び両国広小路へと向かった。

 いつもの場所に立つと、間もなくどこからともなく新兵衛が現れた。

 まるで遠くから兵助たちを見張っていたかのようである。


「兵助さん清三郎さんお待ちしておりましたよ。よいお返事を聞かせて頂けると信じておりますが…」

 早速新兵衛から切り出すと、

「おう俺もこいつもあんたの商いを手伝わせてもらうよ。上方で一丁ひと儲けしようじゃねえか」

 清三郎が威勢よく新兵衛の肩を叩いて気合を入れた。

 路銀の心配のない旅だというので、すっかり浮かれている。

 そのせいで新兵衛の肩を叩くときには、思った以上に力が入ってしまったのだが、新兵衛は少しも痛がる様子はなく、むしろ着物の上からは想像できないほどがっちりした体型をしていて、清三郎の手が痛むくらいである。


「そうですね…兵助さんだけではなく清三郎さんもいたほうが手前の仕事も捗りそうでございます。それでは出立日はいつにいたしましょう。手前どもも少し支度に手間がかかりますので、日を開けて頂くとありがたいのでございますが」

「そうだな。じゃあ五日後はどうだい?俺たちは五日もありゃあ充分だ。ところで、俺たちゃ旅装束なんてのは何一つ持ち合わせちゃいねえんだが、そいつも用意してくれるのかい?」


 相変わらずの図々しさである。

 新兵衛は一瞬軽蔑の眼をしたように見えたが、ぐに商人あきんどらしい顔に戻って、

「そちらも手前どもで用意させていただきます」

 頷いたかと思うと、

「大事なことを忘れてました」

 と、慌てて言葉を続けた。

「手形のほうも手前どもで用意をさせて頂きますのでご心配なさらぬよう…」


 手形とは所謂通行手形のことで、当時は各地に関所や口留番所が設置されていて、人の移動は幕府によって厳しく制限されていた。

 公用・商用の旅、私用の観光旅行に係わらず許可が必要で、その許可を得ていることを証明するために、手形が必要だったのである。


「いや手形なんざ長屋の大家に言やあ直ぐに寄越すだろうからそっちこそ心配いらねえよ。何から何まで世話になっちゃ悪りいからな」

 清三郎としては、これくらいは面倒かけさせまいと本心から言ったつもりだった。

 しかし、どういうわけか新兵衛は、これまでの商人らしい顔から打って変わって無表情になって、

「いえ手形は手前どもにて用意をさせて頂きます。他国を通る故、いろいろと面倒なことがあっては手前どもとしても具合が悪うございますので。それに長屋の者に大坂行きが知られるのもはばかられますから…」

 不気味なほどその声は低かった。

 その迫力に押し切られた格好で、さすがの清三郎はこれ以上口出しをするのをやめざるを得ない。


「あ、あんたがそう言うならお言葉に甘えようじゃねえか」

「それでは上方行きのことはあまり広言しませんよう…」

 そう言い残して新兵衛は去って行った。


 商売敵に知られてはまずいというのが口止めの理由だったが、何となく承服し難い怪しげな雰囲気も拭えない。

 新兵衛が本当に信用に値する人物か、兵助にも清三郎にも一抹の不安があったが、きちんとした身なりで礼儀も正しく、どう見ても悪人のようには見えない。

 これ以上詮索せんさくするすべもないため、二人は腹をくくって全てを任せてみることに決めた。


 新兵衛が去った後、二人が五日後に来るべき旅路について語り合っていると、

「あんたたち大坂に行くの?」

 突然横から思いがけない声が飛んできた。


 その声の主は、隣の水茶屋の娘、おりんである。

 朱の襦袢じゅばんに縞の小袖を重ねて、髪には櫛とかんざしを一つずつ挿している。

 歳はまだ十六、七だから、化粧をしない素顔のままでいるが、陰気な親父に似ないで表情には愛嬌がある。

 きびきびと働いて客の評判も良く、玉屋の看板娘として毎日のように店に出ていた。


 兵助と清三郎は、握り詰の露店をいつもこの玉屋の隣で開いているものだから、すっかりおりんとは顔馴染みになっている。

 おりんはどうやら、さっきまでのやり取りを横からこっそり盗み聞きしていたようだ。

 広言しないようにと忠告を受けたにもかかわらず、早くも大坂行きを知る人物が出てしまったことに、兵助たちも思わず苦笑が出た。


「おめえには関係のねえことだよ」

 清三郎が冷たくあしらうと、おりんは頬を膨らませて怒ってみせたが、どうやら興味本位で首を突っ込んできただけで、旅に特別関心があるわけではないようだ。

「行くんならお土産買ってきてよね」

 などと軽口を叩いてもう他の客の応対をしている。

「無事帰ってこれたら買ってきてやるよ」

 清三郎は接客に勤しむおりんの背中に何気なく語りかけたが、これが旅の前途を暗示したものになるとは、この時は誰も知る由はなかった。

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